おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

食べさせたいという本能

 数日前、ちょっと郊外に足を伸ばしてウォーキングを楽しみました。

 お天気も良く、爽やかな秋の空気を満喫、そう、世間はいつの間にかすっかり秋だったのです。

 リンゴ畑の赤く色づいた実を見たときも、ああ秋だと思ったのですが、下の写真の梨の実にはつくづくと秋の到来を思わせられたのでした。私が自宅内または自宅周辺の狭い範囲をウロウロしている間に、秋はちゃんとやって来ていたのね。

 

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 この梨の実を見たとき、秋の到来の他に思った事が二つありまして、一つは、

「良く盗られないものだ、盗って下さいと言わんばかりなのに。日本って、いい国だなあ」ということ。

 そして二つ目は、

息子その2に食べさせたいなあ」ということでした。

 息子その2は現在東京で暮らしているのですが、「一番好きな果物は梨かもしれない」と言うほどの梨好きなので、この梨を見た瞬間、そう思ったのです。この感覚、子を持つ親なら、いえ、子どもの無い人でも分かって頂けるかと思います。

 今日は、ちょっとそのことをテーマに書き進めていきたいと思います。

 

 人間は、自身の生存や子孫を残すために必要な行為には、快感が伴うよう進化してきました。食事や睡眠や恋愛が苦痛な人は、あまりいませんよね。同じように、子どもを育てるために必要不可欠な、「子に食べ物を与える」という行為、これにもやはり、快感が付与されているようです。

 人間が常に飢餓にさらされ食物が非常に貴重だった時代、もしも親が子に食べ物を与えることが苦痛だったならば、人類は繁栄できなかったワケです。貴重な食物であっても子に与えたい、つまり与える喜びが本能的にあったから、厳しい環境にあっても、子どもは生きながらえることができたワケです。

 公園で「鯉の餌100円」とか動物園で「餌用ニンジン100円」とか、冷静に考えれば何が楽しいのかと思うような「餌やり」という行為ですが、私達人間は、それを楽しいと感じる本能があり、お金を払ってでもその快感を得たい生き物なんですね。

 働いていたとき、私がシュレッダーを使っていると、やっぱりシュレッダーを使いに来た後輩女性がいました。

 私 「一緒にやってあげるから置いていって。私、シュレッダー、好きなの」

 彼女「私もなんです。シュレッダー、楽しいですよね」

 私 「そうそう。動物に餌をあげてる気分なの」 

 彼女「分かります~(笑)」 

 シュレッダーを動物の餌やりのように感じるかどうかは、個人の感性によるところが大きいと思いますが、動物や子どもや、あるいは相手が大人であっても、「他者に食べさせる」と言う行為には喜び=快感があるということは、多くの方に賛同して頂けるかと思います。

 ところで。

 『feeder(フィーダー)』という言葉を聞いたことはありますか?英語のfeedは「食べ物を与える」という意味で、フィーダーとは、「他者に過剰に食べ物を与える人」という意味だそうです。この場合の他者とは自分の子どもであったり、恋人であったり、友人であったり様々ですが、相手が誰であれ、健康を損なうほどの肥満体になるほど食べさせるというのが共通点であり、問題点となるわけです。

 フィーダーの動機は様々有るようですが(興味のある方はググってみて下さい)、根底にあるのは「相手に食べさせたい」という欲求、つまり相手が大量に食べることで自分が快感を得るという、自分本位のゆがんだ欲望に突き動かされての行動なのです。

 読者の皆さんは、このフィーダーというものの恐ろしさを、他人事と思われるでしょうか?私はそうは思えないのです。

 例えば、可愛い可愛い孫を食べ物攻めにして、食べれば食べるほど喜ぶ。明らかに肥満児の孫なのに「太っている方が可愛い」という。そんなお年寄りを見たことはありませんか。私は、自分がそうならないとも限らないと思ってしまうのです。

 「食べさせる」という事には強い快感があり、しかも食べさせられる相手も喜んでいる。これにストップをかけるには、「健康に悪い」という理性的判断と「我慢する」という意志の力が必要です。でも、年をとるということは、大脳のうちの、そういう働きが弱くなるということですよね。ちょっと自信がないのです。

 存在してもいない孫の心配をしてもしょうがないとは思うのですが、いざその時がきたとき、まごつくことが無いよう、考えておくのも悪くは無いと思った次第です。

 備えあれば憂いなし、という格言で、梨から始まった記事を終わりたいと思います。では。