おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「日本三大車窓」って、噛まずに言える?

北海道の旧根室本線「旧狩勝峠」、長野県篠ノ井線姨捨付近」、

宮崎県・熊本県の「矢岳」を日本三大車窓と言うのだそうです。

 

 昨年7月、長野県松本市を訪れました。往きは東京経由で、復路は松本から長野、その後は新幹線を乗り継いで青森へ、という旅程でした。往きの東北新幹線で手に取った広報誌「トランヴェール」は信州特集。やったね。幸先のいい旅のスタートを喜びながら、丁寧にページを繰りました。

 

 「日本三大車窓」はその広報誌で初めて知りました。へー、そんなのがあるんだ。一つは長野県かあ。残念、今回はご縁がないみたい。それにしても、「姨捨」ねー、長野県だったんだー。いつか行ってみたいなあ。そんなことを考えたりしていたのもほんの束の間、たった一泊の松本の旅はあっという間に終わり、松本駅から長野行きの特急列車に乗り込みました。

 

 出発して1時間ほどたったでしょうか。車内アナウンスがありました。

「間もなく姨捨を通過致します。右手には田毎(たごと)の月で知られる棚田、遠く善光寺平、千曲川がご覧いただけます。どうぞ日本三大車窓に数えられる景色をお楽しみ下さい」

ざっとこんな感じ。色めき立ちましたとも。ラッキー、「日本三大車窓」の一つが見られる。大急ぎでカメラ、カメラ。

 

 

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 はい、ボケボケです。しかも、「姨捨」をだいぶ過ぎての風景です。

 「田毎の月」とは、小さな棚田の一つ一つに月が映る様をいい、古くから月見の名所とされてきたのだそうです。

  今日は中秋の名月。それぞれの家ごとに、いいお月見が出来るといいですね。

 

 それにしても、「特急しなの」の車掌さん、「日本三大車窓」と言うとき、緊張しませんか。噛みそうになりませんか。姨捨だけに老婆心ながら、「車掌の車窓」が心配です。


 

お彼岸なので「おはぎ」について

 彼岸の中日→お墓参り→おはぎ、この連想は年配者では多数派でしょう(自信)。

 「おはぎ」は好きですが、手作りしたことは一度もないです。息子達が食べないので、作る張りがないというか、きっかけがなかったというか。人生で一度ぐらいは作って見たい気もしますが。せめて、「おはぎ」を巡る思い出話・言葉遊びでもしてみたいと思います。お付き合い下さい。

 

 中学校で「国語」の時間に、「ちごのそら寝」って習いましたよね。

 お稚児さんが、『かいもちひ』が出来るまで、寝たふりをして待っていた。「かいもちひが出来ましたよ。起きなさい」と声がかかったけれど、一度で起きては、待っていたように思われる、もう一度呼ばれたら起きよう。ところが、「せっかく寝ているのだから、そのままに」。え~、そんな。仕方ない。だいぶたってしまったけれど「はい」と返事をした。狸寝入りがばれて、大いに笑われた。

 

 あの『かいもちひ』とは、今でいう「ぼたもち」のことと習いました。そして、「ぼたもち」の別名は「おはぎ」です。でも。私の家には、「ぼたもち」という言葉はありませんでした。一年を通して「おはぎ」です。春のお彼岸も「おはぎ」。多分、私の家だけではなく、私の生まれ故郷では「おはぎ」が一般的だったのだと思います。

 「かいもちひ」が「ぼたもち」だと解明されても、なお「ぼたもち」って何?という疑問が残る田舎の子。田舎に生まれるって、大変なことなのです。

 

 「おはぎ」は、ご飯の半分ほどを撞いて作るので、「半殺し」とも呼ばれるって、知ってます?私は57年の人生で、たった一人だけ、おはぎのことを「半殺し」ってよんでいる人を知っています。同郷の年下の女性ですが、なぜ彼女がそういう呼び方をしていたのか、謎です。彼女は容姿も性格もとても可愛らしい人で、その口から発せられる「半殺し」という言葉のギャップ。なかなかに面白かったのです。

 

 最後に、昔の「なぞなぞ」です。私世代よりも、さらにひと世代上の時代の「なぞなぞ」です。小学校の時、担任だった年配の先生から教えて頂いたのです。その先生がおっしゃるには、昔の人は、本当に英語だと思っていたということでした。

 

問題  英語で「ヒネルトジャー」は水道。では、「ナカメシグルリアン」って、

    なあんだ?                            (答 中が飯でぐるりが餡、おはぎです)

 

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 「ナカメシグルリアン」を紹介した後は、すんごいピンボケ写真なのですが、どうしてもこれを載せたかったのです。

 天正遣欧使節団、向かって一番左が「中浦ジュリアン」なのです・・・。

 

我、宇宙を創りたもう

 とうとう、iPS細胞で、卵子の元の元を作り出すことに成功!だそうです。いや~

凄い、凄いことです。

 

 実は、この私も負けないぐらい凄いんですよ。タイトルに偽り無しです。まずは、下の写真をご覧下さい。

 

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 今から15年前。私と息子その1の間で「錦石(にしきいし)ブーム」がおきていました。錦石とは津軽地方の名産で、磨くと美しい色・光沢が味わえる天然石で、小さな物はペンダントトップ等に。大きな物は床の間の飾り物等に加工され販売されています。

 近年は人気は下火らしく、日本一の「弘前公園桜祭り」に出店しても、「錦石店」は閑散としています。その錦石に、私はともかく、小学生の息子まではまったのですから、遺伝とは恐ろしい物です。

 さて、写真の説明に戻ります。15年前のある日。職場の玉砂利の敷かれた通路を歩いていた私は、ふっと目を引かれる物を察知しました。「錦石だ」、一個発見。あたりをじっくり見回すと、さらに2個。計3個の錦石を職場の敷地内でゲットしたのです。ポケモン・ゴーを15年前に先取りしていたようなものです。

 自分の机にもどり、入れ物を探したところ、飴か何かの空き瓶がありました。蓋の金色もいい感じの瓶だったので、水と3個の錦石をいれて机に飾って、しばらく眺めて楽しむことにしたのです。水をいれたのは、錦石は乾いた状態より、濡れている方がきれいだから。

 結果的に、水道水を入れたことが功を奏しました。

 最初は、少しの間、楽しむつもりだったんです。錦石といっても、たいしたものでもないし、飽きるか、水が濁るかしたら捨てるつもりでいました。ところが、いつまでたっても水は濁リもしないし、減りもしない。そのうちに、錦石から、モヤモヤと「藻」が育ち始めて。少しずつ、でも確実に育って。気づけば15年。ここまで来てしまったら、捨てられないでしょう。

 水道水の殺菌力で、この「藻」以外の、苔などの生命は失われたこと、何気なく締めた蓋が完全な密閉状態をうんだこと、私が物を捨てない性格であること、奇跡のコラボレーションが、この閉ざされた「系」に、ここだけの命の営みをもたらしたのです。これはもう、小宇宙といってもいいでしょう。そう、私は創造主なのです。

 

 創造主とは神。でも、さすがに、神様を自称するのは気が引けるので、「様」ではなく、「さん」付けぐらいにしておくことにします。「かみさん」ということで。では。

 

「アメリカって凄い」と思った

 昔読んだ、多分、阿刀田高?のエッセイに、

 戦後になって、姉はラックスの石けんを使ったとき、私はハーシーのチョコレートを食べたとき、「こんな凄い国を相手に勝てるわけがない」と思った。

 というような記述があったはず。確か、阿刀田氏にはお兄さんもいて、お兄さんはアメリカの機械か部品か、そんなふうな物に「勝てるわけない」と感じたみたいな記述もあったと思う。何ぶん、何十年も前に読んだ本で、作者が阿刀田高だという記憶があるだけでも褒めて欲しいぐらいなので、あやふやさは勘弁して下さい。

 

 それから、これは誰が書いていたか完全に忘れたけど、

  戦前にアメリカは、映画『風と共に去りぬ』を作っていた。勝てるわけがない。

 という内容の文を読んだこともあります。

 

 私も最近、「アメリカには勝てない」って思うような体験をしたんです。

 アメリカのテレビドラマ「Bones 骨は語る」をみたことはありますか?現在は放送終了ですが、数年前には息子その2と一緒に、欠かさずみてました。

 その、シーズン8・第11話の中の、あるエピソードをかいつまんで書くので、読んで下さい。

 3体の古代人類の骨が発見された。調査にあたった研究員は、「大人の2体は、ホモサピエンスネアンデルタール人の男女、残りの1体は子供で、大人二人の特徴を併せ持つ。つまり、ホモサピエンスネアンデルタール人は交雑し、子供を作った」と結論付けた。

 この放送を見たとき、「はあ?」と思ったんですよ。いくらドラマとはいえ、そんな荒唐無稽なエピソードぶっこんでいいの?って。

 ところが、最近、話題の本「サピエンス全史」を読み始めたんですけど、その29ページの記述。

 中東とヨーロッパの現代人に特有のDNAのうち、1~4%がネアンデルタールのDNAだったのだ。

 つまり、ホモサピエンスネアンデルタール人は交雑していた可能性があるということなんですよ。現段階では、あくまで可能性ということらしいのですが。

 

 まだまだ研究の余地のあるそういう仮説をドラマに取り入れるなんて、よほど監修者や制作協力者にお金をかけなければ、出てこない発想だと思うんですよね。

 アメリカって、凄い!

 つくづく思いしらされた感じがしたのでした。

 

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上野の「国立科学博物館」のネアンデルタール人です。

 

昔、『Bones 骨は語る』を二人で見ていた頃の、息子その2ジョーク。

息子その2 「一文字変えて、メッチャつまんなさそうなタイトルにするから。

        『Bones 骨語る』どう?」

 

いや~、センスあるわ~。さすが、サピエンス(ラテン語賢い)。私って親馬鹿?

 

芸術の秋に「芸術とポリティカル・コレクトネス」を考えた

 方言詩人・高木恭造(1903~1987)は青森市出身。弘前市で眼科医院を開業する傍ら、津軽弁による詩作・朗読を行い、高い評価を得た。方言詩集「まるめろ」は海外でも翻訳された。

 

高木の有名な詩に「冬の月」という作品があります。

 

嬶(かが)ごとぶたらいで戸外(おもで)サ出はれば で始まるこの詩を私が標準語で要約しますと、以下のようになります。

 

   女房をぶん殴って外に出れば、まん丸の月だ

   吹雪の後の吹きだまりを、ずんずん歩いてきた

 

      なんで、あれ程の憎しみが湧くのか

      そして、今はまた、愛しいと思う不思議

 

   ああ、吹雪のようだ

   過ぎてしまえば、まん丸の月

               

 ※津軽弁の「まんどろな月」は「明るい月」という意味のようですが、明るい月=満月と解釈し、語感を生かすためにまん丸と標準語訳にしてみました。

 

 昔は、この詩、好きでした。ところが、今はもうダメなんですよ。受け付けないの。DV夫のあまりの身勝手さにうんざりさせられます。時代は変わりましたね。ほんの50年ほど前までは、夫が妻を殴るのは当たり前。女は黙って殴られるのが仕事。下手をすれば、殴られるような妻が悪いという理屈でしたよね。

 さらにこの詩で気持ち悪いのが、いわゆる「ハネムーン期」(暴力を振るった後の優しくなる期間)の表現です。ほんと、パターンどおり。

 

 ポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)という言葉を良く耳にするようになりました。「政治的正しさ」という意味ですが、本来の使い方から波及して、差別や暴力等を含んだ表現を批判する場面でしばしば使われるようです。あまりに行きすぎた批判も見られるため、「ポリコレにはうんざりだ」という立場も生まれています。

 

 「冬の月」は、ポリコレを持ち出すまでもなく、DVという概念を知ってしまった私にとって、完全にアウト。「詩」として美しくても、文学としての完成度が高くても、芸術として価値があろうとも、私が感じる「嫌悪感」を覆すことは出来ない。

 

 DVを是としないことによって好きな作品を失う。仕方ない。残念ですが、「失う」方を選びたいと思います。ポリコレとは、そういう痛みを伴った主義主張でもあるのだと再認識しました。もし、私が誰かに殴られて、その殴った誰かが、そのことを詩にする。ウットリと自己陶酔しながら。その詩がいかに素晴らしかろうとも、冗談じゃないぜ!ということなのです。

 

写真はヴァチカン「サンピエトロ大聖堂」のまんどろなドームです。

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今日は理屈っぽい話を読んで頂いて、「どーむありがとうございました」

芸術の秋に「芸術と猥褻」を考えた

 「境界線上のホライゾン」というライトノベルの表紙を巡って、いろいろ議論があるらしいと、はてなブログお勧め記事を眺めていて知ったわけです。そして、困惑しているのです。

 

GENESISシリーズ 境界線上のホライゾンXI<中> (電撃文庫)

 まず、このライトノベルの表紙をみて私が感じた第一印象は、「気持ち悪い」でした。議論の発端となったツイッター主さんの幼い娘さんと同じ感想です。こんな嫌悪感を感じるものは見たくない、公衆の目に触れていいものだろうか、と思ったわけです。でも、そこで私は、はたと、あるニュースを思い出したんですね。

 

bijutsutecho.com

 

 バルテュスは20世紀を代表する巨匠で、生前にルーブル美術館に作品が展示された数少ない画家の一人なのだそう。ほら、すごい「箔」のついている芸術家でしょ。そんなバルテュスですが、私生活はかなりスキャンダラスで、彼の少女をモデルとした作品は、いかにもロリータ趣味という感じがします。

 

 『夢見るテレーズ』に対して、「少女を性の対象としている」とか、「盗み見を肯定している」と騒いで撤去を求めた女性達がいるというニュースを聞いたときは「不道徳も芸術のウチ、個人の好悪の感情で騒ぐのはいかがなものか」と思ったんですよね。

 ところが、今回、「境界線上のホライズン」の表紙に対して、私が下したのは、まさに個人の好悪による価値判断だったと思うんです。私が「境界・・・」に対して感じたと同じ様な気持ち悪さ・不快感を「夢見る・・・」に対して感じる女性がいてもおかしくはないし、その結果、「撤去を求める」という行動に出る自由もあるわけです。

 

 一方は明らかに「劣情を催させる」ことを目的にしたイラストであり、もう一方はメトロポリタン美術館に飾られた巨匠の作品。でもそんなこと、関係なくないですか?何がポルノで何が芸術なのか、誰が決めるの?どうやって決めるの?マネの『オランピア』だって、発表当時は非難囂々だったじゃない。そんな風に考える自分がいます。

 と同時に、あの表紙の絵はやっぱり受け付けないし、あれを公然と人目にさらして平気な感性の持ち主とは相容れないとも思うのです。(私は、ああいうものを無くせとは思ってはいないです。特殊な性的嗜好はこっそり、ひっそり楽しんで頂きたいと思うの。その方が楽しくないですか?)

 というわけで、最初に「夢見るテレーズ」を巡るニュースに接した私と今の私では、「芸術か猥褻か」という、古くからある命題に対して立ち位置が揺れてしまっているのです。そして、実はですね、それまで特に何とも思っていなかった「夢見るテレーズ」を始めとしたバルテュス作品に対して、なんとな~く、いや~な感触を持ち始めているんですよ。

 「境界・・・」と「夢見るテレーズ」を隔てるものは何か、明確な答が出せない以上、片一方を排斥するわけにはいかないのではないか。でも、一切がっさいを陽の下に晒す、それは正しいのか。そんな思いに揺れる「芸術の秋」を迎えた私なのでした。皆さんはどう思われます?

 ※ダジャレを意図したわけではないのですが、まさに芸術と猥褻の「境界」を考えるきっかけとなったラノベでした。

 

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 マネ作『オランピア』。娼婦だとわかるように描いたことが非難の的となったのだそうです。

 ちなみに、津軽弁では「まね」あるいは「まいね」とは、「だめ」という意味です。

 例文1 マネの真似して描げば、まね。(マネの真似をして描いてはだめだ)

 

食洗機メーカーの回し者ではありませんが・・・

 「食器洗い機」を買うべきかどうか悩む方が、意外に多いようですね。私自身はもう、20年以上愛用しています。食器を洗うのが好きな方は「手」で洗えばいいでしょうし、好きじゃない方、あるいは好きなんだけれど時間的余裕が無い方には、食洗機、お勧めです。その際、予想される質問として「汚れはちゃんと落ちるの?」があります。

 

 実際、ネットで「食洗機」を巡る口コミをみても、「問題なく落ちる」という人もいれば、「汚れが残る」という意見も必ずあります。それらのやり取りをみていた私は、ある重大な、言語学的問題に気づきました。それは、標準語には、「うるがす」という動詞がなく、そういう動詞が無いということは、「うるがす」という概念が無いということを意味するのではないかということです。この「うるがす」という概念は、ひょっとしたら、食洗機を巡る「落ちる・落ちない論争」に終止符を打つことになるかもしれません。

 

 うるがす(がにアクセント)は、青森県では広く、頻繁に使われる「動詞」で、「何かを水やお湯につけて、ふやけさせる」という意味です。「ふやけさせる」という明確な目的を伴って成立する動詞なので、単に、水やお湯に何かをつけるだけの場合は用いません。例えば、同じ足を温泉につけるという動作でも、「足湯」を楽しむという場合には使わず、かかとの角質をこすって落とすためであれば「足、うるがす」という言い方が可能になります。

 青森県から東京などの都会に出て、方言の通じない相手と話す際には、方言話者は頭の中で方言を素早く標準語に置き換えて、発話します。そして、そんな会話を重ねたある日、上京した青森県人は、深い戸惑いの中に立ちすくむことになります。

 「うるがす」って、標準語で何て言えばいいの?

 その青森県人は、「ご飯茶碗に付いたご飯粒は、乾くと容易にはとれないから、水でふやかして落としやすくするために、洗い桶に漬けておいて」って、言いたいんです。でも、日常生活でこんな橋田壽賀子ドラマみたいなセリフ、とても言えないでしょう。「う・・」と言葉に詰まるわけです。これが、青森県人同士であれば、事は簡単、

 「ご飯茶碗、うるがしておいて」で済むんです。

 

 「うるがす」という言葉、つまりは「概念」を持つ青森県人にとって、ご飯茶碗を筆頭とした「落ちにくい汚れ」のついた食器は、洗う前に水で汚れをふやかしておくのが当たり前、子供の頃から身についた「ご馳走様」からの一連の流れになっているのです。

 「食洗機」ではご飯粒が落ちないとか、使った後に食洗機自体を掃除するのが面倒といった書き込みを不思議に思いながら読んでいるうち、「この人達とは使い方が違うのではないか」と思うようになりました。そして、その違いはどこから来るのだろうと考えた結果、「この人達は食器をうるがしていないんじゃないか」と思い当たったのです。そう考えれば、汚れ落ちが悪いのも、食洗機の中が食べ残しで汚れるというのも納得です。

 「食洗機」を使っていて、今ひとつ綺麗にならないとお思いな方、是非、食器をうるがしてから食洗機に入れてみて下さい。うるがすのは簡単。洗い桶とか準備する必要はありません。食器に水を張って、5分もおけば大丈夫だと思います。お試しあれ。

 

 ※グラタン皿などのような、手洗いでもこすり洗いが必要なものは、やっぱり汚れは残ります。また、目玉焼きやマヨネーズのような、生に近い「黄身」は熱で凝固しますから、必ず水で落としてから入れましょう。それから、イクラなども・・・あれっ、結構、食洗機の苦手分野って多いかも。「うるがした」のにダメだった場合も、怒らないでね、水に流してね。

 なんだか最後は「ふやけた」文章になってしまいました。ごめん、ごめん。

 

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日本の食器はこんな感じの、形も大きさも個性的なものが多く、食洗機に並べにくいという特徴が有りますね。私が実際に食洗機を使ってみて思ったのは、「とにかく、いれればいいんだ」ということ。きちんと隙間なく並べようとか、全部入れようとかは考えない。何も考えない。ただ、入れる。入りきらない分は次に回すとか、手で洗うとか、柔軟に。そう、食洗機係は子供にするとか、そういう柔軟さ、いいですよね。