遥か昔のことだが、京都人の時間感覚についての文章を何かで読んだ。いわく、
『京都では時間の流れが違う。「この前の戦で焼かれて」と聞けば、普通は第二次世界大戦を思うだろう。ところが京都では、応仁の乱だったりする』
恐らく、誇張というか少々の揶揄というか、そういった色合いで書かれた文章だったのだろうと思うが、どこかユーモラスな感じもして、印象に残ったのだと思う。
観智院『上段の間』で案内の方がこう言われました。
「観智院は応仁の乱では焼けなかったんですが、その後、地震で倒壊しまして。長者様のお住まいがなくてはお困りでしょうと、客殿をねね様が寄進して下さったのですよ」
出た〜、応仁の乱!京都の人は本当に、普通に応仁の乱を語るのね。私は内心、かなり興奮しました。
そして、「ねね様」って!親戚かなにかのような親近感じゃない?
更に説明は続きます。
「観智院には、吉岡一門を倒して命を狙われた宮本武蔵が、三年ほど匿われていたんです。正面の壁は獲物を狙う二羽の鷲。左手の襖は交差する二本の竹。どちらも、宮本武蔵の作と言われています。二本の竹は武蔵の二刀流を表すとも言われています」
「現実の竹はくびれてはいないですよね。武蔵はくびれた竹に、節を力強く描きました。そこに武蔵の精神の強さが表れていると仰る方も。」
壁の絵は傷みが激しくて、説明無しでは何が描かれているのか判別が難しいほど。それでも、迫力ある鷲の絵だということは分かり、私が、
「目のところがちょうど紙が剥げて、白く抜けているのが逆に鋭い目に見えます」と言いますと、案内の方から思いもよらない答えが返って来たのでした。
「はい、傷んだところは和紙を貼って修理してるんですよ、鷲だけに」
!
思わず拍手。やられた〜、宮本武蔵ばりの不意打ちでした。
なんの予備知識もなく訪れた観智院。目に映るものだけでも素晴らしいのですが、歴史や隠れた物語を知れば知るほど、その凄さに目をみはらされます。そして、自分がいかにものを知らないか、思い知らされます。
家に帰ってから、宮本武蔵と観智院のことをちょっとだけ調べました。
吉岡道場の吉岡兄弟を破ったあと、武蔵は吉岡一門と決闘を行います。一乗寺下り松の決闘、です。
吉岡道場の跡取り、11歳の源次郎他数人を斬り倒した後、武蔵は鉄砲をかいくぐり、泥田を駆け抜けて観智院に逃げ込んだ、とネットで読みました。
(グーグルマップで調べたところ、一乗寺下り松から観智院までは、徒歩2時間と少し。体力あるなー、武蔵)
剣豪にして、芸術家でもある武蔵。まさに「二刀流」の人なのだと、こんな感想も観智院を訪れたからこそなのです。素晴らしいぞ、観智院!なのです。では。