おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

芸術の秋に「芸術と猥褻」を考えた

 「境界線上のホライゾン」というライトノベルの表紙を巡って、いろいろ議論があるらしいと、はてなブログお勧め記事を眺めていて知ったわけです。そして、困惑しているのです。

 

GENESISシリーズ 境界線上のホライゾンXI<中> (電撃文庫)

 まず、このライトノベルの表紙をみて私が感じた第一印象は、「気持ち悪い」でした。議論の発端となったツイッター主さんの幼い娘さんと同じ感想です。こんな嫌悪感を感じるものは見たくない、公衆の目に触れていいものだろうか、と思ったわけです。でも、そこで私は、はたと、あるニュースを思い出したんですね。

 

bijutsutecho.com

 

 バルテュスは20世紀を代表する巨匠で、生前にルーブル美術館に作品が展示された数少ない画家の一人なのだそう。ほら、すごい「箔」のついている芸術家でしょ。そんなバルテュスですが、私生活はかなりスキャンダラスで、彼の少女をモデルとした作品は、いかにもロリータ趣味という感じがします。

 

 『夢見るテレーズ』に対して、「少女を性の対象としている」とか、「盗み見を肯定している」と騒いで撤去を求めた女性達がいるというニュースを聞いたときは「不道徳も芸術のウチ、個人の好悪の感情で騒ぐのはいかがなものか」と思ったんですよね。

 ところが、今回、「境界線上のホライズン」の表紙に対して、私が下したのは、まさに個人の好悪による価値判断だったと思うんです。私が「境界・・・」に対して感じたと同じ様な気持ち悪さ・不快感を「夢見る・・・」に対して感じる女性がいてもおかしくはないし、その結果、「撤去を求める」という行動に出る自由もあるわけです。

 

 一方は明らかに「劣情を催させる」ことを目的にしたイラストであり、もう一方はメトロポリタン美術館に飾られた巨匠の作品。でもそんなこと、関係なくないですか?何がポルノで何が芸術なのか、誰が決めるの?どうやって決めるの?マネの『オランピア』だって、発表当時は非難囂々だったじゃない。そんな風に考える自分がいます。

 と同時に、あの表紙の絵はやっぱり受け付けないし、あれを公然と人目にさらして平気な感性の持ち主とは相容れないとも思うのです。(私は、ああいうものを無くせとは思ってはいないです。特殊な性的嗜好はこっそり、ひっそり楽しんで頂きたいと思うの。その方が楽しくないですか?)

 というわけで、最初に「夢見るテレーズ」を巡るニュースに接した私と今の私では、「芸術か猥褻か」という、古くからある命題に対して立ち位置が揺れてしまっているのです。そして、実はですね、それまで特に何とも思っていなかった「夢見るテレーズ」を始めとしたバルテュス作品に対して、なんとな~く、いや~な感触を持ち始めているんですよ。

 「境界・・・」と「夢見るテレーズ」を隔てるものは何か、明確な答が出せない以上、片一方を排斥するわけにはいかないのではないか。でも、一切がっさいを陽の下に晒す、それは正しいのか。そんな思いに揺れる「芸術の秋」を迎えた私なのでした。皆さんはどう思われます?

 ※ダジャレを意図したわけではないのですが、まさに芸術と猥褻の「境界」を考えるきっかけとなったラノベでした。

 

f:id:takakotakakosun:20180918231921j:plain

 マネ作『オランピア』。娼婦だとわかるように描いたことが非難の的となったのだそうです。

 ちなみに、津軽弁では「まね」あるいは「まいね」とは、「だめ」という意味です。

 例文1 マネの真似して描げば、まね。(マネの真似をして描いてはだめだ)