方言詩人・高木恭造(1903~1987)は青森市出身。弘前市で眼科医院を開業する傍ら、津軽弁による詩作・朗読を行い、高い評価を得た。方言詩集「まるめろ」は海外でも翻訳された。
高木の有名な詩に「冬の月」という作品があります。
嬶(かが)ごとぶたらいで戸外(おもで)サ出はれば で始まるこの詩を私が標準語で要約しますと、以下のようになります。
女房をぶん殴って外に出れば、まん丸の月だ
吹雪の後の吹きだまりを、ずんずん歩いてきた
なんで、あれ程の憎しみが湧くのか
そして、今はまた、愛しいと思う不思議
ああ、吹雪のようだ
過ぎてしまえば、まん丸の月
※津軽弁の「まんどろな月」は「明るい月」という意味のようですが、明るい月=満月と解釈し、語感を生かすためにまん丸と標準語訳にしてみました。
昔は、この詩、好きでした。ところが、今はもうダメなんですよ。受け付けないの。DV夫のあまりの身勝手さにうんざりさせられます。時代は変わりましたね。ほんの50年ほど前までは、夫が妻を殴るのは当たり前。女は黙って殴られるのが仕事。下手をすれば、殴られるような妻が悪いという理屈でしたよね。
さらにこの詩で気持ち悪いのが、いわゆる「ハネムーン期」(暴力を振るった後の優しくなる期間)の表現です。ほんと、パターンどおり。
ポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)という言葉を良く耳にするようになりました。「政治的正しさ」という意味ですが、本来の使い方から波及して、差別や暴力等を含んだ表現を批判する場面でしばしば使われるようです。あまりに行きすぎた批判も見られるため、「ポリコレにはうんざりだ」という立場も生まれています。
「冬の月」は、ポリコレを持ち出すまでもなく、DVという概念を知ってしまった私にとって、完全にアウト。「詩」として美しくても、文学としての完成度が高くても、芸術として価値があろうとも、私が感じる「嫌悪感」を覆すことは出来ない。
DVを是としないことによって好きな作品を失う。仕方ない。残念ですが、「失う」方を選びたいと思います。ポリコレとは、そういう痛みを伴った主義主張でもあるのだと再認識しました。もし、私が誰かに殴られて、その殴った誰かが、そのことを詩にする。ウットリと自己陶酔しながら。その詩がいかに素晴らしかろうとも、冗談じゃないぜ!ということなのです。
写真はヴァチカン「サンピエトロ大聖堂」のまんどろなドームです。
今日は理屈っぽい話を読んで頂いて、「どーむありがとうございました」