おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

物は考えよう、ということで。

今週のお題「元気の秘訣」

 

 あの~、青森県弘前市にお住まいの方、本当に申し訳ない、ご免なさいという感じです。私がブログでさんざん「雪が降らない」とか「暖冬だ」とか書いたばっかりに・・・。今回の大雪、私のせいですよね、責任感じています。

 ニュースによりますと、9日11時発表の、弘前における6日からの72時間の降雪量は80㎝で、全国一だったのだそうです。一度にやって来てしまいましたね。

 特に、9日日曜日!多くの市民が玄関の扉を開けて立ちすくんだのではないでしょうか。少々の雪では驚かない青森県人ですが、あの日は凄かった。40~50㎝はありましたね。それでも、ウチのあたりは市内でも雪が少ない方で、「山」に近い方ではどれだけ積もったことか。皆様、雪かきお疲れ様でした。

 折しも、「はてなブログ今週のお題は「元気の秘訣」です。

 例えば、雪かきが大変なとき、私は自分に語りかけていることが二つあるんです。ちょっと綺麗事に聞こえるかもしれませんが、一つは「健康であることの幸せ」、もう一つは「雪かき程度で済むありがたさ」です。

 雪国で一戸建てに暮らす限り、雪かきは逃れられない宿命です。何歳まで出来るかな?年をとって雪かきが出来なくなった時はどうなるのかな?そんな事が頭をよぎるこの頃ですが、とりあえず今の私は健康で、そこそこ体力もあり、こうして自分の雪は自分で片付けることが出来る。そう考えれば幸せだな~と思うのです。それになんと言っても時間がたっぷりある身の上、ゆっくり自分ペースでやればいいのですから、気楽です。

 また、昨今は、ちょっとテレビをつけただけでも、ウイルス感染で大変な目に遭っている人々、オリンピックを控えて事故に遭った選手、いきなり土砂崩れで命を奪われた高校生など、不運という言葉では片付けられないような人生の局面に遭われている方々のニュースを目にします。

 なんだ、大雪ぐらい。雪かきですむならラッキーじゃないか、そんな風にも思えるぐらい、人生は一寸先はわからないものです。気の持ちようでしのげる程度の苦労であれば、「物は考えよう」と自分で自分を鼓舞し、前向きに暮らしていきたいと思うのです。

 

 そして、なんと言ってもチョコレート!「これが終わったら、コーヒーとチョコレートで休憩だ」、そう自分に言い聞かせるのです。

 甘い誘惑にはご用心と言いますが、自分で自分にあげるご褒美、しかも、ちゃんと道路の雪かきをした後なのですから、道を踏み外すようなことは無いと思います。では。

 

 ↓ 知人から頂戴した神戸土産のチョコレート。手のひらにチョコンとのる大きさ。包みを開けると、予想外の展開。

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↓ 開けますよ~

↓ いろんなお味で美味しいの。ハッピー!

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今日もまた一つ、賢くなってしまった

 何気なくつけたテレビで、世界遺産であるフランスの『ミディ運河』について知りました。そして、「運河」そのものについて、そうだったのか~!!!と、!を3個つけても付け足りないくらいの新知識を得たのです。

 

 「運河」って水平なんですって。知ってました?

 そう言われてみると、今までに目にしたことのある運河は、国内外、大小にかかわらず、ほとんど「流れ」というものがなかったような気がします。言われてみないと気づかない事って、本当にあるものですね。いくつになってもそう思います。

 

 番組では「なぜ水平でなければならないのか」はすっ飛ばして、ミディ運河が高低差を克服するためにどのような工夫を凝らしているかについて、詳しく紹介していました。

 勿論、その工夫と克服の苦労も凄いのですが、運河初心者の私としては、「なぜ水平?」なのかにも一言触れてほしかった。そういうことが気になってしょうが無い性分なので。それとも、「なぜ?」と思うのはごく少数派で、「当たり前じゃん!」なの?

 まあ、日曜の夜でもあるし、「なぜ」派のために話をすすめたいと思います。

 

 ネットで調べたのですが、はっきりとその謎に言及しているページは見つけられなかったのですが、断片的ないくつかの記述を私なりにつなぎ合わせてみたところ、だいたい次の二つの理由があるようです。

 一つは安全性のため。高低差のある運河では、速い流れがあったり、また天候によって急流が発生したりするため、運行に危険が生じることが考えられます。

 二つ目は効率的に運行するため。高低差による流れがある場合、流れに逆らう方向の運行はコストが高くなるということのようです。

 これら二つの他にも理由があるのかもしれません。ご存じの方は教えて下さい。

 

 さて、運河を建設する際、ほとんど平らな地形である場合には、簡単に水平な運河を建設することが出来ます。対して、高低差のある地形で建設する場合には大きく三つの方法があるそうです。これもネットで調べたものです。

1.ロック方式 船をロック(水門)とロックの間に閉じ込め、水量を調節し、上げ下げする

2.インクライン方式 勾配にレールを敷き、ケーブルカーのように引っ張る

3.リフト方式 船を浮かべたケージを上げ下げする

 

 ちなみに、あの『スエズ運河』は、地中海と紅海の海面と同じ高さの水平な運河なのだそうです。なので、満たされているのは海水です。一方、『パナマ運河』は途中に山があるためロック方式で造られており、淡水で満たされているのだそうです。

 

 いかがでしたか?

 何気なくつけたテレビでも、こうして新しい知識の扉が開くことがあるのです。

 うんが良ければ、ね。では。

 

 ↓ 運河と言えば、ベネツィア

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替え歌も好きです

 今日の記事はただの覚え書きとも言うべき、何の中身も無い記事です。(いつもじゃん!って、誰か突っ込み入れました?)

 

 昨日、「荒井注」という懐かしい名前を書いていて、思い出した有名な替え歌があるのです。しかも、それが引き金となって、次々と思い出してしまって。

 私のダジャレ大好きは読者の皆さんは良くご存じの事と思いますが、替え歌も大好きです。つまり、言葉遊び全般大好き!ということです。

 では、昭和感満載でお送り致します。

 

替え歌①(元歌は、神田川

  あなたは、もう、忘れたかしら~ あらい~ ちゅうが ドリフに居たのを~♪

 

替え歌②(元歌は、お富さん)

  いきな黒塀~、見越しのま~つに、あだな姿の あらいぐま~♪

 

替え歌③(元歌は、港のヨーコヨコハマヨコスカ)

  「あんた、あの娘のなんなのさ」

   南田洋子長門の嫁さん~♪

 

替え歌④(元歌は、カルメン’77)

   わたしの免許は、仮免でっす ♪

 

 いかがでしたでしょうか?

 いやぁ、替え歌って本当にいいもんですね~。それではまたお会いしましょう。(これは替え歌ならぬ、替え台詞です。映画評論家・水野晴郎氏の有名な台詞の)

 それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ・・・。  

バイエ=マクニールさん、「明らか」ではないですよ

 偶然目にした ↓ こちらの記事。

人を「ハーフ」と呼ぶ人が無邪気にしている差別 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

 日本在住のバイエ=マクニールさんというコラムニストの方が執筆された記事です。内容については、「ふ~ん」という感じなのですが、ちょっと異論を唱えたいというか、昭和40年代の日本の記憶がしっかりとあり、かつ、それ以前の日本社会についても聞きかじりの記憶のある者として、これは書いておきたいと思うところがあったのです。

 

 『例えば、「ハーフ」という言葉を例にとろう。差別の意図はなく、無邪気に使われる場合が多いが、その言葉そのものは一部の日本人を「普通の」日本人と区別したいという思いから生まれたのは明らかだ。彼らの「異常さ」がその日本語には埋め込まれている。』

 

 氏の文章から引用したこの部分なのですが、「ハーフ」という言葉に対する認識が間違っているように思われます。

 まず、私の「聞きかじり」の記憶の部分なんですが、戦後、あちらこちらに誕生した日本人と、白人または黒人との間の子供たち。彼ら彼女らは「混血児」と呼ばれ、その呼称には多分に侮蔑的な意味合いがあったようです。そして、「混血児」という言葉以上に差別的な意味合いで使われていたのは「あいの子」という言葉であり、勿論、混血という意味のある言葉でした。

 次に、私のはっきりとした記憶なのですが、昭和40年代、テレビに引っ張りだこだった『ゴールデン・ハーフ』というガールズ・グループがいました。特に、メンバーの一人、コミカルでチャーミングなエバちゃんの人気は絶大で、『8時だヨ!全員集合』での荒井注氏との掛け合いは絶妙でした。懐かしいですね。

 

 さてさて。

 ここで二つのことを問いかけたいと思います。

 一つ目。もしも「ハーフ」が差別的な意図という異常さをもって生まれた言葉だとしたら、当時、それをわざわざこれから売り出そうとするグループの名前にするでしょうか。

 二つ目。バイエ=マクニールさんは「ハーフ」のかわりに、「ミックス」という言葉をお使いです。日本語に訳せば「混じり」、つまり「混血」です。日本のおよそ70歳以上の方の中には、

 「昔は混血児、あいの子と馬鹿にされた。今度はミックスか」と思う方もいるかもしれません。言葉の問題は、氏が思っている以上に複雑なのではないでしょうか。

 

 以上、私の書いたことは、自分の経験・記憶という狭く脆い土台のうえに立っていることなので、氏のように「明らかだ」と力強く言い切ることはできないのです。が、「果たしてそうなのか?」という疑問というか異議が生まれ、それはどうしても書いておきたいと思ったのです。

 だって、せっかくブログをやっているのですもの。ダジャレを発信したいという熱い思いと、言いたいことを言いたいという強い思いが、私のブログではハーフ・ハーフなのですから。では。

犬は歩けば棒に、おばさん歩けば?

 いつも午前中はダラダラと過ごしてしまうことが多いのですが、今日は12時までに銀行で振込みをしなければならないというミッションがあったので、珍しくシャキシャキ行動しました。

 2月3日という、例年であれば最も寒く、深い雪に半分閉じ込められたように暮らしているはずの今日、なんと朝から雨が降っているのです。いくら暖冬たって、限度を超えてない?

 車にしようか徒歩にしようか、少し迷いましたが、なんたって私には少し前に買ったばかりの防水仕様のブーツがあるし、

  雪国でブーツを買うときは 2 - おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

あまりにも運動不足すぎる毎日なので、傘をさして歩いて、ついでに駅前まで出て他の用事も足してくることにしました。

 銀行に到着し、振込用紙を記入している間に汗が噴き出してきました。念のためと思ってマフラーをしていたのですが慌てて取り去り、それでも暑くてダウンコートも脱ぎました。2月の弘前で、ですよ。いくら暖冬たって、限度を超えてない? 

 銀行の用事を済ませ、駅に向かい、駅の中を抜けて駅前にある市役所の出張所へ。その後は少し買い物を済ませ、あとは家に帰るため再び駅へと向かい、駅前のホテルの前に差し掛かったときです。12時頃だと思います。

 うそ!まさか!ほんとに?

 今、2月なのよ。ここは青森県弘前市なのよ!いくら暖冬たって、限度を超えてない?これは写真に撮らなくちゃ!

 

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 一度だけゆっくりと羽を広げたのですが、鮮やかなオレンジ色をもつ美しい蝶でした。スマホで写真を撮っている私を、怪訝そうにみながら何人かの若い通行人が通り過ぎていきました。

 ちょうど最後の写真を撮り終えたとき、一台の車がホテル前にとまり、送ってもらって来たおばさまが降りて来ました。そして、おばさま特有のフレンドリーさで、すぐに「何?何?」と訊いてきます。もちろん、私もおばさん特有のこだわりのなさで応えます。

 私 「蝶々。2月の弘前で蝶々。ビックリ通り越して、なんだか怖いですね」

 彼女「あれー。可愛そうに。ここにいれば踏まれるか車にひかれてしまう」

そう言うと、彼女は蝶々を指先でつまみあげ、傍らの植え込みに移してあげたのでした。そして、

 彼女「怖いと言えば、コロナウイルス。大変だよね」

 私 「ホントにね、怖いですよね。お互いに気をつけましょうね」 

 彼女「うん、気をつけて」

 こうして、ほんの4、5分前に会ったばかりのおばちゃん二人、まるで昔からの友人か親戚のように語り合い、別れたのでした。

 

 引きこもりがちの私が久しぶりに外出してみると、真冬の蝶々というチョー珍しい物が見れたり、見ず知らずの方との心温まる出会いがあったり。

 令和2年は、年明けからコロナウイルスという恐怖がやってきてしまいましたが、人混みは避けつつも、外の空気を吸うことも必要だなと改めて思ったのでした。では。

 

 ↓ 2018年2月7日撮影。2月の弘前はこれが本来の景色のはずなのですが。

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遠足の思い出ーアツギむつナイロン

 NHK総合『チコちゃんに叱られる』を見終わったところです。

 

 いや~、懐かしい~。私の故郷、青森県下北半島にあるむつ市が紹介されたのです。ストッキングの生産シェア日本一の町として。

 むつ市にあるストッキング工場とはATUGIさんのことで、正式な社名はともかく、地元では「アツギナイロン」と呼ばれ、50年以上の歴史ある工場なのです。

 昭和40年代。私の村では、中学校を卒業した女の子は「アツギナイロン」に就職し、工場内にある「昼間定時制」に通うというのが大きな選択肢でした。男の子は中卒で漁師になるというのが、それと同じぐらい普通だったと思います。私が中学を卒業する頃はギリギリ50年代に入り、全日制の高校に進学するのが当たり前になりつつありましたが。

 

 小学校低学年の遠足だったと思います。遠足は年に二回ありまして、一回は徒歩で、もう一回はバス遠足だったように記憶しています。そのバス遠足で訪れた「アツギナイロン」のことは強く印象に残っているのです。

 遠足の後、図工の時間だと思うのですが、工場の絵をかきました。私は絵はとても苦手で、いつも楽しさよりもイヤイヤ感が大きいのですが、その時の工場の絵は、特につまらない思いで描いていた記憶があります。

 何がいやだったかというと、それは色ですね。絵が苦手ということはデッサンができないということなので、せめても色は楽しく塗りたい。ところが、「アツギナイロン」の工場は壁も床も地味な薄緑(だったと思います)、働いている人の服装も地味色、おまけに製品のストッキングは肌色ばかり(だったと思います)。

 我ながら下手だと思う絵に、パッとしない色を塗る作業のつまらなさ。うんざりしていた自分の心情が、工場全体に漂っていた化学薬品のニオイのように、うっすらと、でもいつまでも消えずに残っているのです。

 幼心に、働くということの苦しさが、なんとなく分かった工場見学だったのかもしれません。

 

 さて。

 「アツギナイロン」のストッキングと言えば、「フルサポーティ」。

 それまでのナイロンストッキングには無かったフィット感は感激物でした。価格は少々お高めでしたが、その分丈夫だったので結果的にはお得と思い、愛用しましたねえ。最近はスカート自体あまり履かなくなったのと、夏の暑い盛りにはソックスで凌ぐので、ストッキングを買うことも滅多に無くなりました。今はどうなんでしょう?どういった製品が売れ筋なんでしょうかね。

 流行に弱いのが女性のサガですが、中でもストッキングの流行には、とりわけ敏感だと思うんです。だって、でんせんするでしょう?ストッキングだけに。では。

 (ちょっと今の時期に「でんせん」ネタはどうかとも思ったのですが、我慢できなかった。これが私のサガです)

映画『キャッツ』を観て思う、猫のフォルムの可愛さについて

 あまり評判の芳しくない、映画版『キャッツ』を観てきました。

 ところで、皆さんは映画に何を期待しますか?あるいは、映画ならではの面白さとは何だとお考えでしょうか。

 映画は総合芸術だという説をよく聞きます。様々なジャンルの芸術、文学・演劇・音楽・舞踊・美術そして現代のCG効果など、あらゆる方面の才能を総動員して作られるのが今日の大作映画なのですから、当然と言えば当然の説です。そして、それらの様々な要素の中で、どれに重点を置いて観るのか。それがその人の映画に期待するものということになるのでしょう。

 

 さて、『キャッツ』です。うーん、私は55歳以上割引で1,100円だったので、まあいいかなといったところです。劇団四季など、なかなか観る機会も無い青森県住みなので、名高いミュージカル『キャッツ』の大体のところが分かっただけでも良しとします。(分かった、というところがミソですね。味わえたわけではないのです)

 

☆良かったところ

 ・白猫ヴィクトリアの顔が美しくて可愛い。ダンスがさすがバレリーナ、優雅。

 ・ロンドンの町並みが効果的にあらわれて、「町並み好き」はワクワク。

 ・テイラー=スウィフトのセクシーな存在感

★もの足りなかったところ

 ・ストーリーにもキャラクターにも深みがない。「もともとキャッツってそういうストーリー」という意見も散見しますが、生で歌や踊りを楽しむ舞台ならそれでいいでしょうが、何のために映画にしたの?迫力では舞台に敵わないのはわかり切っているのですから、もっとドラマ性やストーリー性にこだわって欲しい。ビジュアルは大人向けなのに内容はお子様向けでした。

 ・CGを駆使した毛の生えたボディスーツではなく、「衣装」にして欲しかった。舞台なら猫になりきった俳優の演技も見所になるのでしょうが、どうせCGの毛並みや尻尾の動きをみせられるのなら、それぞれの猫の個性に合った衣装がみたかった。ダンスだって素敵な衣装をまとった方が、もっと視覚効果が高まったと思う。

 それに、「衣装」にすれば雌猫たちの体型も、もっとボン・キュッ・ボンの魅力的な造形にできたのに。あの姿でそれをやったらセクシーではなく、猥褻になってしまうものね。

☆新しく気づいたこと

 ・スクリーンの猫たちをみていて、ずっと違和感を感じていました。何だろう?とても良くできているのに。

 二本足で歩いて踊るから?いや、許容範囲。

 眉毛や唇が許せない?全然。むしろ、各俳優の顔立ちを残したまま猫っぽくなっていて、凄いなーと感心しました。

 そして、ハッと気づいた違和感の正体は、首と肩だったのです。そうだー、猫には首も肩もないよねー。だから、ジュディ=デンチやジェニファー=ハドソンのように、首の周りに盛大なモコモコが付いていると、猫っぽさが増して見えるんだー。

 登場する俳優さんたちは、男性も女性も肩幅がしっかりした首の長い方が多く、それが私の目には「猫」には見えて来ない理由だったように思われたのです。

 ・猫のフォルムの可愛らしさと猫らしさは、やっぱり幼形成熟にあるということ。

  https://chokoreitodaisuki.hatenablog.com/entry/2019/05/19/153948

  上の過去記事に書きましたが、猫は子供の丸い顔を残したまま大人になるのです。にもかかわらず、猫ってどこかセクシーでもありますよね。

 丸く、体長にたいして大きい顔。狭いなで肩(?)。そして、座った時の丸い背中。これらの特徴をそのまま擬人化しては、セクシーな猫の姿にはとてもならないわけで、でもデフォルメし過ぎるとエロくなりすぎてしまうし。難しいところだと思います。

  

 映画化にあたって、制作陣のご苦労は並々ならぬものがあっただろうとは思うのですが、さっき観てきたばかりという、熱々の感想が以上です。

 決して猫舌の私ではないのですが、評価としてはピリピリとした辛口になってしまうのでした。あしからず。では。

 ↓ 箸置きです

 

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