おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

お盆らしく、人の「死」について

 なかなか読み終わらない武田百合子のエッセイ集『あの頃』。

 その中で夫である武田泰淳が亡くなった後の心境を、「何ともわりきれない」と書いているものがある。その文章に次のような一文が続いた。

 

 今日、お悔やみの電話をかけてくれた親切な誰彼のことを、その人が男であれば(丈夫だなあ。何故死なないのだろう)と、女であれば、(あの人のつれあいだって、いまに死ぬぞ)と、湯舟の中で思ったりなどもする。

 

 ここが妙に腑に落ちた。わかる、と思った。

 私は42歳の時に、72歳の母を亡くしている。それまでは漠然と、人は平均寿命ぐらいまでは生きるものだと考えていたし、特に母に関しては、少なくとも父よりは永く生きるものと信じていた。

 思いがけない事態に直面した時、もって行き場のない感情や収まりのつかなさと言ったものに、人は「怒り」というラベリングをすると知った。正当性もなければ誰に向けようもない「怒り」ではあるが。

 

 13日に放送された『プレバト』で、女優の森口瑤子氏が素晴らしい俳句を披露した。彼女がその番組に初めて登場したのはちょうど一年前で、わずか一年で特待生3級というスピード出世ぷりである。その初登場時の俳句がこちら。

 

 仏壇の向日葵までもくたばりぬ   森口瑤子

 番組中で、「春に大好きな母が亡くなり、すごく悔しい思いがたくさんある」という本人の弁があった。

 

 夏井先生の添削は、 仏壇の向日葵もくたばつてゐる

 口語で淡々と書いたほうがより伝わるものが深くなる、というような解説であった。

 

 夏井先生の説も尤もと思うが、添削後は、故人が亡くなってしばらく時間が経過し、作者が客観性を取り戻した句になっていると思う。それに対して、森口氏の句には、「なんで、どうしてなの」という納得のいかなさ、つまり怒りがある。添削は添削として、森口氏としては、今の、この今の自分を詠んだ句としてこれはこれでと思う句ではないかと思っている。

 

 

 今年で母が亡くなって17年がたとうとしている。母の早い死に対する「怒り」は静まったが、残念だったという思いは今も消えていない。では。

 

 あっ、ごめんごめん、ダジャレを忘れるところだった。

 私はもともと怒りっぽいほうです。いかり肩、なもんで。ではでは。