おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「似ている」を見いだす才能

 人にはそれぞれ天賦の才というものがあって、それが非常に有益で他者から評価されるものであればその人はラッキーだし、そうでなければ、まあ残念と言うことになるんでしょうかね。

 私には「他人の着衣の間違いに気付く」という才能があるのですが、あまり嬉しい類いの才能ではありません。こちらがその事について書いた過去記事です。

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 もう一つ、私に与えられた才能に、「似ているを見いだす」というものがあります。それが一種の才能であることに気付いたのは、つい最近の事ですが。

 例えば、皆様ご存じのように、私はダジャレを考えるのが大好きですが、それはつまり「語感の似ている二つの言葉を探す」ということです。「エドハルミとエゾハルゼミって似てるなあ」と言った風に。

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 もちろん、エドハルミとエゾハルゼミが似ているかどうかは人によって捉え方が違うと思います。中には「字数が違うのだから、全然似ていない」と思われる方もいらっしゃるでしょう。でも、「似ている」とは逆に「全く同じではない」ということであり、数学で言うところの「相似」の条件のように厳密で無くとも、一致している要素がいくらかでもあれば「似ている」と言う人がいても、不思議はないわけです。

 実は私の「似ているセンサー」は語感だけではなく、人の顔に対してもなかなか敏感なのです。そしてこの事は日常生活で、些細な事ながら困った問題をもたらすものなのです。今日はその事について説明したいと思います。

 

 外で誰か知らない人を見た瞬間、「芸能人の○○に似てるなあ」と相手の顔をじっとみてしまったり、自分に連れが居る場合にはその事を言わずにはいられず、連れが吹き出したり、時には「全然似てない」とぶっきらぼうに返されて自分が意気消沈したり。そう言う事がしばしばあります。

 でも、これらは意思の力で「他人の顔をじっと見ない」「思っても人に言わない」ということが出来るのでまだいいのです。自分として一番困るのは、映画やテレビドラマを見ているときなのです。「この俳優、○○に似てるなあ」と思うと、そのことが気になって気になって、ストーリーやその人の役柄が頭に入らなくなってしまうのです。

 最近の例をあげます。

 『ドラゴン桜』というドラマ。平手友梨奈という若い女優がハチマキを巻いた瞬間、「さかなクンだ!」と思ってしまったのです。そこから後はストーリーそっちのけで「彼女のどこがさかなクンに似ているのか探し」をしてしまうのです。また、高橋海人というジャニーズ所属のアイドルは、中条きよしにそっくりで、こちらもストーリーの邪魔をしてくるんです。他に最近のドラマでは、『大豆田とわ子と三人の元夫』。市川実日子菅田将暉に見えて、もうだめ。

 また、書いていて思い出したずっと前の事ですが、『ドリームガールズ』というビヨンセ主演の映画を映画館で見ていたときのことです。相手役のジェイミー・フォックスという俳優が堀内孝雄にしか見えなくて。せっかくの映画鑑賞、素敵なミュージカル映画なのに、つい笑いそうになってしまうという始末。

 そして、これはもうずっと前から思っていて、思い切って家族・友人に言ったものの、誰からも賛同を得られていないのですが、「櫻井翔って、いとうあさこに似てる」という、まさに嵐を呼びそうな「似ている組み合わせ」もあるのです。どちらかがテレビに登場する度に、そう思っているのです。

 

 どうでしょう、皆さん。上に書いた例の中に一つでも、「分かる分かる」と頷いていただける「似ている」はありましたでしょうか。

 私は今までの経験から、私の「似ている」発見は、世間に広く受け入れられるものではないと知っています。でも、私のブログ読者の皆さんなら、恐らく私と感性を同じくする皆さんなら分かって下さるかも知れない。一縷の望みを託して書いてみました。

 私も、せっかく天から才能を授かるのであれば、ダジャレとか、誰と誰が似てるとか、はたまた「あの人のシャツは裏返しだ」とか、そういった事に気付く事より、歌が上手いとか、ダンスが凄いとか、そういう才能が良かったなあと思います。思いますが、自分で選べない以上、「与えられたもの」で満足するしかないわけで。自分で自分に折り合いをつけ、「ダジャレの才(?)のお陰で、こうしてブログが書ける」と良い方に考えることにしようと、改めて思っています。

 最後に、もう一つ残念な事を告白しますが、「相似」は好きですが「掃除」は嫌いなのです。では。