おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

ミトコンドリアと俳句

 去る27日(日曜日)深夜、NHK・Eテレで放送された『575でカガク!』。ミトコンドリアを兼題(テーマ)に俳句を詠んでみようという番組です。大人気・夏井いつき先生出演です。私は俳句もミトコンドリアも好きなので、とても面白く視ましたよ。

 

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 ミトコンドリアについては上の過去記事を是非お読みになって下さい。大変上手に手短かに説明されています(本当ですとも笑)。

 

 番組では多数の俳句が紹介され、どれもなかなかの作品でした。中でも下の二つは私のブログ記事内容とリンクしていて、とても面白かったのです。

 句に付した科学的解説は、大阪大学大学院理学研究科生物科学専攻 教授 石原直忠先生の番組内でのお言葉です。

 

 あとかたもなく蟷螂(とうろう)の雄も消え  笑松

 「ミトコンドリアが母系遺伝する事に関連して詠んでいる。全てのミトコンドリアのDNAは母親から遺伝していて、父親からは全く来ない。男性由来のミトコンドリアDNAは本当に跡形も無い」

 

 

 母いづこ東アフリカを熱風  二重格子

 「面白い。ミトコンドリアDNAを調べると母子関係がわかる。どこから人間がそもそも生まれてきたかを調べることが出来る。一番最初の母親が想定できる。それをミトコンドリア・イブミトコンドリアDNAによって割り出された人類の祖先といわれる女性]と言うが、アフリカにいたとされている」

 

 番組の中で夏井いつき先生が、

 「俳人はお題が出されると、まずそれについて情報を集めるんですよ」

とおっしゃると、石原先生が、

 「素晴らしい番組ですね。ミトコンドリアについて勉強する人を1000人以上も増やしたんですね」

と嬉しそうに応えておられましたが、ここにも一人いるのです、ミトコンドリアDNAについてちょっと勉強した人が。

 私が今回勉強しようと思ったのは、ミトコンドリア・イブについてです。自慢げに聞こえるかも知れませんが、私は以前からミトコンドリア・イブの事は知っていました。さらに、「ミトコンドリア・イブ、よくある誤解」についても多少の知識があるのです。そして、前掲の

 ミトコンドリア・イブ[ミトコンドリアDNAによって割り出された人類の祖先といわれる女性]の、[ ]内はNHKの字幕なのですが、気になったんですよね。これは例のよくある誤解を生むなと。

 そこで思ったのです。

 よし!その誤解について文系人間にも分かるように私が説明しよう、そのためには説明できるレベルまで勉強しよう!と。

 その成果は明日です。明日はミトコンドリア・イブについて説明したいと思います。ということで、今夜はミトコンドリア・イブ・イブということになりますね。では。

毒を食わば皿までも

今週のお題「好きなおやつ」

 

 「おやつ」と「デザート」って、違いますよね。私は「デザート」は必ずと言ってもいいほど食べますが、「おやつ」は滅多に食べません。食べないようにしている、と言う方が近いかも知れませんが。

 もともと基礎代謝が低い体質(筋肉が無いということです)に加えて、加齢による更なる低下および運動不足、それが今の私です。なので、三度の食事におやつをプラスすると、てきめん太ります。でも、甘い物は大好き、食べたいのです。そこで縋っているのが、テレビか雑誌で仕入れた、

 「甘い物を食べるなら食後。血糖値の関係で、その方が食間に食べるより太りにくい」という言葉です。

 

 年齢のせいで、大好きな甘い物も、たくさんは食べなくてもいいのです。例えばチョコレートなら一枚の板チョコを4、5日に分けて食べたり、クッキーなら2枚とか。ちょっとずるをして食事自体に甘い物(トーストにマーマレードとか)をとっている時は、デザートは果物にしたりとか。太らないように、結構涙ぐましい努力をしているんですよ。「フグは食いたし命は惜しし」と言いますが、菓子は食いたし太るはヤダし、なのです。

 ですが。

 時々、魔が差したかのように、しっかりとおやつ、しかもガッツリと甘いおやつが食べたくなるときがあります。大福とか月餅とかの餡ものなど。そんな時はどうするか、食べます。なぜか冷凍庫に入ってたりするんですよね、食べたいときに限って(笑)、なぜか(笑)。いくら冷凍でも早めに消費するに越したことは無いしと、心の中で言い訳したりしながら。

 そして、時々外出先でのことなのですが、無性に食べたくなってわざわざそのお店に寄り、買って帰ってまで食べるおやつがあるのです。それは、パン、甘いパン。弘前には美味しいパン屋さんがたくさんありまして、パンを昼食にすることもたまにあるのですが、おやつとして食べたいパンもあるのです。

 最近のマイブームがこちら。

 

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 『アンジェリック』という有名なケーキ屋さんがあるのですが、パンも抜群に美味しいのです。年齢のせいと何回も書くのもどうかとは思うのですが、やはり年齢のせいか、ケーキは食べたいと思わなくなってしまいました。なので、せっかくの『アンジェリック』なのに、私が買うのはもっぱら「パン」なのです。

 こちらは「黒糖クロワッサン」という商品なのですが、考えてみればクロワッサンはほとんどパイ生地のようなものですものね。ケーキ屋さんの得意分野ですよね。加えて、黒糖の焦し具合と言いますか、濃厚さが「ケーキ屋の腕の見せ所」という感じで、美味しいの。当然、カロリ-だって凄いでしょうね。パイ生地=鬼のようなバター、ですからね。

 でも、いいの。食べたい!→食べる!と決めたら迷い無し。

 「フグは食いたし・・・」なんて情けない事は言わず、「毒を食らわば皿まで」だ!

 

 そして、腹をくくってガッツリ「おやつ」を堪能した後、考えることは毎回同じです。「晩ご飯は控えめにしよう・・・」

 おやつを食べた上に晩ご飯までしっかり食べていては、たちまち太るのはわかり切っていますから。

 

 そもそも、なぜ私がこんなに太りたくないと思っているか。それは、すぐに洋服がキツキツになってしまうから。ご飯たらふく、足らぬ服、なんてことにならないよう気を付けているのです。囲が気になるのはメタボだけではなく、そういう具体的な問題もあるのです。

 おばさんの生活もなにかと大変なよっ!って、おやつ八つ当たりするわけではないのですがね。では。

澄むと濁るで大違い

 私は「言葉遊び」のたぐいが大好きなのですが、それは私に限ったことではなく、時と場所を越えて日本人全体に言えることなんだと思います。きっとその理由は「同音異義語」が多いという日本語の特性に絡んでのことなのでしょう。

 

 「世の中は、澄むと濁るで大違い」で始まる言葉遊びは聞いたことがありますでしょうか。私は三つ知っています。

 世の中は、澄むと濁るで大違い。ハケに毛が有り、ハゲに毛が無し。

 世の中は、澄むと濁るで大違い。ザルは引っ掛け、サルは引っ掻き。

 世の中は、澄むと濁るで大違い。福は徳有り、フグは毒有り。

 

 この「澄むと濁る」は子供の頃から知っていたのですが、随分久しぶりに思い出しました。そのきっかけとなったのが、こちらの写真です。

 

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 知人が、「彼岸花が咲いてるから」と呼んで下さって、写真を撮らせてくれたのです。南の方の方は「彼岸花は珍しくもないでしょ?」と思われるかも知れませんが、青森県あたりでは貴重なんですよ。「これが有名な彼岸花か~」と、立ち止まって眺めるレベルです。群生なんて、とてもとても。

 ネットで調べたところでは、彼岸花はかなり古い時代にやって来た外来種で、非常に強い植物なのだそうです。強い外来種というものは、普通はあっという間にあちらこちらに勢力を広げるものですが、彼岸花は人が住んでいるところにしか生育していないのだそうで、その理由が「へ~」なのでした。

 日本の彼岸花は、自然の「三倍体」という染色体の数が特殊な植物で、種を作ることが出来ないのだそうです(種なしスイカのように)。ゆえに、種で勝手に増えると言うことは無く、人間の手で球根が植えられて初めて芽を出すことが出来るのです。

 また、その球根は強い毒があるため、害のある生き物除けのために、田んぼの畦や墓地といった特定の場所に植えられることが多いのだそうです。

 

 さて、そんな彼岸花ですが、別名「曼珠沙華」とも言いますね。字面といい、音と言い、そして墓地周辺に彼岸の頃に咲くことといい、凄く仏教的な感じがします。ところで、「曼珠沙華」、皆さんは何と読まれましたか?普通は「まんじゅしゃげ」ですよね。

 

 でも、こちらの山口百恵さんの曲の題名は「曼珠沙華」と書いて「まんじゅしゃか」、名曲です。是非、お聞き下さい。 


山口百恵 伝説の名唱 曼珠沙華

 

 「まんじゅ~しゃか~」と、百恵さんが情感たっぷりに歌い上げるのですが、ここはやっぱり「しゃか~」ですよね、「しゃげ~」ではなく。

 

 作詞は阿木燿子氏。氏のこだわりの部分でしょうね。ちなみに、曼珠沙華サンスクリットの音訳なので、「マンジュシャカ」と読むこともあながち間違いではないようです。いずれにしろ、「か」と「げ」の違いにこだわるところ、作詞家という言葉のプロはさすがだなと思わせられます。清音か濁音かで印象が全く変わってしまう、まさに「澄むと濁るで大違い」なのです。

 

 そう言えば阿木燿子氏の名字ですが、「あぎ」ではなく「あき」と読むのが正しいそうで、ペンネームにもこだわりというか美意識があるのだなあと、そんな事を思うの一日なのでした。では。

 

なんとなく、ムズムズすること

 急に寒くなって空模様もどんよりしているので、家に籠もって編み物をしています。編み物をする時はド近眼用の眼鏡を外し、裸眼(老眼です)で手許を見ているので、テレビを視ながらと言うわけにはいかないのです。眼鏡を掛けたり外したりの、てんてこ舞いになってしまいますから。

 音楽を聴きながらもなんとなく飽きて、ふと思いついて、Youtubeで「朗読」を聴いてみることにしました。これがなかなかよろしくて、特にショ-ト・ショートなどは編み物のお供にピッタリです。編み物は心の中で目数(めかず)を数えたりもするので、集中して聴く必要があるものは向かないのです。めかずおかずは足りなくなると困りますからね。

 そうして手を動かしながら耳を傾けていますと、ほんの時々、本当に、たま~の事なのですが、「漢字の読み間違い」に気付くことがあるのです。一度ならいいのですが、たまたまそれが複数回登場する語だったりすると、そのたびに、お尻のあたりがムズムズする、なんだか居心地の悪い思いがするのです。何でしょうね、この漢字の読み間違いのバツの悪さ。自分が間違えたときも勿論ですが、人の間違いも妙にソワソワした気分になります。そんなかんじがするのは私だけ?

 

 もう一つ。なんとなくムズムズした話です。

 

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 こちらは弘前大学構内にある「旧制弘高在校生名簿」でして、旧制弘前高校の在学生5,325名のお名前が刻まれています。その中に太宰治(津島修治)の名前もあることから、太宰ファンの聖地の一つとして人気があるらしいです。しばらく前に太宰治好きの友人に誘われて訪れたのです。

  ー 入学者ベースで、卒業者ベースではありません。戦死、病没、思想関係等、がいせんされた方もおりますので ー

 

 このような但し書きがありました。その中の「がいせんされた」の意味が分からず、同行の友人にも尋ねたのですが、やはり「分からない」という返事。

 帰宅し調べたところ、キリスト教で(宗派によるのかもしれませんが)、人が亡くなることを「天国に凱旋する」と表現する、ということが分かりました。その「がいせん」なのでしょうね。意味は分かりました。

 が、意味は分かりましたが、逆にムズムズするのです。キリスト教の言葉なんだ・・・。まあ、旧制弘高生ではない私が口出しすることではないんですけれどね。

 で、これはきっかけで、「がいせん」で思い出した、私自身のムズムズする失敗談です。

 随分昔ですが、職場から業者に急ぎの注文の電話を入れた時のことです。外線はゼロ発信だったのですが、ゼロを押し忘れて、相手が電話口に出るや、勢いよく言ったのです。

 「こちら○○ですが、スミマセンが急ぎでラーメン一つ」 

 「笑。ここ、ラーメン屋じゃ有りませんよ。△△室ですよ」

 「失礼しました」

 

 若い時分の事だったので、もの凄く恥ずかしかったのを覚えています。天気の悪い日に家に籠もっていると、思い出すのはお尻がムズムズするような失敗談ばかりなのです。では。

祖母は最初からおばあさんだった、わけではない

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

 

 母方の祖母について書きます。祖母は明治43年(1910年)生まれなので、生きていれば110歳ということになります。

 

 私は祖母にとって初孫で、祖母は51歳で本物の「おばあちゃん」になった事になります。ちょっとビックリです。何しろ、今年59歳の私はまだ「おばあさん見習い」と自称しているのですから。

 私が物心ついた時には、祖母は見た目も中身も、立派に「おばあさん」でした。まるで生まれた時から「おばあさん」だったみたいに。具体例で近いのは、のび太君のおばあちゃん、あの感じです。

 

 祖母は八戸市内で生まれ育ったのですが、遠縁であった祖父に「見そめられた」様な形で、辺境の地と言ってもいいような「青森県下北郡」に嫁いできました。祖父は大家族の長男だったので、祖母の苦労は並々ならぬものがあったようです。

 祖母の最も優れた才能は「聞き上手」ということでした。それは生まれ持った才だったのか、それとも辛い状況を凌いでいくために、知らず知らず身についたものだったのか(きき管理能力ってやつ?)。いずれにしろ、家族・来客の多い家で、いつも穏やかに聞き役に回っていた姿が思い出されます。

 

 お正月など、孫達が祖母の元に集まった時は、昔のアルバムを見せて貰うのが楽しみでした。特に祖父母の若い頃の白黒写真は、まるで時代物の映画の一場面のような古くささで、私たちは驚きと、半分あきれたようなポカンとした気持ちで、ゲラゲラ笑いながら写真を手に取ったものでした。

 そんな中の一枚に、とりわけ古い一枚でしたが、4、5人の少女が写ったものがありました。全員着物を着て大きく髪を結い上げて、何かの記念に撮ったような、ちゃんとした一枚でした。

 「この写真は誰の?」そう尋ねた私に、祖母は一人の少女を指して、自分だと告げました。

 「へえ、若い頃のばばちゃんは、こういう顔だったんだ」そう思いながら、

 「あとの女の子達は?誰?」と聞きますと、

 「オラの友達さ」という返事でした。

 私はビックリして、二の句が継げないといった感じでした。

 祖母に少女時代があったという事さえなかなかピンとこないのですが、ましてや「友達」がいたなんて!それも、しょっちゅうお茶を飲みに来ているご近所の婆さん友達ではなく、私たちが使う「友達」と同じ意味の「友達」がいたなんて。

 まだ10代だった祖母が親兄弟と離れ、誰一人知った人も居ない、言葉もろくに分からないような田舎に嫁いでくる心細さ。それは容易に想像がつきました。でも、仲の良い友達(それも幼なじみでしょうね)と別れるつらさ、そこまで考えたことはありませんでした。

 

 「友達」という言葉は、なんとなく若い世代だけの概念という思い込みもあったと思います。当時若者であった、自分たちの世界にだけ存在するもの、そんな感覚がありました。なので、祖母に友達がいたという事実にも驚きましたが、それ以上に、祖母の口から「友達」という言葉が発せられたこと、その事が一番の驚きだったように思います。そのせいか、その時の祖母の言葉はいつまでたっても耳の奥にとどまったまま、消えずにいるのです。

 「オラの友達さ」

 

 今から100年も前の大正時代のこと。

 着物で結髪というなりこそ違え、私と同じように友達とのお喋りに興じる一人の女の子がいた。その風景は、当たり前だけれどなんだか不思議で、そしてどこか哀しくもある、私が描き出す祖母の思い出の一コマなのでした。では。

「バブみ」という言葉、バビルサの頭骨という商品

 しばらく前の「はてなブログ」のおすすめに、下のようなタイトルの記事がありました。

乳母はバブみというより臓器売買 - 本しゃぶり

 拝読させて頂いたところ、内容も大変面白かったのですが、内容以上に、心に残ったと言いますかインパクト大だったのは、「バブみ」というネットスラングでした。

 

 Weblioによりますと

バブみ

主にアニメ等に登場する女性キャラクターについて、母性的な優しさ包容力が見出され、赤子のように甘えたい・甘やかしてほしいと感じてしまうさまを表現する言い方

主に「バブみがある」「バブみ感じる」のように用いられる。

バブみ要素は、キャラクター若さとのギャップ暗に前提されている傾向が色濃い。すなわち、典型的バブみは、自分よりもずっと年下であったり、まだ学童であったり、あどけない少女であったりといった(母親らしからぬ人物像中に見出される。バブみ萌え属性一種とも区分できる。

 

  簡単にまとめると、「年下の女の子に、バブウって、赤ちゃんみたいに甘えた~い」という気持ちの高まりのこと、こんな感じ?

 

 いや、日本語における、○○みの「み」、接尾語の「み」の、使いかっての良さは知っていました。形容詞+み=名詞化、ですよね。

 例  面白い(形容詞)→ 面白み(名詞)

    有り難い(形容詞) → 有り難み(名詞) 等々。

 

 さらに、最近の若い人は、この「み」の進化形として、「わかりみ」とか「食べたみ」とか、動詞+み=名詞化、を編み出したりしていて。この辺まではおばちゃんである私も容易について行けていたのですが。ここにきて初耳の「バブみ」。

 

 ほんっとうに、今の若い人の創造力の自由さって、凄いと思いました。赤ちゃん言葉、いえ、言葉ですらない「擬音」・バブに「み」をつけて名詞化するなんて。

 世の中広い、というか、深い!

しばし茫然と致しました。

 

 そして、世の中深い!と言えば、これから紹介する商品です。

 ネットをしていると、勝手に「あなたへのお勧めの商品」が提示されますよね。以前、ブログで下の記事を書くためにいろいろ調べたのですが、 

 

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 絶対にそのせいだと思うのですが、それ以来、私にレコメンドされる商品がこちらです。

 

 

バビルサ 頭骨レプリカ

 「バビルサの頭骨レプリカ」だそうです。

 いや、買いませんよ、値段が値段ですから。「お手頃価格なら、買うの?」って?

 買う!即決!(でも買いませんよ、値段がネックです。首はないけれど)

 

 ほんっとうに、世の中深いと思いませんか?バビルサの頭骨レプリカという商品があり、きっと買い手もいるのですから。

 この「世の中、深いなあ」という感慨、「バビみがある」と表現したいのですが、絶対に流行らないですよね。おばちゃんのセンスの限界を感じます。

 自分でも分かります。ババみがありますよねー。では。

稲刈ってみた

 「稗取り」のお手伝いに伺った知人の田んぼ。いよいよ稲刈りとなりました。「微力ながら」と、昨日お手伝いに参上したのですが、お手伝いになったかどうか。

 初めての稲刈り、私にとっては有り難くも貴重な体験となりました。

 

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 秋晴れの津軽平野。田んぼ、林檎の木、そして岩木山。The 津軽という感じです。知人の田んぼは、この写真の、道路を挟んで手前側に位置しています。

 今時の稲刈りは「コンバイン」を使って、稲刈り・脱穀を同時に行い、その後は機械乾燥という流れらしいのですが、知人の所は違います。刈った稲を天日で乾燥させ、その後で脱穀をするという「手間」のかかる昔風のやり方です。

 

 「この前の雨で水が思った以上に抜けなくて、泥田(どろた)だよ」

 知人が最初に申し訳なさそうに言うのですが、あまりピンと来ませんでした。泥に足をとられる大変さは「稗とり」で経験済み。気を付けさえすれば、そんな風に高をくくっていたのです。

 まず最初、稲刈り機が方向替えをする場所を作るため、手で(鎌で)稲を刈ることになりました。なにしろ初めてなので上手く出来るかドキドキだったのです。が、鎌がいいんでしょうね、思ったよりスパスパ、簡単に出来るのです。

 楽勝~、そう思ったのもつかの間、7,8株刈りためたところで畦まで運んでいくのですが、その往復がきつい。泥田の洗礼を受ける事になります。一歩一歩が重い。戻って、しゃがんで刈って、立ち上がって運ぶ、15分で、「ちょっと休みます」

 その後まもなく、「後は機械でやるから、棒掛けに回って」と配置転換になったのですが、昔の人は凄いですね。全部、手で刈ったんですから。もの凄い重労働です。

 

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 「機械」って凄いんですよ。刈られた稲は一定の太さで紐で束ねられて、並べられていくんです。それを集めて、「棒掛け」にして乾かします。

 棒を立てるのは、力持ちの若者が一手に引き受けていました。専用の器具で地面に穴をあけ、その後、先の尖った杭を力一杯突き立てるのですが、その様はまるで獲物を仕留めるかのようです。

 その立てられた杭に知人が横棒をロープで結わえ付け、土台となる稲束を10束ほど、手、膝を動員してバランス良く乗せます。この一連の流れはコツがいるので、知人一人で休む間もなく、次々とこなしていくのです。

 私と数人の手伝いは、広い田んぼから稲束を拾い集めつつ、土台が出来た棒杭に、井桁になるよう稲を積んでいきます。稲も束になると、結構な重さです。脇に抱えたり、肩に担いだり、少しでも楽な方法はないか試行錯誤しながら、

 「稲が重いって、農家にとっては嬉しいことなんだろうな」

そんな風にも考えてみるものの、重い物は、重い!そして、泥田を歩く長靴も重い!歩いている距離は決して遠くはないのですが、一歩一歩が本当に重い。時には泥に足をとられて転びそうになったり。

 午後からは西日が容赦なく照りつけ、全身から滝の汗。ゴム手袋をつけた手も汗をかくのですが、人間の手から、これ程の汗が出るものかとビックリです。

 私は勝手に休憩をとったり、また、しょっちゅう水分を補給したり、本当に自分ペースの「お手伝い」なのです。それに比べて本職の農家たる知人の働きぶりときたら。「餅は餅屋」と言いますが、もちろん米だって、やっぱり本職は本職なのです。凄いなあ。

 

 ほんの半日前までは黄色く実っていた田んぼが、あっという間に刈り田になります。稲束を集めていると、イナゴが盛んに飛び交います。それはまあ想定内と言いますか、「稗取り」でも経験した眺めです。驚いたのは、蛙です。稲という隠れ蓑を失って、オロオロと泥田の中を這ったり、跳んだり。あんなに沢山の蛙を見たのは初めてです。普段は蛙一匹にも「キャー」な方なのですが、不思議と平気なものです。「帰るところがなくなっちゃったね」と、同情心までおきました。頑張って生きてケロ。

  さあ、とりあえず今日の分の作業は終わりです。おばちゃんは帰るよ~。

 

 陽がさして、風が吹いて。汗をかいて稲刈りして。イナゴが飛んで、蛙が跳ねて。私の4連休二日目は、なかなかのものでしょう?「稲刈り、い~ね~」と言って。では。