ナマ族のハーフマンやロトの妻の例だけでなく、「見るなのタブー」でくくられる神話や民話は世界中に存在するのだそうです。
・プシュケーとエロース
・オルフェウスと妻
・鶴の恩返し
・浦島太郎 などなど。
「振り向いてはいけない」「見てはいけない」、その禁を破ったときには過酷な罰が与えられたり、悲しい結末を迎えてしまう、というのが共通のパターンですが、もう一つ共通している点があります。それは、「なぜ?」という問いかけが許されないということです。
何の説明もなく一方的に突きつけられる、ある意味理不尽とも言える条件に従わざるを得ない、それが「見るなのタブー」の根幹をなしています。そして、私達人間にとって最も理不尽なもの、「なぜ?」の無力感の最たるものが、「死」でしょうね。
誰もが死ぬ。死は永遠の別れ。二度と生きかえることはない。どれ程嘆き悲しもうとも変えることの出来ない定め。「見るなの禁」を破ったときも同じです。反省も後悔もなんの役にも立ちません。
「なぜ?」の許されない絶対の命令を下すのが神であり、人間はそれをただ受け入れるしかないのです、死と同じように。「見るなのタブー」は、「絶対の存在」というものを暗示しているもの、そういう解釈もされるようです。
にもかかわらず、「絶対」の存在を信じていてさえ(宗教ってそういうことですよね)、私達は常に「なぜ?」と問うことをやめないし、「振り向くな」と命じられても振り向いてしまう。人間とはそういう存在、DNAがそうさせるのでしょうね。
それなのに!
人間は振り向くのに、なぜ振り向いた「歴史」に学ばないのでしょう?なぜ戦争の愚を繰り返すのでしょう?
2023年も間もなく終わります。振り向けば戦争の一年でした。振り向けば「固まって」しまうような一年は、ロトの妻だけではない。なんともしょっぱい現実なのです。では。