今日の東奥日報9面。哲学者・森岡正博氏の『論考2020 反出生主義への応答』を読んでいたら、大昔学校で習った、詩人・吉野弘氏の「I was born 」という散文詩を思い出しました。皆さんも習ったでしょう?
英語を習い始めて間もない少年が父に言ったセリフ
・・・ I was bornさ。受け身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだね ・・・
この詩を習って随分たってからのことだったと思います。何かで「英語を持ち出すまでも無く、日本語でも(生まれる)は(生む)の受け身形だ」と読みました。虚を突かれた、というのはああいう時に使うんでしょうね。「ああ」と呻きたいようなショックがありました。なんで気がつかなかったんだろう・・・
そう、私達は「生んでくれと頼んだ覚えも無い」のに、かってに(生まれて)しまうのです。「生む側」の都合で。
「I was born」には、蜉蝣(カゲロウ)の話が登場します。腹の中にぎっしり充満した卵の描写が生々しくクッキリとしていて、目の前に浮かんでいるかのようです。
そして、まるで卵を産むためだけに存在するかのような蜉蝣は、その少年を生み落としてすぐに亡くなったお母さんの姿に重なるのです。
今、おばさんになった私がこの詩を読んで思うことがあります。
受け身形なのは子供の側だけではない。「生む側」もまた(生まされて)いるのだ、今の私はそう思います。「子供が欲しい」「子供を産みたい」という、いつからかどこからか湧き出る衝動に操られ、ヒトは子を生むのでしょう。「生む」も「生まれる」も、ヒトの意思を超えた何かの「生んでくれ」を受けての結果と思います。
以下、蛇足です。
「I was born 」の最後のあたり、「お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは」とあります。
今回、久しぶりにこの詩を読んで、ここの「死なれた」が気になりました。この「れた」は受け身形ではなく、尊敬を表す助動詞かと思います。ちょっと引っかかるんですよね。なぜ、自分の妻に敬語なのかなあって。
皆さんは「そんな細かいこと」と思われるかも知れませんが、こんなどうでもいいような疑問やひっかかりも又、「生まれて来て」しまうものなんですよ。私の意思とは関係なく。さらに、次のような考えも又、勝手に生まれてくるのです。
この詩とは別に「死なれた」を受け身形で使うことも可能だよね。実際この詩に登場する父は、妻に「死なれた」男だし。「死ぬ」も「死なれる」も、やっぱりヒトの意思を超えたところにあって、「受け」いれるしかない事なのかもしれないねえ。
人生には、受け入れがたい苦しみも多々やって来ます。それらに対処するためには、「受け身」形を身につけるのも一つの方法かもしれません。もちろん、柔らなことではありませんが。
最後に、私のダジャレも「生まれて」来てしまうものなのだと言うことを付け加えたいと思います。皆さんは受け入れるしかないのですよ(笑)。では。