安倍文殊院の創建は大化元年(645年)。時の左大臣・安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)によって安倍一族の氏寺として建立されたそうです。
安倍倉梯麻呂という方も有名な方なのでしょうが、一般的に「安倍」と聞いて思いつくのは、
遣唐使・阿倍(安倍)仲麻呂
陰陽師・安倍晴明
元総理・安倍晋三
と言ったところではないでしょうか。特に最初と二人目は、実際に安倍一族なのだそうです。
また、安倍晋三氏は名字が同じ「安倍」つながりと言うことで、総理在任中に献じたのが下の写真の石灯籠だそうです。

では、これから阿倍(安倍)仲麻呂と安倍晴明について語りたいと思います。(旅行記からは、ずれますね(笑)お付き合い下さい)
阿倍仲麻呂は717年、19歳で第9次遣唐使に同行し留学生として長安に行きました。その後は猛烈に勉学に励み、一説には、あの難しいので有名な科挙に合格し(推薦合格という説もあり)、役人としてどんどん出世していくのでした。玄宗皇帝のお気に入りだったとか。そんなこんなで、若い頃は出世街道をばく進するのも楽しかったのでしょうが、年とともに望郷の思いも募っていったのでした。
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
百人一首の有名な、阿倍仲麻呂が望郷の思いを詠んだとされる歌です
753年、仲麻呂55歳。とうとう帰国の思いを抑えきれず第12次遣唐使の面々と共に、日本に向かう船に乗りました。その時の船団は4隻。仲麻呂は第1船に乗りました。そして、第2船には、あの鑑真和上が乗り込んだのでした。
この4隻の船の運命は劇的に別れました。第1船はベトナムに漂着。第2船と第3船は日本に到着。第4船は行方不明という結果だったそうです。
36年ぶりに日本の地を踏みたいという仲麻呂の願いは叶わず、その同じ時に、「なんとしても日本へ」という思いで6回目の挑戦をした鑑真和上の思いは、とうとう実を結んだのでした。運命って、歴史って、面白いですね。
ちなみに、無事に日本に着いた第3船には吉備真備(きびのまきび)が乗っていたそうです。
さて、ベトナムに漂着した仲麻呂のその後ですが、結局唐に戻ります。その後は安史の乱が起きるなど、激動の世となるのですが、その間も役人として出世し、活躍し、770年、72才、長安でその生涯を閉じました。一度も日本の地を踏むことは出来ませんでした。
「三笠の山に出でし月かも」
大陸の空に昇る月を見ながら、自分を慰め励ましたのでしょうか。仲麻呂の心の中にある故郷・奈良の風景はどんな風だったのか、しみじみと考えてしまうのは、私も年をとったからなのでしょう。
長くなったので、安倍晴明については次回に。そして、最後にダジャレ短歌をお届けしたいと思います。
妻の腹フリカケ見れば箸がなる三笠の山に嬉し好きかも(白米にふりかけ、腕がなるじゃなくて、箸がなりますよね。時はお盆で、仏前にはどら焼きの「三笠」がどっさり。嬉しい)続く。






























