おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

①置かれた場所で咲いてみた

 「置かれた場所で咲きなさい」というフレーズに聞き覚えのある方は多いかと思います。また、すぐに、「それは渡辺和子氏のベストセラーのタイトル!」とお気づきの方もいらっしゃるかと思います。私は未読なのですが、タイトルの意味するところは何となく分かるような気がしてはいます。(勘違いで無ければいいのですが)

 

 ここ二、三年、六月には友人とバラ園を訪ねているのですが、今年も行ってきました。

f:id:takakotakakosun:20210702094002j:plain

 

 「オルラヤ」という植物はご存じでしょうか。白い可憐な花を咲かせるのですが、とにかく強い植物らしいのです。上の写真で、真っ赤なバラを取り囲むように咲いているのがその「オルラヤ」です。

 昨年こちらを訪ねた折り、このオルラヤが一株150円でポット販売されていました。我が家には庭や花壇と言ったものはなく、植えるとしたらベランダにほったらかしの大きな植木鉢しかありません。

 「西日がガンガンあたるのですが」

 「オルラヤなら大丈夫だと思いますよ。種でいくらでも増える丈夫な花です」

 思い切って買って育てることにし、同行の友人には「種が採れたらあげるね」なんて「捕らぬ狸話」までしたりして。

 結果は、白く可憐な花は十分に楽しめたのですが、種が出来たかな?というあたりで水やりを怠り、枯らしてしまったのでした。私には園芸は向かないなあと、再確認した格好です。

 ところが。

 上の写真のバラ園に行く数日前のことです。雑草の伸び具合をみに、隣家との狭い境界を通って家の裏に行ったところ。

 

f:id:takakotakakosun:20210702095524j:plain

 

 咲いてる~!

 オルラヤだ~!

 ベランダからこぼれた種がこんなところで芽を出してた~!

 すご~い!

 草取りサボって良かった~!

 こんな感じで「~」と「!」の大売り出し。それほど感謝感激雨あられ状態になったのでした。

 そりゃあね、オルラヤだってこんなところで咲きたくは無かったでしょう。肥料どころか土さえ無いような、周りにはハコベしかはえないような、そんな場所なのですから。最初の写真のオルラヤと比べてみて下さい。天と地ほどの違いがあるじゃないですか。

 

 人々の賞賛どころか、ろくに人の目に触れることも無い我が家のオルラヤ。でも、そんな事を思うのは人間の、私の、勝手な価値観というものでしょう。花が咲くのは人にみられるためでは無く、こぼれ落ちたその場所に懸命に根を張った結果なのですから。

 この花を見たとき、「感謝感激雨あられ状態」だったと書きましたが、感謝と感激、その両方を感じたことはウソでも大げさでもないのです(JAROに誓って)。自然(植物)って、私なんかの力の及ばない、とても大きな流れのようなものの中にあるんだなあ、そんな事を感じたのです。

 

 オルラヤは、置かれた場所で咲いている、満足げに咲いている。そして、花が終われば種をつけ、人知れず枯れて行くのでしょう。来年を思い煩うこともなく。

 

 実は今日私が書こうと思った事は、ここまでは導入の部分で、この後いよいよ本題に入るのですが、思いに任せて書いているうちに導入部がとても長くなってしまいました。つまり、「ペンが置かれた場所で紙幅を割いてみた」わけですな。②で続きを書く事にしたいと思います。では。