おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「ひとりめ幸せ」という津軽の慣用句

 「一人前」と書いて、何と読みますか。普通、つまり標準語的には「いちにんまえ」でしょうね。でも、私の住む青森県では、「ひとりまえ」という読み方も普通にします。意味や使い方は「いちにんまえ」と同じだと思います。

 「口だけはひとりまえだ」、こんな風に使います。そして、「まえ」が「め」に縮まった、「ひとりめ」という言い方も一般的です。

 ネットで、この「ひとりまえ」という表現について調べましたところ、そういう読み方は無いとか、間違った読み方だといった意見が多数みられましたが、それはあくまでも、その方の生活圏での事であり、日本のどこかでは「日常に生きている」言葉なのです。実際ネットで調べた中で、鹿児島弁では「ひといまえ」と言うそうで、これは確実に「ひとりまえ」の仲間ですね。

 

 タイトルの「ひとりめ幸せ」というのは、津軽の60オーバーの人々が使う慣用句です。若い人は使わないと思います。

 津軽出身の友人達と、どういう意味だろうかと話したことがあります。

 周りが苦労している中で、自分だけ好き勝手に暮らしているような人を皮肉る表現だろうとは一致しました。でも、その後も何回かこの話になり、別な意味も見いだしたのでした。

 「人って、他人から不幸に見えても案外幸せだったり、逆もあったりするよね。結局、幸せは自分の心が決める、みつを。なんだよね」

 「そうそう。ひとりめ幸せって、自分だけが幸せってことだけど、自分の幸せを決めるのは自分って考えれば、幸せは全て”ひとりめ幸せ”、なのかもね」

 なんとなくスッキリしないところも有りましたが、これで「ひとりめ幸せ」には、けりがついたような気持ちになっていました。

 

 二、三日前の事です。Youtubeで『テレフォン人生相談』を聞いていますと、いよいよ最後、加藤諦三先生の「締めのお言葉」になりました。

 

 不幸になれるのは、幸福な人だけです。本当に不幸な人は、自分が不幸であることに気付きません。

 

 衝撃的でした。

 そして、私はすぐにある知人に思い至りました。その人は病的とも思えるほど自己愛が強く、対等な人間関係では満足できないのです。他人との関係は、常に自分が「上」でなければ気が済まず、他人に、そして自分に対しても、見苦しいほどの虚勢をはる人でした。若い頃ならともかく、そういう人が年老いて、血縁者も少なくなっていけば、どのような老後になるかは想像がつきますよね。それでも、その人から出るのは様々な自慢話で、最後につく口癖は、「自分ほど幸せな人はいない」でした。

 加藤諦三先生の言葉を聞いて、あの人のあの言葉は本気だったんだ、私はそう確信しました。強がりを言っていたのではなく、自分の不幸に気付いていなかったんだ・・・。

 さらにもう一つ。

 「ひとりめ幸せ」、この言葉は、実はもの凄く深い意味があるのではないか、それも思いました。

 周りが苦しんでいるのに、その事に気付くことの出来ない人格。そういう人間がやがて味わうであろう苦しみ。そうなんですよ、自分の不幸に気付かない人間も、「苦しみ」は分かるんです。そして、その原因を「外」にばかり求め、苦しみ続けるのです。「なんで自分がこんな目に」と。

 

 「ひとりめ幸せ」の正しい意味は分かりません。調べてもその言葉自体、見つかりませんでしたから。でも、実際に使われているのは事実ですし、使う人はだいたい似たり寄ったりの意味合いで使っています(言葉ってそういうものでしょう?)。私が述べた様な意味は、少し大げさな気味はあるかも知れませんが、当たらずといえども遠からず、そんなところではないでしょうか。

 

 話は少し変わりますが、私達方言話者は「標準語+方言」と、標準語しか知らない人達よりは、遙かに豊富な語彙を持っています。

 ですので、標準語しか知らないような都会育ちの方は、そこをきちんと自覚されてですね、言葉に対しての謙虚さを持って頂きたいと思うのです。自分の少ない語彙の中で「そんな言い方はしない」とか、「間違った言い方」などと断ずるのではなく、聞き慣れない言葉には、例えば「どういう使い方するの?」といった風に、知的好奇心というものを持って頂きたいと思うのです。

 「ひとりまえって、何?いちにんまえでしょう。ゲラゲラ」なんて、文化の多様性を頭から否定するような態度をとって、「ひとりめ幸せな人だ」と相手に思われないよう、お気をつけなされ、そう忠告してしめたいと思います。では。