おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

例えば、「鳥」に関することだけでも、あるものです

 自分の一生で、「多分ないだろうな」と、漠然とあるいはハッキリと思っていた事に意外にも遭遇することがあるもので、人生は案外思いがけないものです。

 また、仮に思いがけないことに遭遇したとしても、案外その思いがけなさに無自覚だったりもするものです。でも、こうしてブログをやっていると、書いて言語化することによって、ハッキリと記憶に刻まれたり、あるいは自分で書いておきながら忘れていて、何かの機会に読み直して思い出したりといった、ブログのお陰が結構あるのです。

 例えば、「鳥」に関することだけでも、いくつかあるのです。 

 

 下は、言葉としては知っていても、実物は見ることがないだろうと思っていた「モズのハヤニエ」 を、実際に見られたという記事です。

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 下は、「けんもほろろ」の語源であるキジに、本当にけんもほろろにされてしまったというキジです。

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 さらに。

 下の記事は絶滅した「リョコウバト」について書いたものですが、その中で鳥類の博物画家のオーデュポンについてちょっと触れました。

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 ジョン・ジェームズ・オーデュポンについては、Wikipediaのリョコウバトに関する記述の中で知ったのですが、アメリカ中を回って鳥のスケッチをし、それを超大判の博物図譜(カラー図版)として出版した人物ということでした。

 その時から、オーデュポンの名前はなんとなく心に残りました。その超大判の図譜というのも、へーとは思いましたが、まさか目にすることがあろうとは、想像もしませんでした。それがなんと、弘前市青森県武道館で『世界の書籍展』という催しがあり、そのパンフレットに、

 世界に衝撃を与えた、超大判博物図譜『アメリカの鳥』(オーデュポン作の特別復刻版)も出品!

とあったのです。しかも入場無料!行って来ました~。

 残念ながら撮影は禁止だったのですが、見開き状態で展示されていて、一羽は『ブラジリアン・カラカラ・イーグル』、もう一羽は『パッセンジャーピジョン』、つまりリョコウバトだったのです!!!

↓ こんな感じでした。(図版は2枚ともWikipediaより)

 

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 超大判と書きましたが、では大きさはどのぐらいかと言いますと、1ページの縦がおよそ1m、見開きでは150㎝ほどもあるのです。オーデュポンがなぜそのような大きさで出版したかったかと言いますと、鳥を実物大で描くためなのだそうです。世の中には途方も無い人がいるものだなあと思いました。

 途方も無いと言えば、このたびは途方も無い台風が広く日本列島を襲いました。被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。

 一生で思ってもみなかったような経験が、必ずしも楽しい事や嬉しい事とは限りません。出来れば経験したくないような事も当然あると、改めて思いました。

 心構え、とは言っても、なかなか出来るものではないし、第一、自然は人間の想像をはるかに越えてしまうものです。せめて、「明日は我が身」という、言い古された言葉をかみしめたいと思うのです。では。

コスパ最高!つがるロマン

 お米は固めに炊いたご飯が好きです。今は土鍋で炊いています。土鍋で炊くとやっぱり美味しい気がします。でも、そのことが災いして、せっかく高いお米を奮発しても、違いが良くわからないのです。私の舌のせいもありますかね?

 

 

 『つがるロマン』はその名の通り、青森県のお米です。『あきたこまち』が「親」です。『つがるロマン』が出るまでは、『あきたこまち』が私の推し米でした。どおりで、口に合うはずです。タイトルにも書きましたが、『つがるロマン』の素晴らしいところは、価格に対するコスパの良さですね。この値段でこの美味しさは文句なし。固めのご飯が好きな方は召し上がって見て下さい。スッキリとした噛み心地です。また、さすが『あきたこまち』の「子」だけあって、冷めても十分美味しいので、お弁当やおにぎりにもピッタリです。

 

 さて、私が日常的に食べているのは『つがるロマン』ですが、奮発したり贈答用にするのであれば、こちらです。

 

  お米には等級というものがあるようで、それがどの程度正確な「目安」となるものなのか。私にはわかりません。わかりませんが、高い評価を受けるということは、多くの人に認められる美味しさと言うことになるのだろうと思います。

 『青天の霹靂』は上の商品説明にありますように、青森県初の「特A」米なのです。そして、生産者の並々ならぬご苦労があっての「特A」取得なのだろう事は分かります。

 実際に食べてみての感想は、正直に言って「よく分からない」なのです。だって、いつでもご飯はとても美味しいし、やっぱりお米にも慣れ親しんだ味というものがあって、『つがるロマン』も捨てがたいし・・・。

 でも、なんと言っても『青天の霹靂』の素晴らしさはそのネーミングにあると思うんです。凄いインパクトでした。まさに青天の霹靂!

 そのお米離れした語感もさることながら、「青天の霹靂」はどちらかというとネガティブな意味合いが大きい言葉ですよね。世間を驚かすような出来事は、たいがい悪い意味でショッキングな事が多いです。それを念願の「特A」米につける思い切りの良さ。私はいい!と思いました。それになんと言っても、お米と雷は切っても切れない仲なのだし、あながち悪くないネーミングかもしれないと思うのです。

 このお米と雷との関係については、

 ※ 詳しくは下記を是非お読み頂きたいと思います。では。(今日はダジャレがない?と思われた方、※に注目。こめ印でした、フフ) 

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

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アクリル毛糸でタワシを編んでみた

 何年か前、アクリル毛糸で編んだタワシが大流行した、という事は知っています。私は編み物は多少出来るのですが、その頃はあまり「タワシ」には興味が無かったので(今も無いですが)、へーっと思いはしたものの、特に画像をググったりもせず、無関心でおりました。

 先日、ちょっとしたことから「タワシ」を編んで欲しいと、アクリル毛糸を二個、託されました。全く自由に編んでいいということだったので、ネットで編み方をググり、簡単なものは編み図をみて、複雑なものはyoutubeでやり方を観ながら編みました。二玉で四枚出来ました。

 

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 面白いほどあっという間に完成するので、ちょっとハマりそうです。ググればググるほど、可愛いものや編み方の面白そうなものがあるんですよ。

 自分用を編んでみようと思っているのですが、本当に洗剤いらずで油汚れが落ちるのか、落ちるのならなぜ落ちるのか、気になって調べて見ました。

 

 アクリル毛糸で汚れが落ちるのは、一つには繊維の構造にあるそうです。アクリル毛糸はたくさんの細い繊維が絡まって一本の糸が出来ているため、その一本一本が汚れを掴むことになり、また摩擦も強くなるため、汚れを掻き落とすことが出来るそうです。

 もう一つ重要なのは、アクリル繊維は石油製品だという事なのだそうです。もともと「油」から出来ているため、アクリル繊維は油とくっつきやすい(これを親油性と言います)のだそうです。簡単に言うと、お皿についた油汚れに対して「お皿より、私とくっつきましょうよ」と誘うと言うことです。

 そして、アクリル毛糸は中空ではないため、油を吸収はしないので、使用後はお湯で洗ったり少量の洗剤で洗ったりで綺麗になるのだそうです。

 とりあえず納得出来たので、作って使ってみようと思います。から拭きにも使えるそうですし、台所だけではなく洗面台やお風呂場でも使えるそうです。

 

 ところで、アクリル繊維のアクリルですが、どういう意味なのだろうと気になって、調べて見ました。こういう時の強い味方、『Yahoo!知恵袋』で。

 『知恵袋』によりますと、アクリルとはラテン語で「鋭い臭い」、つまり「異臭」を意味するのだそうです。そうなりますと、次に気になるのは、あの毛糸洗いに自信が持てると言う、『アクロン』という商品名の由来です。こちらは『Wikipedia』によりますと、「代表的合成繊維であるアクリルとナイロンをくっつけた」らしいです。

 ライオンさん、いいんでしょうか?アクリルの語源は「異臭」なんですが・・・。

 ちなみに、英語のissue(イシュー)には、問題点という意味もあります。ちょっと出来すぎ感のある今日のまとめになりました。では。

久しぶりに草引き

 老化のせいか、朝、とんでもなく早く目覚めるようになってしまったので、そんな時は思い切って早起きして、草引きなんかしています。って、以前に書きました。

 草取りではなく草引きと書くのは、我が家には庭がなく、猫のまぶたほどの狭い狭い隙間に生える雑草駆除なので、その方が相応しいと思ってのことです。

 最近は日の出が遅くなったからなのか、はたまた、私のホルモン分泌状態が良くなったのか、普通に目覚めるようになりました。そうなると、草引きの方はサボりがちで、気にはなりつつも放っておきましたら、水道メーターの所が結構「草」になりまして。

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 これはちょっと水道の検針の方に申し訳ないし、今日は曇りで暑くもないしということで、ここだけ久しぶりの草引きをしたのです。

 始める前にざっとみても、この狭い面積に色々な種類の雑草が生えていることがわかります。

 ということで写真を撮ったわけです。そして、草を引っこ抜いた後、何種類生えていたか並べてみました。

 

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 全部で12種類!この狭い地面に12種類ですよ。改めて自然の多様性と言いますか、雑草の生命力の強さと言いますか、驚かされました。かつて昭和天皇がおっしゃったという、「雑草という草はない」というお言葉が浮かびました。

 上の12種類の中で私に分かったのは、ヨモギタンポポカタバミぐらいですが、私がその名を知っていようがいまいが、そんなこととは無関係に、草は根を張り葉を広げます。凄いなーと、感嘆の念はあります。ありますが、だからと言って草ボーボーは許すまじ。これからも私の草引きはサボりサボり続くのです。写真をご覧になって、あまり丁寧にやってないということがばれました?皆さん、雑そうと思ったでしょうね。では。

 

映画『ジュリエッタ』が、妙に頭を離れない

 去る9月28日(土)、NPO法人harappa主催の映画の催しがありました。場所は弘前市のデパート『中三』8F。映画は三本上映されたのですが、私は所用のため、10:30からの上映作品である『ジュリエッタ』だけ、観に行きました。

 

 『ジュリエッタ』は監督・脚本ペドロ・アルモドバル、2016年のスペイン映画でした。私はスペイン映画を観るのは多分初めてで、監督についても演者についても、全くなんの知識もありませんでした。でも、凄く良かった~。以下、大いにネタバレ。

 

 ジュリエッタは若い頃、列車で知り合った男性と、その車内でいきなり「いたして」しまうのです。一夜限りの出会いでしたが、お互いにお互いが忘れられず、二人は再会し、結婚します。実は再会した時点で、既にジュリエッタは彼の娘を妊娠していました。

 ジュリエッタの母は若年性の認知症で、その介護のために父は早期退職し、田舎に引っ込みます。でも、その父は若い家政婦と浮気しており、そんな父をジュリエッタは許せない。でも、ジュリエッタが列車で(未来の)夫と出会った時、彼には植物状態の妻がいたのです。つまり、夫は父と同じ立場、ジュリエッタは家政婦と同じ立場。

 

 夫が他の女性と肉体関係を持ったことが原因で、二人は夫婦喧嘩。ジュリエッタは頭を冷やしに「散歩へ行くわ!」、夫は悪天候なのに「俺は漁に出る!」。そしてその嵐のため、彼は命を落とします。抜け殻のようになるジュリエッタ

 

 ジュリエッタを献身的に支える、ティーンエイジャーの娘。「父を失った娘」であるより、「夫を失った母」を支える役に徹するのです。が、やがて、彼女は失踪。ジュリエッタの時は止まってしまいます。長い年月の後、音信不通だった娘から手紙が来ます。

 「お母さん、私は事故で息子を失いました。今、私が去ったときの、あなたの気持ちがわかります」

 

 以上、ざっと筋を紹介しましたが、子が親の人生をなぞるかのような展開があって、歴史は繰り返すと言いますか、四字熟語で表すなら「因果応報」と言いますか、考えさせられるのです。人間って、なんだか同じ所をグルグル回っているんだな~とか、ギリシャ悲劇の時代から変わってないんだろうなあとか、そんな事を。

 そして、そんな事を思いつつも、ずっと頭から離れないのは、「言葉」の無力さということなんです。

 ジュリエッタは列車の中でいきなり「彼」と結ばれますが、それは尋常ならざる精神状態にあったからなのでした。

 一人旅のジュリエッタの向かいの座席に、「話し相手になりましょう」と中年男性が座ります。でもジュリエッタは彼が気持ち悪く思われ、食堂車へ。列車がある駅で停車し、再び走り出すと、人身事故が起こります。犠牲者はその中年男性で、覚悟の自殺と思われます。ジュリエッタは自分が話し相手になっていればと、激しく動揺します。

 

 このエピソードは明らかに「会話が不在」で、そのせいかどうかは分かりませんが、悲劇が起こります。そして、物語全体を通して、ジュリエッタと他者との間には「会話」がないのです。

 ジュリエッタは、「理解して欲しい」という父を拒絶しています。

 夫との夫婦喧嘩は、罵り合うこともない代わりに、永遠の別れで終わりました。

 ジュリエッタと娘は、女同士でもあまり会話のない関係でした。「言わなくても分かっていると思っていた」と、後年、ジュリエッタは語ります。

 さらに、物語の冒頭では、未亡人のジュリエッタに恋人がいるのですが、彼女は何も言わず、彼と別れるのです。

 

 このように、大事な人達との関係において、ジュリエッタは大事なことは何も話さないのですが、それは何を意味するのでしょうか。

 実は、ジュリエッタは若い頃「歴史」の臨時教員をしていました。彼女の授業風景が描かれるのですが、とてもイキイキとした興味深い授業で、生徒の評判もいいのでした。彼女は決して口下手ではなく、むしろ魅力的な語り手なのです。彼女は他者と会話を楽しむ能力があり、そして実際に楽しんでもいたでしょう。

 ジュリエッタは他者と会話しなかったのではなく、問題は、会話というものには限界があるということなのではないかと思うのです。

 その限界とは、先に書いた「言葉の無力さ」ということのような気がするのです。

 自分でも自分の気持ちを言葉に出来ない。言いたいことが相手に十分に伝わらない。大事な場面であればあるほど、沈黙を余儀なくされてしまう。

 人間関係が「言葉」に依るものであれば、それが不完全であることのもどかしさ。人は結局わかり合えないものなのかという、古くからある問いに立ち返ってしまうのです。

 

 物語は、傷心の娘のもとへと向かう、ジュリエッタを乗せた車のシーンで終わります。運転しているのは再び戻って来た恋人です。

 人間同士がわかり合えるものなのかどうかは分かりませんが、いずれにしろ、生きていくためには他者を必要とするのが人間なのです。

 人の間と書いて人間、「言葉」ってやっぱり凄いかも。では。

 

 ※人の間から、はみ出してまう、それを間抜けと言うのかな?では、では。 

月並みですが、「食欲の秋」で

今週のお題「○○の秋」

 

 最近は美味しいものを食べるが本当に楽しみです。「何を当たり前のことを」と思われる向きもあるかも知れませんが、ほんの半年前までの私は、そうではなかったんです。

 半年前まではフルタイムで働いていました。朝はトースト一枚。昼食は職場でお弁当を注文して食べていました。一人暮らしなので、夕食は適当に作ることもありましたが、途中でお惣菜を買って帰ることも多かったです。さらに、職場が結構、宴会の多い環境だったので、かなり頻繁にパーティー料理も食べていました。

 仕事を辞めて変わったことの一つに、宴会がほとんど無くなったということがあります。当然、豪華なお膳や、にぎやかなビュッフェのお料理とは疎遠になりました。

 また、お惣菜もあまり買わなくなり、自分で作ることが多くなったのですが、それ程料理好きではないので、簡単なものをつくり、2回3回と食べます。そして、ここが重要なのですが、使う材料がだいたい安いものなのです。そう、節約のためです。

 もともとグルメというわけでもなく、特に食べ物にこだわりもないので、普段の質素な食生活に不満はないのです。ところが、自分でも予期しなかった変化がありまして、たまに高いものや美味しいものをいただくのが、嬉しくてしょうが無いのです。

 働いていた頃は知らず知らず贅沢になっていて、豪華なお料理を前にしても、それほど気持ちが盛り上がりませんでした。でも、今は違います。お友達と行くランチや、たまーに出かける夜の会合など、目の前にお料理が運ばれてきた段階でワクワクしてしまうのです。

 「美味しいものを食べるのが好きっていう人は、こんな感じだったんだー」

五十八才にして新境地です。この話を十才ほど年上の知人にしたところ、彼女の反応はこちらがビックリするほど大きなものでした。

 「なるほどね-。食べることが嬉しいって。美味しいものが、そう嬉しいとは。なんとねー、なるほどねー」

 彼女は何回も繰り返し言うのです。

 何が彼女の心を刺激したのかわかりませんが、後日会った際におっしゃるには、ご主人にもこの話を教えたのだそうです。そうしたところ、ご主人の反応も、

 「なるほどなー。それでいいんだ。そうでいいんだ」

というようなものだったそうです。

 そのご主人の話を聞いて、私はなんとなく分かった気がしました。

 「飽食」の日本にあって、食べ物を前にワクワクするような経験は、実は貴重なものかもしれないのです。特に年配者にとっては。

 普段の食事がそこそこであれば、何万円もするような、あるいは一年に一度や二度といった食事は例外として、ちょっとやそっとのメニューでは、ワクワクと言うほど年配者の心は弾まないのだと思います。ところが、私のように日常が質素であれば、反動でご馳走の喜びが大きくなるわけです。

 でも、その喜びのために普段を質素にするなんて事は出来ないわけで、知人のご夫妻が私の状況に賛嘆とも言えるような反応を示したのは、自分たちには不可能な幸福を私が手に入れているから、ということではないかと思ったのです。

 例えて言うなら、文明人が自分たちには無理だとわかっていないがら未開の生活に憧れたりするような・・・(ちょっと例えが大げさ?)

 

 せっかく手に入れた「食べることにワクワクする」という境遇。そして、時は「実りの秋・食欲の秋」。大いに楽しみたいとおもいます。ただし、太らないようにという条件付きではありますが。

 

 そして、その舌の根も乾かぬうちに、最近はまっているチョコレートをご紹介。

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これは、ヤバイ。アーモンドとチョコレートって、美味しくないわけがないわけで。

『口の中が美味しさのラッシュアワーや~!』ということで。では。

 ※弘前の方へ 中三の食料品売り場で売っています

『なつぞら』、終わりましたね・・・

 何回か拙ブログで取り上げた、NHKの朝の連続テレビ小説なつぞら』、今日が最終回でした。

 せっかく最後まで見続けた朝ドラ、やっぱり感想を書きたいと思います。テーマは、「可哀想な登場人物、ベストスリー」です。

 

第3位 柴田家の長女・夕見子(ゆみこ)

 主人公・なつ(広瀬すず)の劇中の台詞にも有りましたが、「夕見子は、なつがやって来たことにより、両親や祖父の愛を削られた」子なのです。特に草刈正雄演じる祖父の、実の孫達を差し置いてのなつに対する偏愛は、「?」レベル。私が特に印象深かったのは、男と駆け落ちした夕見子を祖父が東京に連れ戻しに行った時の一コマ。

 祖父が来てくれたことが嬉しくてたまらない様子の夕見子。「じいちゃん、パフェ食べに行こ」と呼びかけるも、じいちゃんの視線は未練がましく職場に向かうなつを追うのでした・・・。

 なつの娘が小学校入学に際し、じいちゃんの「行ってやれ」の一声で、柴田家の母が孫娘の世話をするため、東京へ。入学式にも参列していました。でも、夕見子の一人息子も確か同い年、つまり小学校入学だったと思うんです(てるお兄ちゃんの二男も?)。

 夕見子、息子の入学を実家でも祝って欲しかったろうな。それとも、小さいときからずっと「なつファースト」で、何も感じなくなっているかな?我慢が当たり前になってしまって・・・。

 

第2位 同僚の娘・明子(めいこ)ちゃん

 子どもが出来たときのことを何も考えずに妊娠し、生まれてしまってから右往左往するなつ夫婦に、救いの手を差し伸べ、優ちゃんを預かることにした、元同僚のあかねさん。あかねさんも大変でしたが、それは本人が選択したことであり、そのことで一番の被害者となったのは、あかねさんの娘・明子ちゃんではないでしょうか。

 本来であれば、長子としてママを独占できたのに、いきなりよその赤ちゃんがやって来て、どれほど我慢させられたことか。せっかくの、パパ・ママを独占できるお誕生日も、優ちゃんが飛び入り。しかも、なつおばさんからはプレゼントもないどころか、誕生日を覚えられてもいない。扱いがぞんざい過ぎ。可哀想に。

 保育園からの帰り道、あかねさんが明子ちゃんと優ちゃんに、夕飯は何を食べたいか尋ねます。まず、優ちゃんに。大人の常識としてはそうでしょう。気配りですよね。でも、子どもの明子ちゃんの思いはどうだったでしょう。いつも、優ちゃん、優ちゃん。優ちゃんが先。お姉ちゃんって、損だよね、辛いよね、しかも、本当の妹も生まれるし。どうか明子ちゃんが寂しさを抱えたまま成長することがないよう、ママもパパも、いっぱい可愛がってあげて欲しいなあと思うのです。

 

第1位 なつの初恋の相手の天陽君の未亡人

 死を悟って病院を抜け出してきた来た天陽君が、奥さんにかけた言葉。

 「お前と結婚して良かった。お前が畑仕事を頑張ってくれるお陰で、僕は絵を描いて、僕が僕でいられる」(ちょっと違うかも。ご容赦)

 ヒドイ、あまりにもヒドイ。私は特に、「お前と結婚して良かった」の部分がカチンときます。「いくつか選択肢があって、迷ったけど、結果的に正解!」ってことでしょ。何様?

 奥さんは重労働の畑仕事どころか、夫の両親と完全同居で、しかもいつまでたっても貧しいまま。それなのに、天陽君が亡くなったあと、両親は東京でノホホンと暮らす長男と勝手に「畑を売って離農する」とか言い出す。奥さんにはなんの相談もなく。

 その長男がマコプロの同僚と十勝に取材にやって来たときのこと。必死に畑を耕す弟の未亡人に対し、その姿を暢気にスケッチする義兄。義理の両親も何も言わないのでしょう。人の心がない!とまで思ったシーンでした。

 いよいよ最終回。嵐で畑がダメになってしまい、残ったジャガイモをせめて加工用にと収穫する未亡人。そこへ手伝いにやって来たなつとじいちゃん。最初は「気がきくじゃないか、さすがじいちゃん」と思ったんです。でも、この二人は、ろくに手を動かさずしゃべってばかり。おまけにじいちゃんが盛大にこけて、一緒になつも倒れ込み、二人で幸せそうに笑い合うのです。

 それって、ただでさえ貧乏なところに、畑や家に甚大な被害を受けた人の前ですること?本当に未亡人が気の毒でなりませんでした。

 最後に、この未亡人のために祈りたいことがあります。それは『雪月』の包装紙のことです。丘の上に赤い服の女の子が立っている、天陽君が描いた絵です。ストーリーの中では、あの女の子は幼い頃のなつだということが語られています。でも、未亡人はその事を知らないはずです。天陽君夫婦には娘と息子がいます。娘さんはあの包装紙の女の子は私だと思っていると思うんです。お父さんが私を描いてくれたと。もちろん奥さんだって、そう思っているはずです。どうか、誰も余計なことを奥さんの耳に入れませんように。

 母娘が、ずっと幸せな誤解をしていて欲しいと思うのです。だって、これ以上可哀想な目に遭って欲しくないもの・・・。

 

 朝ドラって、女性視聴者が多いと思うんですよ。女性って、共感を重要視しますよね。ドラマの登場人物にも、「わかる、わかる」って感情移入したいと思うんです。今期の朝ドラはその点で難しいものがあったと思うんです。主人公以外の扱いが非道すぎるというか・・・。

 上に書いた「包装紙」の件なんて、なんであんな内容をほうそうしたのか。理解に苦しみます。主人公を持ち上げるために、回りの人間を踏みつけにするようなストーリーは、共感は呼ばないと思います。半年にわたって、毎朝みる朝ドラです。せめて主人公を応援したくなるようなストーリーであって欲しいと思うのです。では。