おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

ネタは無いが、書くだけ書いてみるか

 しばらくブログの更新が滞っていました。一応記事を書く際には、コレ!と中心テーマを決めて書き始めるのですが、めっきりネタが無いのです。楽しみにして下さる読者のため、そして何よりも自分の張り合いのため、何かブログネタが降ってこないものかと、「夜も眠らず昼寝して」待っていたのですが、全然駄目です。しょうが無い、書かないよりまし。テーマも無いままに書いてみることにします。

 

 最近は知人の林檎畑に「実すぐり」のお手伝いに通っています。手伝い始めて三年目ですので大分慣れてきて、知人から「上手になった」とお褒めの言葉を頂きました。ところが残念な事に、腕が上がるに反比例して新鮮さは無くなる物です。写真を撮っても同じような絵面だし、新しい発見もないし。

 「実すぐりのことをブログに書いても以前と同じような内容になるし・・・。ネタが無いよなあ」

 去る土曜日も、ブログを更新していないことに悩みつつ、手伝いを終えて帰路につきました。車を運転しながらラジオを聞いていました。

 

 『静岡県森町のトウモロコシ畑で、収穫を目前にした人気品種「甘々娘(かんかんむすめ)」約3,000本が盗まれた』

 

 このニュースを聞いた瞬間、二つのことが頭に浮かびました。

 一つ目 こりゃあ、農家の人もカンカンだあ!というダジャレ

 二つ目 最低だ!泥棒の中でも農作物を盗む奴は最低だ!

 運転しながら、まず一つ目のダジャレについて、ブログネタにならないか考えを巡らしてみました。でも、どうにも内容が膨らんでいきません。これは無理だと諦めました。一旦、「ブログネタ探し」から離れ、思考は作物泥棒のことにうつりました。

 青森県でも、リンゴの収穫の時期にはリンゴ泥棒のニュースが流れることがあります。木箱に入れて畑に積んで置いたリンゴを持っていく省エネ型の泥棒もいますが、中には「甘々娘」泥棒と同じく、木になった収穫時のリンゴをごっそりともいで行く、手際のいい奴もいます。省エネ型にしろ手際良し型にしろ、恐らく犯人は農業に心得のある奴でしょう。収穫を迎えるまでに、どれだけの手間をかけてきたか。気温が低いといっては心配し、風が強いといっては不安に駆られ。そうやって育ててきた作物を収穫目前で盗まれる悔しさ。犯人だって分かっているはずです。

 また、私は「リンゴもぎ」が大好きで本当に楽しい作業なのですが、きっと本職の農家の皆さんにとっても、きつく苦しい作業ながら、一番楽しく喜びのある時だと思うのです。泥棒が元農家であるならば、見つかる心配をしながら、大急ぎでよその畑からもぎ取るトウモロコシやリンゴ。当然、かつて知った収穫の喜びなどあるはずもないでしょう。最低だ!と憤ると同時に、どこかやりきれないような思いも浮かぶのです。もちろん、窃盗犯に対して「収穫の喜び」なんてことを持ち出す私が「甘ちゃん」であることは分かっています。「甘々(あまあま)娘」ならぬ「甘々お婆」と、久しぶりのブログ更新に免じて許して頂ければと思います。

 

 あらっ、こうして書いてみると結構な字数いきましたね。書いてみれば書ける物なのかも。

 寝っ転がって「ネタ待ち」しているより、とりあえずパソコンの前に座るって大事かも知れません。「実すぐり」で育てるリンゴと違って、「下手な鉄砲も」方式もいいかもしれません。がんばろうと思います。では。

「しっぺ返し」と思うのは杞憂であってほしいものだ

 何日か前にネットのニュースで、「オーストラリアでネズミが大発生。農業に深刻な被害」というのを読んだ。

 

 昨夜、テレビの『サイエンスゼロ』という番組で、「120年に一度の竹(ハチク)の開花が始まった」というのをみた。その番組を見ながらずっと、上のニュースの事を考えていた。そのことをブログに書きたいと思ったが、ながら見だったせいもあって、竹の開花についてちょっとよく分からないところがあった。今日、その疑問点をネットで調べて自分なりに解決はしたつもりなのだが、間違い・勘違いもあるかも知れない。その場合はご指摘頂ければ有り難い。

 

 竹は地下茎を伸ばして「筍」をはやし、増えていく。つまり「竹林」は地下茎でつながったクローンだ。話を分かりやすくするために、「手」をイメージして貰えればと思う。

 五本の指がそれぞれ「竹」だ。手首で一つに繋がっている。その一本一本には寿命(20年ほど)があって、一本一本、順番に駄目になる。でも、「指」との違いは新たな筍が生えてくるという点だ。ただ、「指」は全て同じDNAを持っていて、多様性の欠如という弱点がある。例えば、ある種の皮膚病によって一度に全部の指が駄目になってしまうとか。

 そこで、120年に一度一斉に花を咲かせ、花粉を交換することによって多様性を獲得するというのが、「竹」の生み出した生存戦略なのだ。そして、その前回の開花から120年目が、今年(正確には今年から10年ほどの期間)ということらしい。

 では、花が咲いた竹がどうなるかというと、実をつけたあとは枯死してしまうということだった。「手」のたとえで言うと、同じ手首で繋がる指が、一度に駄目になると言うことだ。実際、関西の里山では、竹林が枯れているのがあちらこちらで見られるそうだ。青森県には竹林自体がほとんどないので、私が目にすることはないと思われる。

 さて。 

 40年以上も前に読んだ漫画の話をする。タイトルもストーリーも覚えていないので、取り上げるのも恐縮なのだが、なぜか強烈に覚えているエピソードがあるのだ。

 猟師が、血相を変えて山から下りてくる。「大変だ、花だ。竹に花が咲いている」。それを聞いた老人達が慌てふためく。「えらいことになる。飢饉じゃ。来年は食うもんがなくなる」。ポカンとする村人達に一人の老人が言う。「花が咲いた竹は実をつける。それを食ってネズミが大発生するんじゃ」

 

 私は『サイエンスゼロ』をながら見しながらも、この、竹の実とネズミの大発生について触れるかどうかは大いに気にしていたのだが、言及は無かった。願わくば、私の漫画で得た知識が現実になるような事は無く、オーストラリアのような事態が起こらないように。本気でそう願っている。なぜなら、原子力発電所の事故や新型コロナウイルスパンデミックなど、最近は「まさか」と思うような出来事で、人間の無力さや思い上がりを考えさせられる事が起きているからだ。

 

 何か、人間が自然から「しっぺ返し」されているような、そんな気分になるこの頃なのである。竹だけに。では。

竹篦(しっぺい)とは。1 禅宗で、師家が参禅者の指導に用いる法具。長さ60センチ~1メートル、幅3センチほどの、割り竹で作った弓状の棒。2 片手の人さし指と中指とをそろえて相手の手首を打つこと。しっぺ。 goo国語辞書より

雨の日は編み物をしながらブルーにひたる

今週のお題「雨の日の過ごし方」

 

 雨の日も晴れの日も、編み物を楽しんでいます。でも、ムラはあります。夢中になって針を動かす日もあれば、何日も手に取らない時もあったり。私の気分もお天気のように日々変化するのです。

 

 二月から四ヶ月かかって、カーディガンが完成しました。以前拙ブログで、新しく毛糸を買ったことを言い訳するかのような記事を書きましたが、その時の毛糸です。

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 写真の撮り方が悪く、左は紫色に見えているかと思いますが、実物はシブい赤なのです。それに紺の糸を取り合わせて「引き上げ編み」という技法で編み込み模様に編みました。軽く暖かく、そして何よりもオリジナルの配色に成功したと、嬉しく思っているところです。寒くなるのが楽しみなぐらいです。

 

 編み物をしているときは、テレビのニュースを聞いたり、音楽を流したり、最近はYoutubeで落語を聞いたり、いろいろと耳を楽しませています。でも、私は「賑やかな性格」に似合わず、家の中がシーンとしているのも結構好きなので、何も音の無い中で黙々と編み針を動かしていることも多かったりします。そして、そんな時はつい考え事をしているものですが、それが雨の日だったりすると、ついつい考え事もブルーな方に行きがちなのです。

 さて、ここからはそんな風に編み物をしていて思い出した、やっぱりブルーなお話にお付き合い下さい。10年以上も前に『ヤフー知恵袋』で読んだ相談内容なのです。妙に心に残って、時々反芻するかのように心に浮かんでくる相談なのです。

 

 30代女性。子供あり。「好きな人が出来た。その人と一緒になりたい」そう言って夫が家を出ました。最初はショックで取り乱しましたが、あまりに身勝手な夫に愛想が尽き、早々に離婚の決心がつきました。そうしていたところ、夫が帰って来ました。末期癌と診断され余命宣告も受けたそうです。相手の女性は診断結果を聞き、逃げたそうです。

 「面倒見てくれるよね?」そう言う夫に、

 「食事や旅行や、楽しいことは愛人と行って、病人の世話は奥さんなの?奥さんって損な立場ね」と応えました。夫は泣いていました。

 

 相談者は「私はどうするべきと思いますか?皆さんならどうされますか?」と質問していたと記憶しています。回答は様々だったかと思いますが、私が忘れられないのは、

 

 「食事や旅行や、楽しいことは愛人と行って、病人の世話は奥さんなの?奥さんって損な立場ね」という彼女の言葉なのです。切ない・・・。

 そして10年以上過ぎても、時々、全く見ず知らずの彼女の事を思い出すのです。「彼女はあの後どうしたのかなあ。今はどうしているのかなあ」なんて風に。

 

 「雨降って地固まる」という諺がありますが、「雨」も程度問題ですね。あまりにもひどい豪雨では「地」も押し流されてしまうわけで。

 それでも、泥まみれになりながらも人は立ち上がる、いえ、立ち上がらなければならないのが、生きるということなのでしょう・・・。そんな風にも思ってみたりするのです・・・。では。

樟脳(しょうのう)の匂いを私は知らない

 樟脳って、昭和世代には懐かしい響きですよね。でも、本物の樟脳って、実はなじみが無いんじゃ無いかな、そんな風に思いました。突然ですが。

 衣類の防虫剤としてハッキリと記憶にある「樟脳」という言葉。でも、それは案外私達の親世代(戦前生まれ)が使っていた言葉を何となく受け継いだだけで、実は私達が実際に使っていた防虫剤は「ナフタリン(ナフタレン)」だったようなのです。

 昔の悪い冗談で、彼氏のいない女性のことをナフタリン(=虫がつかない)と呼んだりした、あの強烈な匂いの防虫剤は化学的に合成された薬品で有り、祖父母世代・親世代が恐らく知っていたであろう本物の樟脳は、樟(くすのき)から抽出した天然由来のものだったのです。

 

 現在の日本では本物の「樟脳」はほとんど生産されておらず、防虫剤としてはかなり高価な商品となっています。でも、体質的に化学物質に過敏であったり、自然のものを愛好したいと考えているような人の間では根強い人気があるようです。そして、そういった方々の声をネットでみますと、「匂いが好きです」「匂いに癒やされています」というものが多数見受けられるのです。

 良くお通夜の席で、高齢男性の喪服から懐かしくも強烈な防虫剤の匂いを嗅ぐことがあり、「樟脳の匂い強烈だなあ。無臭の防虫剤もあるのになあ」と思っていましたが、あれはナフタリン特有の匂いだったのですね。樟脳ではなく。

 今までは「嫌なにおい」に分類していた樟脳ですが、自分の勘違いが分かった今は、本物の樟脳(日本産がイチオシらしいです)の匂いを嗅いでみたいものだと思っています。(変わり身の速いのが私の取り柄です。虫が好かないなんて思わないで下さいね)

 

 さて、最後になりますが、私がなぜいきなり「樟脳」の話など始めたのか、説明したいと思います。

 私は一昨日公開した拙ブログで、「カンフル剤を打たれた気分です」という表現を使いました。その際、使い方が適切であるかどうか念のために調べたところ、次の事実を知ったのです。

 

樟脳(しょうのう)は、分子式 C10H16Oで表される二環性モノテルペンケトンの一種である。カンフルあるいはカンファーkamferKampfercamphorcamphre)と呼ばれることもある。 Wikipediaより 

 そう、カンフル剤のカンフルとは樟脳のことだったのです。

 現在ではカンフル剤を強心剤として使用することはなくなったものの、「物事を復活させる即効性のある手段」を、比喩的に「カンフル剤を打つ」と表現することは残っているようです。

 でも、それも時間の問題でしょうね。私達が本物の樟脳を知らない世代になったように、今の若い人はカンフル剤を知らない世代だと思います。こうして、「物」が消えていけば当然それを表す「言葉」も消えていくわけで、残念とは思っても、それは止めようのない時の流れというものなのでしょう。

 樟脳もナフタリンも、固体から気体へと(液体にならずに)変化して消えていきます。これを「昇華」と言いますが、言葉が消えていくときも、いつの間にか姿を消しているという点で、似ているような気がします。寂しい気もしますが、それが万物の定めなのでしょう。そう考えて自分の中で消化することにしたいと思います。では。

②「デキるばあさん」をめざして

 若い人と暮らしている人は今時の情報が手に入り易いでしょう。しかも、それは「棚からぼた餅」のように、だまっていても転がり込んで来ることも多いかと思います。

 でも、私のように一人暮らしで、しかも接する相手が同年代かそれ以上の人に限られる場合、「新しい情報」は自分から積極的にとりに行かなければ、手に入ることはまずありません。そしてこの場合問題となるのは、知らなければとりに行きようも無いと言うことです。

 勿論、必要にかられた場合は別です。人は必要が生じたり、不便を感じたりしたときは、いろいろな手段(人に聞いたり、ネットにあたったり)で調べ、欲しい「情報」を手に入れます。残念なのは、「今までそれ無しでも暮らしてきた新しい便利なもの」を、知らないがゆえに欲しいとも思わず暮らしている場合です。

 

 私はアンドロイドのスマホを使っていますが、いくつかの基本的な機能を使用しているだけで、「使いこなす」にはほど遠い状態です。でも、それで不自由も無く暮らしているのです。

 三日ほど前の事です。ソファに寝っ転がってスマホを操作していました。『グーグルフォト』で、撮りためた山野草の写真を眺めていたのです。

 「これらの花の名前が分かったら、楽しいだろうなあ」

 いつも思うことを、その時もやっぱり思いながら画面を眺めていたときです。それまで気にも留めなかった、『レンズ』という機能に気付いたのです。

 試しにタッチしてみると、なんと言うことでしょう!

 スマホが勝手に画像検索してくれて、花の名前の候補をいくつか提示してくれたのです。さらに、完全に一致するものが無い場合には、似ている画像まで挙げてくれるという親切さ。

 植物だけではありません。スウィーツ、絵画、建築、洋服、どんなものでも写真からその正体を調べて教えてくれるのです。もう面白くて面白くて、その日は目が真っ赤になるまでスマホから離れられませんでした。

 「何を今更」とお思いの方は、一番最初にこの機能を使ったときの興奮を思い出してみて下さい。知らなかったという方は是非使ってみて下さい。驚きと新しい楽しみが広がりますよ。

 私は今回のこの体験でつくづく思った事があります。それは、「機器を恐れず、なんでも触ってみよう」ということです。勿論、ケガの恐れのあるような機器に対してはきちんと危機管理が必要です。でも案ずるより産むが易し。所詮家庭にある機器ですもの、注意して扱えばそうそうケガをすることもないでしょう。年をとればとるほど電化製品の使い方も覚えられなくなります。今のうちから少しでも使えるものを多くしておきたいと思います。

 またIT機器に関しては、ケガとは別な恐さを感じます。それは「情報の流出」とか「○○詐欺」とか「知らないうちに課金」とか、そういうニュースで見聞きする類いの恐さです。スマホという手のひらの上の便利な道具も使い方を間違えば、そういう恐さに繋がるのだろうと思っています。でも、その恐さ故にせっかくの便利な道具を使いこなせないのは非常に勿体ないとも思ったのです。

 私は、今回の『レンズ』の件で一歩踏み出そうと思いました。そして自問自答の結果、「あれ?」と思ったときにはそれ以上の操作を行わず、「終了」すれば済むじゃないかという結論になったのです。

 私は今年還暦を迎えます。平均寿命まで生きるとすれば、まだまだ先の長い身です。そして「今」がこれからの人生で一番若い日でもあります。長い人生、「楽しみ」や「出来ること」を増やすには、「今」がチャレンジの時なのです。

 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」、恐さを克服してこそ成果が得られるのです。

 例えば、ブログを書く事は私の大きな楽しみですが、今日のこの記事だって、勘違いや思い込みがあって恥ずかしい内容のものかもしれません。でも、「虎穴に入らずんば記事を得ず」、恥をかく勇気をもって、日々ブログ書きに精を出しているのです。では。

①「デキるばあさん」をめざして

 今更感満載の事を書きます。

 イツメン(いつものメンバー。私を含め四人。麻雀を覚えようと約束した仲)が全員、ガラケーを卒業してスマホ持ちになりました。早速「グループライン」を開始したところ、分かってはいたことですが非常に便利。メンバー全員に一度で伝わるので、顔を合わせてお喋りしているかのようです。ただし入力に時間がかかるので、いつもより口数少なく、タイムラグ有りのお喋りですが。

 全員が退職して麻雀を覚えたあかつきには、「麻雀しよう。いつ、どこで、おやつはどうする?」と言った打ち合わせも超簡単に済み、しょっちゅう集まっては「打つ」ということになるかもしれません。

 さて。

 今「打つ」と言えば、なんと言っても「新型コロナワクチン」ですが、あちらこちらで不具合が起きているようです。その中でも「高齢者はネット予約が出来ない」というニュースに触れ、「明日は我が身」と震撼しているのです。

 ニュースでも、「孫がやってくれて」とインタビューに答えている高齢者がいましたが、確かに回りを見ても、「若い人」と一緒に暮らしている人は、年配者の仲ではITに強いような気がします。それは多分、「口で」教えてもらえるからではないかと思っています。

 例えば、最近はちょっと買い物に行っても、「セルフレジ」というものがすまし顔で待ち構えていたりします。そして、私達おばさん・おじさんの前には、次の様なハードルが立ちはだかる事になるのです。

 

 ①「やったことない。出来るだろうか」という不安感

 ②説明を読もうとするも、「文字」がよく見えない

 ③「文字」が読めても、内容が理解できない

 ④理解できたつもりが間違っていて、ヘンな隙間にお札を入れたり

 ⑤お店の方がやって来て丁寧に教えて下さる。そしてそれが申し訳なくいたたまれない

 

 結論として、「やっぱり有人レジで」となるわけです。こんな時、子供や孫が一緒だったら事態は実にあっけなく進行していきます。

 

 「こうやって、こうやって。あと、ここにお金入れて。適当に入れてもお釣りで返ってくるから」

 「前にも使ったことあるの?」

 「ううん。でも何となくで分かるじゃん」

 「はあ」

 

 ここで大事なのは、こうして一回でも一緒にやりながら口で教えて貰えると、次回のハードルがぐっと下がるという点です。

 確かに一回では完璧には覚えられず、間違ったりもするのですが、「やってみよう」と言う気になり、そして何回かトライするうちに「なんだ、簡単じゃん」という域に到達出来たりするのです。

 実際一度息子に教えて貰った私は、イトーヨーカドー食品売り場に行きますと、有人レジの長い列を横目に、ゆうゆうと空いているセルフレジに向かうという「余裕のおばさま」なのです。

 

 何事も、「出来ない」とか「誰かにやって貰う」ではなく、機会があればどんどん機械にチャレンジして出来ることを増やすことの大事さ。頭では分かっていてもつい面倒で、「いいや」と諦めがちになっていたのがこの頃の私です。でも、今回の「ワクチン騒動」を見て、このまま年をとっていってはいけないと思いました。

 自分が不利益を被ることになるというのは勿論あります。加えて考えなければならないのは、出来るだけ「社会の負荷」にならないよう、私達年配者も頑張らなければという事です。

 これからの超少子高齢社会では、若い人は本当に大変です。私達もやがて「後期高齢者」になるわけですが、若い人におんぶに抱っこではなく、せめて杖をつきながらも、出来るだけ自分の足で歩きたいと思うのです。それは肉体的な事は勿論ですが、この激しい世の中の変化に、周回遅れでもついて行きたいということでもあります。そのためには、せめて「ついて行きたい」という気持ちを失わないよう頑張らねば、それが「デキるばあさん」への道かなと考えさせられるこの頃です。「ワクチン接種」のニュースをみて、カンフル剤を打たれたような、そんな気分になったのです。続く。

「似ている」を見いだす才能

 人にはそれぞれ天賦の才というものがあって、それが非常に有益で他者から評価されるものであればその人はラッキーだし、そうでなければ、まあ残念と言うことになるんでしょうかね。

 私には「他人の着衣の間違いに気付く」という才能があるのですが、あまり嬉しい類いの才能ではありません。こちらがその事について書いた過去記事です。

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 もう一つ、私に与えられた才能に、「似ているを見いだす」というものがあります。それが一種の才能であることに気付いたのは、つい最近の事ですが。

 例えば、皆様ご存じのように、私はダジャレを考えるのが大好きですが、それはつまり「語感の似ている二つの言葉を探す」ということです。「エドハルミとエゾハルゼミって似てるなあ」と言った風に。

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 もちろん、エドハルミとエゾハルゼミが似ているかどうかは人によって捉え方が違うと思います。中には「字数が違うのだから、全然似ていない」と思われる方もいらっしゃるでしょう。でも、「似ている」とは逆に「全く同じではない」ということであり、数学で言うところの「相似」の条件のように厳密で無くとも、一致している要素がいくらかでもあれば「似ている」と言う人がいても、不思議はないわけです。

 実は私の「似ているセンサー」は語感だけではなく、人の顔に対してもなかなか敏感なのです。そしてこの事は日常生活で、些細な事ながら困った問題をもたらすものなのです。今日はその事について説明したいと思います。

 

 外で誰か知らない人を見た瞬間、「芸能人の○○に似てるなあ」と相手の顔をじっとみてしまったり、自分に連れが居る場合にはその事を言わずにはいられず、連れが吹き出したり、時には「全然似てない」とぶっきらぼうに返されて自分が意気消沈したり。そう言う事がしばしばあります。

 でも、これらは意思の力で「他人の顔をじっと見ない」「思っても人に言わない」ということが出来るのでまだいいのです。自分として一番困るのは、映画やテレビドラマを見ているときなのです。「この俳優、○○に似てるなあ」と思うと、そのことが気になって気になって、ストーリーやその人の役柄が頭に入らなくなってしまうのです。

 最近の例をあげます。

 『ドラゴン桜』というドラマ。平手友梨奈という若い女優がハチマキを巻いた瞬間、「さかなクンだ!」と思ってしまったのです。そこから後はストーリーそっちのけで「彼女のどこがさかなクンに似ているのか探し」をしてしまうのです。また、高橋海人というジャニーズ所属のアイドルは、中条きよしにそっくりで、こちらもストーリーの邪魔をしてくるんです。他に最近のドラマでは、『大豆田とわ子と三人の元夫』。市川実日子菅田将暉に見えて、もうだめ。

 また、書いていて思い出したずっと前の事ですが、『ドリームガールズ』というビヨンセ主演の映画を映画館で見ていたときのことです。相手役のジェイミー・フォックスという俳優が堀内孝雄にしか見えなくて。せっかくの映画鑑賞、素敵なミュージカル映画なのに、つい笑いそうになってしまうという始末。

 そして、これはもうずっと前から思っていて、思い切って家族・友人に言ったものの、誰からも賛同を得られていないのですが、「櫻井翔って、いとうあさこに似てる」という、まさに嵐を呼びそうな「似ている組み合わせ」もあるのです。どちらかがテレビに登場する度に、そう思っているのです。

 

 どうでしょう、皆さん。上に書いた例の中に一つでも、「分かる分かる」と頷いていただける「似ている」はありましたでしょうか。

 私は今までの経験から、私の「似ている」発見は、世間に広く受け入れられるものではないと知っています。でも、私のブログ読者の皆さんなら、恐らく私と感性を同じくする皆さんなら分かって下さるかも知れない。一縷の望みを託して書いてみました。

 私も、せっかく天から才能を授かるのであれば、ダジャレとか、誰と誰が似てるとか、はたまた「あの人のシャツは裏返しだ」とか、そういった事に気付く事より、歌が上手いとか、ダンスが凄いとか、そういう才能が良かったなあと思います。思いますが、自分で選べない以上、「与えられたもの」で満足するしかないわけで。自分で自分に折り合いをつけ、「ダジャレの才(?)のお陰で、こうしてブログが書ける」と良い方に考えることにしようと、改めて思っています。

 最後に、もう一つ残念な事を告白しますが、「相似」は好きですが「掃除」は嫌いなのです。では。