おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

アマノジャクを飼い続ける

 人の言うことにいちいち反論するような性格の持ち主を「天邪鬼(あまのじゃく)」と言うわけですが、これは子供に対する評として使われがちですね。でも、自分がすっかり大人になって、そして普段接する方々も大人ばかりという状況で思うのですが、人というものは、いくつになっても心にアマノジャクを飼い続けるようなのです。

 

 「ちょっと失敗しちゃって・・・」と言いながら、手作りの食べ物を他人に差し出すという光景はとても日常的です。差し出された方は一口味わった後、「美味しいよ」と返す、これもお決まりです。相手のセリフが謙遜なのか正直な報告なのかにかかわらず、「美味しい」と返すのは、礼儀でもあり思いやりでもあると思うのですが、私にはもう一つ、隠された構造があるように思われてなりません。それは、人には誰でも、相手の言うことに反論したくなるという、「アマノジャク的性質」が潜んでいるからではないかと推察するからなのです。

 「美味しくないですけど」には「凄く美味しい」と返し、「上手ですね」と言われれば「全然、下手ですよ~」と答えるというように。

 でも、私は謙遜の美徳の持ち合わせが少ない方で、自分から「美味しく出来たんで」とか、「昨日のブログ、面白かったでしょう」と言いがちなのです。が、そうすると相手の反応は往々にして「まあまあ」とか「普通」とか、素っ気ないことが多いのです。みんな、アマノジャクね。本当は「凄く美味しい」「大傑作」とか思っているくせに。

 

 息子達が小学生ぐらいの頃、不思議に感じたことがありました。それは、母親達が自分の子供を他人の前で評する時の、「ちぐはぐさ」とでも言うべき事です。

 いわゆる優等生と言われるような子供の母親は、「全然。だらしなくて~」と自分の子を実際以上に卑下します。反対に問題児扱いされがちな子の母親は、「本当は優しい子なの」などと、自分の子を褒めると言いますか、まあ、かばう場面が多い気がしました。

 私は何となくその現象が気になって、その頃、あれこれ考えたのでした。謙遜だけなら「日本人の美徳」ってやつで済みますが、なぜ褒めるという行為も発生するのかと。そして結論は、「他人に言われることの反対を言いたくなる」という、人のアマノジャク的性質に起因するのではないかということに至ったのです。

 一般的に母親達はよその子を褒めがちです。勢い、褒められた子の母は「そんな事無いです~」と言ってしまうものです。問題児は誰からも褒められないので(褒められないとは、つまり貶されたも同然なのです。褒めるのが標準の世界ですから)、その母は自分で自分の子を褒めるのではないかと思うのです。どちらにしろ他人の言葉に反論するという、アマノジャクが顔を出しての所業だろうと思うのです。

 さて、こんなどうでもいいことを心の中で思っていた私ですが、なぜそんな事をブログに書こうと思ったかと言いますと、さあ、ここからが本題です。

 つい最近、ふとしたはずみで、親にとって「バカな子ほど可愛い」と言われるのはなぜなのかが、分かったような気がしたからなのです。忘れないように書いておこうと思いました。

 人に褒められるような立派な子であれば、それこそ親は世間と反対側、謙遜していればいいわけです。が、世間から馬鹿にされたり非難されたり、いわばこの世界に一人も味方がいないような子であればどうでしょう。「せめて親である自分は」。そういう世間に対するアマノジャク的親心が、「バカな子ほど可愛い」ということなのではないかなと、一人で勝手に腑に落ちたのでした。異論・反論は認めます。

 

 我が家の二人の愚息達はすっかり親離れしたようで、「便りが無いのは良い便り」状態です。願わくば、いつまでも「愚息」呼びしたいものだと、親が庇うような事がないようにと、「アマノジャク理論」創始者の私としては願いたいところです。

 以上、ご子息の件で苦慮されておられるだろう、あの方のことを思い浮かべつつ、書いてみたのですが・・・では。