おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

縄文時代を妄想して、楽しいけど楽しくない

 先日、八戸市の種差海岸を訪れた際、『是川縄文館』にも寄ってきました。お目当ては国宝の『合掌土偶』です。

 こちらは東京国立博物館で撮影したポスターです。日本には五体の国宝土偶があるのですが、一番左の小柄な土偶八戸市で出土した『合掌土偶』です。

 立派な博物館です。漆塗の土器や木器、遮光器土偶など充実の展示で、縄文好きは胸がドキドキ高鳴ることでしょう。

 私はそこまでの縄文好きではないので、それらの展示はサクサクとみて、ミーハーらしく『合掌土偶』へと歩を進めました。

 ミーハーらしく、こういうものにワクワクします。「国宝指定書」ですって。模様入りの和紙が高級感ある!

 そして、こちらが『合掌土偶』↓

 自分でも、「何でそういうところにすぐ目がいくのかなぁ」と思うのですが、この土偶をみて真っ先に思ったのは、

 「あ、女性器がある」

ということでした。

 そして、そこからこの土偶は何を表しているのか、何のために造られたのかを妄想し始めたのでした。まず思ったのは、『合掌土偶』という名称に惑わされてはならないということです。現代の私達は合掌=祈り、そう連想しがちです。でも、それは仏教伝来以降の姿であり、縄文時代にはそのような文化は無かったでしょう。

 では、この手の形は何を表すのか?私の妄想はこうです。

 「これは何かにつかまる形ではないか、座って何かにつかまる、座産だ!お産の無事を願って造られた安産の御守、それがこの土偶ではないか」

 帰宅後ネットで調べたところ、合掌土偶や他の座った形の土偶を、座産と解釈する説はあるそうです。が、土偶が何を象ったものなのか、また何のためのものなのか、これだ!という答えは明らかではないのだそうです。最近では、土偶は植物の精霊を表すのではないかという説が評判になったそうですが、考古学者からはあまり賛同が得られてはいないようです。

 このように、縄文時代は謎に満ちた「世界」であり、積み重ねられた考古学的知見も、広く一般人にまで知られるという状況ではありません。そのため私のような素人でも、あーだこーだ、妄想を豊かにすることが可能な領域になるわけです。勿論、それは楽しい「遊び」です。でも、タイトルにも書きましたが、少なくとも私にとっては、実は大して楽しくもない「遊び」でもあるのです。なぜなら、妄想が妄想止まり、「答え」が与えられないからです。

 テレビのクイズ番組をみていて、「答えはCMのあと」なのに、家族にいきなりチャンネルを変えられたような、そんなモヤモヤが残るのです。

 世の中の問題には

1、正解のないもの 例「人はなぜ生きる?」 

2、正解が判明しているもの 例「学校のテスト全般」

3、正解は存在はするが不明なもの 例「邪馬台国はどこに?」

 以上の三種類があると思うのですが、土偶の問題は、3番ですよね。正解はあるのに分からない、モヤモヤイライラするのです。私はそういうタイプの人間だということです。

 皆さんは如何ですか。中には「答えがわからないからこそ面白い」そう考える方もいらっしゃるでしょう。そういう方は考古学が存分に楽しめるでしょうね。土偶を見れば、千載一遇ならぬ、千載土偶の喜びでしょうか。

 ちょっと羨ましい気もします。では。