津軽を舞台にした、人見知りで寡黙な少女の成長物語。超ざっくり書くと、そんなストーリーです。
「少女の成長ストーリーかあ。興味は惹かれないなあ。まあでも津軽が舞台だし、映画館はコロナでも比較的安全にお出かけできる場所だし。いってみるか」
それぐらいの気持ちでみたのですが、見終わって「いい映画だった」と思っています。「いい映画」の定義は人それぞれだと思いますが、見終わってしばらくの間心に残っている。そして、思い出す度に新しい「気づき」がある。そうなれば、間違い無く「いい映画」ではないでしょうか。
・配役がみんな、はまってたなあ。主役のいとちゃんは勿論、まわりの人間模様もリアルだったなあ。
・親子関係、祖母孫関係、友人関係、同僚関係、全ての関係に、生きることの苦しさが映し出されていて、それでいて人を思う気持ちに溢れているんだなあ。
・無口で人見知りな子は、自分の殻の中で自分のことで精一杯だったけれど、人の苦しみに触れて成長したんだなあ。そして、成長物語であるのは、少女のことばかりではなく、お父さん始め、周囲の人物も成長していくのであり、人が生きるとは成長することなんだなあ
こういった事を思わされているのです。
映画館を出たあと、一緒にみた友人が、
「全国で上映中らしいけど、字幕無しで大丈夫かなあ」
と言っていました。確かに、津軽弁の中でも相当きつい部類の津軽弁です。特に、主人公は小さな声でボソボソ喋るので、聞き取りづらさもあいまって、理解できない部分があるだろうと思います。でも、逆にそこがミソだと思うんです。
上に、映画をみての私の感想をいくつか並べましたが、一番大きく感じたことは、
・言葉じゃないんだなあ
という事だったのです。人と人との心を繋ぐものは言葉じゃないという事です。いみじくも、三味線の名手であるおばあちゃんが言っていました。
「三味線は教えでもらうんでねえのさ。目で盗め、耳で覚えろ、そうして習ったのさ」(うろ覚え、ちょっと違うかも)
どんなに美辞麗句を費やしても、相手の心に響くのはそんな言葉などではないのだと、いつも多弁な私には、ちょっと心に刺さるものがありました。
ということで、「津軽弁、分かるかしら?」そうご心配の方にこそみて頂きたい。そして、「言葉が分からなくても、分かるものね」という体験を是非なさって下さい。新しい体験じゃ無いですか?
最後に、ここまで書いたことと真反対のことを書きたいと思います。それは、「やっぱり言葉って大きいなあ」ということです。
この映画は主人公のみならず、様々な人の成長物語だと思うのですが、最後の最後に、お父さん(豊川悦司)も娘から、成長といいますか自己変革と言いますか、そういったものを求められます。それは自分自身を見つめることだったと思うのですが、そのきっかけは娘からのあるきつい一言、絶対に他人から言われたくないある一言だったのだろうと思います。その一言を重く受け止め、そして虚心に自分を見つめ、お父さんは「チョモランマから帰って来た」(比喩)のでした。
どうでしょう?『いとみち』。ベンベンと魅力を語りましたが、決して三味線を弾いたわけではありません。いい映画なんです。津軽弁に臆することなく、逆に津軽弁に挑戦しようぐらいの気持ちでご覧になってみては。では。
※念のための注 「三味線を弾く」とは、相手の話に適当に調子を合わせて応対すること。また、相手を惑わすような、本心でない言動をすること(広辞苑より)