ショートショートを作ってみました。難点は、オチの部分が50歳以上にしか分からない点です。よろしかったらお付き合い下さい。
ひろさきのこびと takakotakakosun 作
これは学生時代の友人S子さんから、随分前に聞いた話です。
S子さんは県外出身だったので、弘前市内の親戚の家に下宿していました。下宿と言ってもS子さんの場合、ちょどその親戚が転勤で空き家になるということで、家の管理人を兼ねての一人暮らしでした。
初めての一人暮らしがワクワクと始まり、来客の多い賑やかな弘前の「お花見」シーズンが終わり、時を同じくしてゴールデン・ウィークが終わった頃、S子さんは盛大な寂しさに襲われ、いわゆる「五月病」になってしまったのだそうです。それもかなり重症の。あっという間に昼夜逆転生活となり、学校は欠席続きとなっていました。
そんな日々を過ごしていた真夜中(S子さんにとってはテレビ・ラジオを楽しんだり、本を読んだり手芸をしたりの活動時間でした)、S子さんが4月から始めた新しい趣味・こぎん刺しの入った箱に手を伸ばすと、中に居た小さな(3㎝ほどだったそうです)生き物と目が合ってしまったのだそうです。それは、「こびと」でした。そして、その時が「こびと」との出会いであり、別れともなったのだそうです。その「こびと」の長い自己紹介と別れの言葉を、S子さんは詳細に教えてくれました。
そもそも、「こびと」は日本各地に暮らしていて、それぞれの地域に見合った「人間の手伝い」を、人間にばれないように行い、その代償としてわずかばかりの食べ物を頂くという、彼らなりの誇り高い生活を営む種族なのだそうです。外国の仲間では、靴屋の手伝いをする種族が有名だとか。なので、人間から一方的に「借りて暮らす」だけの奴らは、「こびとの面汚し」とされるのだそうです。
弘前周辺には昔から大勢の「こびと」が暮らしていたのだそうです。S子さんは、「そう言えば、ここの住所は弘前市小人町だ!」と、「こびと」の存在がすんなりと腑に落ちたそうです。
なぜ、弘前周辺には「こびと」が多かったかと言いますと、こぎん刺しという、人間にばれないように手伝うのに、うってつけの手仕事があったからだそうです。
ほの暗いランプの下、眠い目をこすりながらこぎん刺しに励む奥さんや娘さん達。彼女たちが寝静まったところで、「こびと」達の出番です。続きをせっせと刺すのです。
朝、彼女たちが起きて、明るい陽の下で昨夜の自分の仕事ぶりを眺めます。するとどうでしょう、針は思ったよりもずっとずっと進んでいる、その嬉しさ。輝く笑顔を物陰からそっと覗くと「こびと」達は満足し、堂々と、でもほんのちょっぴり、納屋からリンゴや野菜を頂戴したそうです。
でも、そのこぎん刺しもだんだん廃れていき、「仕事」を失った「こびと」達も、次第に津軽の地を離れて行きました。今では残るは数家族のみ。自分達一家も、じいさまが「以前ならともかく、今の東京で出来るのは仕事ではなく、ゴミあさりだ」と、頑として引っ越しを拒むので、なんとか踏みとどまってきたということでした。ところが、有る決定的な出来事があり、さすがのじいさまも引っ越しを受け入れざるを得なかったそうです。
それは他ならぬ「こぎん刺し」の手伝いでした。
その当時では珍しく、中学生の女の子がこぎん刺しでコースターを刺していました。それがあんまり嬉しくて、じいさまは女の子が眠った後、残りを仕上げてしまったのです。翌朝は親子ゲンカでした。
「ママ、余計な事しないで」「何にもしてないわよ」「ウソ言わないでよ」
昔のこぎん刺しは「大物」でしたから、「こびと」の手伝いぐらいバレずに済みました。でも「小物」では一目瞭然ですからね。
こうして自分たちの居場所はないとじいさまも諦めがつき、夜明けを待ってこの地を去る事になったそうです。ところが、最後の最後にこぎん刺しをちょっとだけ、ほんの一針二針でもと思ったのが運の尽き、こうして見つかってしまったのだと。そう言うと、その「こびと」はどうか見逃して貰えないかと何度も何度も頭を下げたそうです。
S子さんがその願いに応じたのは言うまでもありません。でも、彼女にはどうしても引っかかるところがあり、「こびと」が姿を消す前に聞いてみたそうです。
「じいさまが、以前なら東京に仕事があった、と言ったそうだけど、どんな仕事だったの?」
「こびと」は残念そうに答えたそうです。
「チョコレートを作ってたんです。コビトのチューブチョコレートを」
終わり
評価・感想は甘めでお願いしますね。では。
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