おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

閑中忙あり

 私の肩書きは「専業主婦」ということになると思うのだが、そう名乗るのはちょっと、いや、かなり気が引ける。というのは、夫は仕事の関係で単身赴任中。しかもかなり遠方なのでめったに戻らない。二人の息子は高校卒業後、東京へ行ってしまった。平素、私は一人暮らしをしているのだ。

 「専業主婦」というからには、主婦業に精を出さなければならないと思うのだが、私の日常はかけ離れている。だって、一人暮らしだもの。質素に食べて、たまに洗濯をして、思い出したときに掃除をするだけだ。

 数年前に息子その2が高校を卒業し、息子と同時に私の一人暮らしもスタートしたとき、友人知人から「寂しくないか」とよくきかれた。「寂しいことは寂しいが・・・」と答えた後、次のように付け加え、確実に笑いをとった。

 「一人になって大発見があったの。部屋が散らからないのよ。そしてね、もっと凄い発見はね、自分で散らかしたときは、腹が立たない」

 

 コロナ禍にあえいだ2020年の暮れ。帰省するか控えるべきか、皆が悩んだことだろう。我が家でも多少の迷いはあったが、家族4人が顔をそろえることは滅多にないことであり、場合によっては場合による昨今の状況を鑑み、全員集合となった。

 大の大人が四人、ほとんど外出もせず一日中家にいる。テレビがずうっとついている。音量が大きい。男三人、揃いもそろって大酒飲みだ。そして、三食きちんと食べる。三人とも中背だが中肉ではなく、洋服はLやLLだ。洗濯物としての圧が凄い。

 忙中閑ありとは、どんなに忙しいときでもわずかな閑はあるものだという意味だ。人気ブロガーの皆さんなど、きっと忙しい日常の時間を上手にやりくりしてブログを書いているのだろう。 

 私はそうじゃない。有り余る時間の中で楽しみながらブログを書いて、ダジャレを考える。でも、暮れからは「閑中の忙」でブログどころではない日々だ。

 幸田露伴の娘・幸田文露伴から厳しく家事をしつけられ、「家事というものは追われてはならない。こちらが追うようでなければ」と言われたという。(うろ覚え)

 家族が揃い、家事の量が膨大に増えるといつもこの言葉を思い出す。そして、時々は、「露伴先生、今、私は家事を追っていますよ」と心の中で嬉しく呟いたりもする。還暦を迎え、そんな瞬間を増やしていきたいものだと今更思ったりする。そして、「閑」を上手に飼い慣らしたいと思う。

 2021年、もの凄い寒波で大雪の新年となった。

 閑人の私から読者の皆様に、カンチュウお見舞い申し上げます。では。

吉野弘「I was born 」を思い出して

 今日の東奥日報9面。哲学者・森岡正博氏の『論考2020 反出生主義への応答』を読んでいたら、大昔学校で習った、詩人・吉野弘氏の「I was born 」という散文詩を思い出しました。皆さんも習ったでしょう?

    I was born:吉野弘

 

英語を習い始めて間もない少年が父に言ったセリフ

・・・ I was bornさ。受け身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだね ・・・

 

 この詩を習って随分たってからのことだったと思います。何かで「英語を持ち出すまでも無く、日本語でも(生まれる)は(生む)の受け身形だ」と読みました。虚を突かれた、というのはああいう時に使うんでしょうね。「ああ」と呻きたいようなショックがありました。なんで気がつかなかったんだろう・・・

 そう、私達は「生んでくれと頼んだ覚えも無い」のに、かってに(生まれて)しまうのです。「生む側」の都合で。

 

 「I was born」には、蜉蝣(カゲロウ)の話が登場します。腹の中にぎっしり充満した卵の描写が生々しくクッキリとしていて、目の前に浮かんでいるかのようです。

 そして、まるで卵を産むためだけに存在するかのような蜉蝣は、その少年を生み落としてすぐに亡くなったお母さんの姿に重なるのです。

 今、おばさんになった私がこの詩を読んで思うことがあります。

 受け身形なのは子供の側だけではない。「生む側」もまた(生まされて)いるのだ、今の私はそう思います。「子供が欲しい」「子供を産みたい」という、いつからかどこからか湧き出る衝動に操られ、ヒトは子を生むのでしょう。「生む」も「生まれる」も、ヒトの意思を超えた何かの「生んでくれ」を受けての結果と思います。

 

 以下、蛇足です。

 「I was born 」の最後のあたり、「お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは」とあります。

 今回、久しぶりにこの詩を読んで、ここの「死なれた」が気になりました。この「れた」は受け身形ではなく、尊敬を表す助動詞かと思います。ちょっと引っかかるんですよね。なぜ、自分の妻に敬語なのかなあって。

 皆さんは「そんな細かいこと」と思われるかも知れませんが、こんなどうでもいいような疑問やひっかかりも又、「生まれて来て」しまうものなんですよ。私の意思とは関係なく。さらに、次のような考えも又、勝手に生まれてくるのです。

 この詩とは別に「死なれた」を受け身形で使うことも可能だよね。実際この詩に登場する父は、妻に「死なれた」男だし。「死ぬ」も「死なれる」も、やっぱりヒトの意思を超えたところにあって、「受け」いれるしかない事なのかもしれないねえ。

 

 人生には、受け入れがたい苦しみも多々やって来ます。それらに対処するためには、「受け身」形を身につけるのも一つの方法かもしれません。もちろん、柔らなことではありませんが。

 最後に、私のダジャレも「生まれて」来てしまうものなのだと言うことを付け加えたいと思います。皆さんは受け入れるしかないのですよ(笑)。では。

一年とも言われない

 タイトルの「一年とも言われない」というのは、津軽のお年寄りがよく使う言い回しです。若い人は、津軽生まれ・津軽育ちであっても、きっと意味が分からないだろうと思います。

 「一年とも言われない」を私が意訳しますと、「年をとってくると、たった一年であっても「たった一年」とは言えないほど、一年間で老化がすすむものだ」となります。

 実感する年になりました。

 先週末は全国的にニュースになるほどの大雪に見舞われましたが、弘前市も降りましたよー。雪が降れば雪掻きに追われるのは雪国に暮らす者の宿命です。今年の三月までの私は雪掻きをあまり苦にせず、運動不足解消とばかりに張り切ってやっていました。ところが、この12月、雪掻きがどうにも嫌になったのです。

 第一に、筋肉が無くなったことが原因かと思われます。以前拙ブログでも書きましたが、今年はウォーキングを怠けに怠け、あっという間に下半身の筋肉が落ちてしまったのです。冷え性が復活して気付きました。筋肉不足・体力不足のせいで、ちょっと「ママさんダンプ」を押しただけでゼイゼイ、息が上がるのです。

 そして、第一の原因に連動して第二の原因、精神的衰えを感じるのです。朝、窓から外の積雪を見た瞬間、うんざりした気持ちになります。そして、雪掻きに出る時間を「あとで、もう少ししてから」とついつい先延ばしにしてしまうのです。3月まではこうじゃなかったんですよ。「雪掻きは朝一番の仕事」という雪国のルールを守って暮らしていたのに。

 体力が衰えると気力と言いますか、精神的なものも落ちるんですね。「一年とも言われない」、実感しています。

 さらに。

 数日前友人のところにお邪魔させて頂くことになり、手土産にとシフォンケーキを焼きました。随分久しぶり、2ヶ月ぶりぐらいでしょうか。型から外しますと、あら失敗、底にへこみがありました。友人には「味は変わらないから」と言い訳をして許して貰いました。

 私はシフォンケーキにはそこそこ自信があったのに、がへこんでいるなんて!納得がいかなくて、先日もう一度挑戦したのです。失敗の原因は卵白の泡立て不足だろうと丁寧に丁寧に泡立てて。ところが、またも失敗。やっぱり底の一部がぼこっと落ち込んでいるんです。

 なんで?

 どうしたの、私。勘が鈍った?

 一年どころか「二ヶ月とも言われない」、ちょっと弱気になりました。そう、落ち込んでいるのです。では。

私の漫勉『チェーザレ 破壊の創造者』第6巻

 私の「漫勉」とは、漫画を読んで勉強するという意味です。現在、惣領冬実先生の『チェーザレ 破壊の創造者』(以下『チェーザレ』)を読んでいるところです。

 以前の私は、吹き出しに書かれた「文字」をかなりのスピードで追っていくという読み方をしていました。が、テレビ番組の『漫勉neo』をみて、漫画家の先生方がいかに「絵」に心血を注いでいるかを知り、じっくりと絵を味わいながら読むという方法に改めたところです。

 時間かかりますね。特に『チェーザレ』は登場人物の名前が覚えにくく、関係性もややこしいので、理解するのにも時間が必要です。でも、丁寧に絵をみていくと、今までは気付かなかった漫画家の力量に今更ながら驚かされます。馬の表情まで描いている!とか。

 また、「文字」を追っているだけでは気がつかなかったような、細かい、本当に細かい「物」に対するこだわりの描写にハッとさせられることが有ります。そして、その気づきをきっかけにネットで調べるという、まさに「漫勉」が始まるのです。

 

 『チェーザレ』第6巻の中程に(コミックスってページが無いのね)、枢機卿が不愉快な内容の手紙をグシャッと握りつぶしているコマがあります。その手紙がですね、「あっ、これは紙じゃない。羊皮紙ってやつだ!」っていう描かれ方なんですよ。握られて出来たシワが紙のシワとは違っていて、縁に厚みもあって。

 物語は15世紀のイアタリアが舞台です。製紙法って伝わってたよね。なんで羊皮紙を使ってるの?それとも羊皮紙だと思ったのは私の勘違い?

 早速ネットで調べてみました。

 結論から言うと、多分羊皮紙で間違い無いと思います。

 確かに中国で発明された製紙法は13世紀後半にはイタリアに伝わっていました。ルネサンス期の15、6世紀にはほとんどのヨーロッパの国に製紙工場がつくられていたそうです。

 羊皮紙とは羊だけではなく、ヤギ・子牛などの皮からもつくられたそうです。私は勝手な思い込みで、羊皮紙は紙が無い時代のいわば代用品で、文字や絵を描くためのものとしては、紙の方が圧倒的に優れていたのだろうと思っていました。ところがそうでは無かったのです。

 羊皮紙は、耐久性はもちろん、書きやすさ、両面を使えるという便利さ、さらに表面を削って修正することも出来ると、あらゆる点で当時の紙よりも圧倒的に優れていたのだそうです。唯一難点は高価だと言うことでした。

 『チェーザレ』第6巻に登場した手紙は貴族から枢機卿に送られたものです。当然、羊皮紙が使われたことでしょう、安価で低品質の紙ではなく。私はかなりの自信を持ってそう結論づけますよ。カミのみぞ知る、なんてぼやかしたりせず。

 

 それにしても、惣領冬美先生も「時代考証に徹底的にこだわった」とは『漫勉neo』で話しておられましたが、ここまでやるか!凄い!漫画って凄すぎる。

 講談社『モーニング』に2005年から不定期連載が始まり、2019年でまだ12巻というのも納得です。惣領先生、ご健康に留意され頑張って下さいね。私も10巻以降は書店で買いますから。では。

 

玄武と羽衣

 少し前に、NHKで放送された『ブラタモリ』という番組で「へえ!」と思った事がありました。訪れた地は兵庫県の城崎(きのさき)温泉でしたが、その地に関連して同じ兵庫県豊岡市にある国の天然記念物の洞窟、玄武洞が紹介された時でした。

 

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玄武洞 - Wikipedia

 

 写真も上のWikipediaのページからですが、柱状節理 節理 - Wikipediaが見事な「玄武岩」の洞窟です。ただ、洞窟とは言ってもこれは自然に出来たものではなく、「玄武岩」を切り出したことによって出来た人工の洞窟なのだということです。

 さて、私が何に「へえ!」と思ったかと言いますと、その「玄武岩を切り出して出来た玄武洞」というロジックが実は逆さまだったということです!「玄武洞から切り出した石だから玄武岩」なのです。

 江戸時代後期の儒学者・柴野栗山がここを訪れた際、伝説上の動物玄武の姿に見えることから「玄武洞」と名付け、明治17年、地質学者・小藤文次郎が岩石の日本名を制定する際に、玄武洞の名にちなんで命名したと言うことです。

 番組でも、「柱状節理が、甲羅やウロコの様に見えませんか」と案内役の方が仰っていましたが、確かに、と思いましたよ。

 柴野栗山殿、ナイスネーミングでござる。

 

 そして、話は変わりますが、私が常々「素晴らしいネーミングだ」と感心しているものがもう一つありまして、この機会にそれもご紹介したいと思います。

 サウナ関連で「羽衣(はごろも)」という用語はお聞きになったことがありますでしょうか。サウナの後、水風呂にゆっくりと身を沈めると体の周りが、膜のような、ゆる~いゼリーのような、冷たいはずの水が不思議な心地よい「何か」に変わります。まるで羽衣をまとったような。

 お笑いで、「○○ってカブトムシの味がするー、お前カブトムシ食ったことあんのかよ-」という、「あるあるもの」ネタがあります。この「羽衣をまとった」という表現にも同じ突っ込み、「お前、羽衣まとったことあんのかよ-」が可能でしょう。

 ところが。

 一度、水風呂で「羽衣」を経験してみて下さい。「ああこれは羽衣だわ」と納得しかないのです。ツッコミの余地がない。突っ込むのは野暮というものです。

 「羽衣」と最初に呼んだ方、ナイスネーミングでござる。

 ちなみに、サウナの通の間ではサウナで得られる最高の状態を「ととのう」と言うそうですが、そこまでいければサウナのプロといったところなのでしょう。私はまだまだそこまでは至れず、せいぜい水風呂の羽衣を楽しむレベルです。アマの羽衣なのです。では。

 

正しく読めるか?雪印「6Pチーズ」

 タイトルにピンと来た方はツイッターをご覧になった方かな?私はネットのニュースで知りました。

雪印メグミルク 6Pチーズ 108g(18gX6)X12個

 ご多分に漏れず、私も50数年の間、ずうっと「ロクピーチーズ」とよんでいました。最近テレビで、可愛い女の子がお尻をフリフリ、「ロッピーチーズ」と歌いながら海苔に乗っけてレンジでチンしているCMを目にしていましたが、それはたまたまその女の子がそうよんでいるだけだと思って、軽く流していました。

 ところが、雪印さんの公式ツイートで、はっきりと「ロッピーチーズ」が正しいと言うことが示されたのです。しかも。「P」の正体も同時に明らかにされたのでした。

 多くの方は「P」はPiece(ピース)のPだと思っているようですが(私も思ってました)、Portion(ポーション)のPなのだそうです。

 さて、問題はここからです。「P」の正体については大丈夫、覚えられると思います。厄介なのは、「ロッピー」の方です。年をとって新しいことを身につけるのは本当に難しいことになってしまったのですが、それ以上に難しいのは長年身に染みついた慣習を改めることです。無意識では絶対に「ロクピー」と発音してしまうと思います。

 

 そう言えば随分前に、友達と三人で森永の「パルム」というアイスの話になったことがありました。その時、友人二人がなぜか二人とも「パーム」でしょと言い、私は一人という劣勢に立たされながらも、「パルム」だよと果敢に応戦したのでした。

森永乳業 PARMチョコレート 55ml×6本×6個

 

 「パルム」という名前は、イタリア語の「手のひら」を意味する「パルマ」からとったそうです。形が手のひらのようである事と、「やわらかく」「あたたかい」イメージを伝えるためのネーミングなのだとか。

 彼女たちはあれから、このアイスを何とよんでいるのでしょうか。「パルム」と改めたでしょうか。間違いに気付かず相変わらず「パーム」と呼んでいるのか。それとも、「パルム」が正しいと知りつつも直すことが出来ずに口から出るのは「パーム」なのか。

 いずれにしろ、「ロッピーチーズ」を知る前の私なら、きっと彼女たちに対し「手のひらで転がすような」優越意識を持っていたことでしょう。「パームだって、クスッ」みたいな。でも、私は悔い改めました。人は間違う生き物なのです。「パーム」だって「ロクピー」だって、通じればいいじゃないか。

 私の周りの方。

 私が「ロクピーチーズ」と言っても、いちいち「ロッピーだよ」と訂正しないで。分かってるんだから。分かってても、つい「ロクピー」って出ちゃうんだもの、しょうが無いでしょう!ええい、いちいちうるさい! 

 そう、年をとると気が短くなるというのはよく言われます。が、それも結局は記憶力が悪くなる事に起因するのかもしれません。間違いを指摘されることが多くなりますからね。

 これからますますこんな間違いが増えていくことでしょう。誰かに間違いを指摘されたときは、怒るのではなく「ああそうなの」とニッコリ出来るような素直さを心がけたいものです。心にいつも「はい、チーズ」ということで。では。

渋柿も甘くなるんですって!

  こちらの過去記事に訂正と追加をします。

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 上の記事で「北国の渋柿は木になったまま甘くなることはない。それなのに小鳥は食べる」と書きましたが、今日、間違っていたことがわかりました。

 たまたま、果樹に詳しい年配の男性とお話しする機会があり、柿について教えて頂いたのです。その方は次のように教えて下さいました。

 

 渋柿も完全に熟すと甘くなるんですよ。小鳥がつつきに来るのは甘くなってからです。でも、そうなった頃、いわゆる熟柿の状態は中がトロトロで、食べると言うより、すするっていう感じになるんです。好きな人は食べるでしょうが、あんまり好まれませんね。昔の人は大事に食べましたけど。

 

 そうなんです。「渋柿は甘くならない」というのは私の思い込みで、ちゃんと甘くなるのだそうです。そして、小鳥は甘い柿を食べに来ていたというわけです。私の認識こそ甘かった!訂正し、お詫びします。

 もう一つ、ついでと言っては何ですが、上の記事に登場する青果三強渋味成分の一強「イナゴマメ」について、雑学を披露したいと思います。

 イナゴマメと聞いても、皆さんピンとこないと思います。私も、どこか外国にそういうマメの種類があるのだろう、でも私には縁もゆかりもないマメだと思ったのでした。ところが、なんの気まぐれか、Wikipediaのイナゴマメのページにとんで見たところ、「ああ、あれか」という発見があったのです。

 皆さん、ダイヤモンドの大きさ(重さ)を表す「カラット」という単位はご存じだと思います。更に、多くの方が「カラット」の語源は、ふんどう代わりに使われた「マメ」の種子に由来するという話を聞いたことがあるかと思います。そう、そのマメ、それがイナゴマメなのです。イナゴマメという和名は英名からの訳ですが、その実をギリシア語由来ではカラットと言い、それが宝石の質量を表す単位となったのだそうです。意外なところでイナゴマメに関するシブい雑学をゲットしたのでした。

 

 今日は、ひょんな事から渋柿に関する自分の誤りを知ることが出来、そうして訂正の記事も書くことが出来、さっぱりとしました。こういう状態を心がカラット晴れた、とでも表現するのでしょうか。では。