おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

ソメイヨシノとサクランボ

 弘前公園の桜は満開を迎えたようです。そしてここ2,3日の弘前は、大風が吹き荒れるという皮肉な天候なのです。咲き誇る花の重さに耐えきれず、折れてしまった枝もあるとか、コロナ禍に加えて苦難の多い今年の桜です。

 弘前公園の桜は品種の多さも自慢ではありますが、圧倒的に多いのはなんと言ってもソメイヨシノです。

 私は昨年、リンゴについて拙ブログに記事を書くためにいろいろと調べ物をしました。その結果、植物の「自家不和合性」や「自家不結実性」というものを知ることが出来たのでした。それらについてザックリ説明しますと、「雌しべは、自分と同じDNAの花粉では実をつけない」という事になろうかと思います。

 

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 ソメイヨシノはクローン、つまり日本全国のソメイヨシノは全て同一のDNAを持っています。そこまでは、昨年の私も知っています。そして何の弾みか、今朝気付いたのが、「だからソメイヨシノには実がならない」という事でした。もし、あれだけの桜の花が全て実をつけたら大変な量です。チェリ-も積もれば山となる、です。

 勿論、中には小さな実をつけるものもあるでしょう。でもそれは、同じ頃に咲いた他の品種の花粉を貰って出来た実であり、「ソメイヨシノの実」とは言い切れないものだと思われます。逆に言うと、その実が土に落ち、芽を出して生長したならば、新しい品種の誕生となるのかも知れませんね。

 

 また、ソメイヨシノの実に連鎖して気付いた事があります。ああ、と得心がいった瞬間、懐かしさでいっぱいになりました。

 私の実家には桜の木が何本かありました。どれもソメイヨシノではありませんでした。遅咲きの八重咲きの品種で、花びらの色も濃いピンクという、なかなか豪華な桜だったのですが、植えられた場所があまり良くなくて(建物の陰になっていました)、手入れもされず、じっくり眺められる事もない、不遇な桜の木達でした。

 ところが、花が終わってしばらくたった頃、その木達が村の子供達の注目の的となる時がやって来るのです。もうお分りかと思いますが、我が家の桜はとても小振りながら「サクランボ」と言ってもいいような実をつけるのでした。

 私が小学校中学年の頃までだったでしょうか。田舎のこととて、よその敷地も何も関係なく、元気な男の子達がそのサクランボをとりたくてやって来ます。サクランボをとるのは構わないけれど、登られて枝を折られると困るので、見つけた母は怒鳴りつけます。それでも隙をみてやって来る腕白達。懐かしい昭和40年代の光景です。

 それにしても、衛生状態も栄養状態も今より格段に悪かった昭和の子供達は元気いっぱいに外を駆け回って友達と遊び、こんなにも豊かになった令和は「ステイホーム」、「ソーシャルディスタンス」。なんとも皮肉な現実です。

 また、日本中に植えられ愛されるソメイヨシノですが、DNAが同一であるために、もし致命的な病気が発生すれば、あっという間に全滅の危機も考えられると、何かで読んだ事があります。

 つくづくと、自然の仕掛けや生命の仕組みは一筋縄ではいかないものだと思わされるのです。では。