人間はなぜ「希少なものが好き=価値がある」と思うのでしょうか。
山道を歩きながら考えました。
一週間ほど前ですが、友人と黒石市にある中野紅葉山というところに紅葉狩りに行きまして、そこからさらに足を伸ばして黒森山浄仙寺というお寺の紅葉も見に行きました。綺麗でしょう~。
山や草木はいつだってそこにあるのに、桜が咲いたと言っては見に行き、紅葉が見頃だと聞けば出かけていく。それはやっぱり期間限定のイベント、つまりは希少性の魅力があるからでしょうね。桜が一年中咲いているなら、紅葉が常に赤いなら、誰も見向きもしないんじゃないでしょうか。
ではなぜ私たち人間は希少なものに価値を見いだすのでしょうか?私の山道を歩きながらの妄想にお付き合い下さい。
山を歩いていると、いろいろな種類のキノコが目につきます。中には一見食用になりそうな見た目のものもあります。でも、私は知っています。こんな誰でも通るところに食べられるキノコが有るわけが無いと。食べられるようなキノコは山深くにあるものであり、特に、美味しいとされるようなキノコは、キノコ名人の目をもってしなければ見つけられるようなものではないと。
きっと太古の昔からそうだったのではないかと思います。山の幸に限らず、魚、肉など美味しいものは、特別な知識、体力、技能をもった人しか手に入れられない、希少なものだったろうと思います。そこから、希少なもの=美味しいということは、強く強くDNAに刻まれただろうと想像するのです。
美味しいものばかりではありません。金などの金属や天然アスファルトなど、自然から得られる有用なものも、やっぱり希少だったろうと思います。
このように私たち人間にとって、DNAに染みついた「希少なものはいいものだ!」という価値観は極めて自然なものであり、逃れられないものなのだろうと思うのです。そして残念なことに、その価値観からは「欲」が生まれ、あげく「戦い」が生まれたりするのでしょう。
希少性の虜になって、でもそれを手に入れられない時、人は悔しさや怒りと言った負の感情にとらわれることになるのでしょう、「チキショウ」とばかりに。続く。