ウィリアム=モリスは19世紀イギリスの詩人・デザイナーで、生活に芸術や手仕事の美を取り入れようとする「アーツ・アンド・クラフツ運動」で有名です。
下の写真は100円ショップセリアで大人気の、ウィリアム=モリス柄の商品です。
モリスは産業革命後の、工場で大量生産された粗悪な商品があふれる世の中に嫌気がさし、丁寧で美しい手仕事による家具・生活用品を作ろう、そしてそれを広く社会に浸透させようと思いました。ところが、彼の意に反し、そのように作られた商品は大変高価なものにならざるを得なく、一部の裕福な人々のものにしかなりませんでした。それどころか、彼のデザインを表面的にまねただけの粗悪な大量生産品が出回るという皮肉な事も起きてしまいました。
手仕事(一点ものですね)は高価になる。これは避けられない運命でしょう。でも、いいもの、美しいものを手に入れたいと思うのは誰しもが望むことで有り、モリスの時代の普通の人々が大量生産品の、彼のデザイン(に似たもの)を手に入れたときの喜びは、想像に難くありません。そして、粗悪品ながらもやっと手に入れたそれらを大事に使ったであろう事も。
時は流れ、時代は大量生産・大量消費、いわゆる「使い捨ての時代」になりました。粗悪だってかまわない、どうせ使い捨てるのだもの。人々の意識がここまで変わるなんて、モリスも想像しなかったでしょうね。
そのような現代にあって、その意識に対抗しているのが、100円ショップとミナペルホネンなんではなかろうかと、私は考えているのです。
100円ショップに行くとビックリしちゃいますよね、「こんなものまで100円なの!」って。100円ショップは厳しい競争を勝ち抜くために、100円の限界に挑戦していますね。「粗悪だってかまわない」なんて決して考えず、100円で生み出せる最高のものを提供としようとしています。ウィリアム=モリス柄が100円で手に入るなんて信じられないことです。
でも残念なのは消費者の、「どうせ使い捨てるのだもの」という意識までは変えられないという点だと思います。「だって100円だもの」。
100円の商品を長く大事に使おうと思える人は、少数派だろうと思います。安いものは粗末に扱い、高価なものは大事にする、それが一般的な人の有り様でしょう。
では、ミナペルホネンの商品はどうでしょうか?県立美術館に設けられた特設ショップをのぞいてみたのですが、タンバリン柄のスカートが5万円台、ハギレをパッチワークしたトートバッグが3万円台と、青森県民にはおいそれと手の出ない価格帯でした。でも決して、高い!とは思いませんでした。あれだけの手の込んだ制作の過程を見せられた後では、「これぐらいはするだろう」という納得の価格帯で有り、同時に、この値段で手に入れたら大事に使おうと思うだろうな、とも思いました。
モリスが完全手作業で富裕層だけのものにしてしまった「手仕事」を、皆川明氏は機械を使うことによって、一般人でもギリギリ手の届く範囲に持ってきたのだなと思いました。勿論、各人が手を入れたり経年で変化を楽しめたりという、「一点もの」を実現するという氏の発想の素晴らしさも相まっての事です。
「希少価値」というものについてあれこれ考えているのですが、最初は思わなかった「価格」というものも要素の一つだと言うことが見えてきました。高価なものは入手しづらいものであり、希少性があると言うことです。
「欲しいから高くても買う」のではなく、「高いから欲しい」という逆転も起こる、でも、100円ショップも大好き!、現金なものですね。でもそれが人間!続く。