おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「秋朝のバタ」という村上ワールド(プレバト)

 昨夜のテレビ番組『プレバト』で披露された、フルポン・村上氏の句について書きたいと思います。

 

 秋朝やバタにフォークの穴四つ    村上健志

 

 私はこの俳句は上手いとは思いますが、あまり心動かされるものではありません。村上氏にしては少々物語不足と言いますか、私の中でイメージが広がっていかないのです。

 夏井いつき先生は、

 「バターではなくバタとすることで生活感が薄まって、爽やかで美しいお洒落な食卓のイメージを演出している」

 「季語が動くと思う読み手もいるだろうが、村上ワールドとして選ばれた季語だと考えるべき」

 のように解説され、「星一つ前進」の高評価をつけられたのでした。

 

 え~今日はですね、僭越ながら夏井先生のお話にあった「季語が動く」と言うことについて語ってみたいと思います。(え~、は照れ隠しです。ほんとに僭越と思っているのです)

 

 そもそも俳句においては、「季語が動く」ようではその句はあまりよろしくない、とされるわけです。「季語が動く」とは、他の季節の季語と入れ替えても「同程度」の俳句として成立するだろうという事です。「同じレベル」ということが肝だろうと思います。

 村上氏の掲句も、「春の朝」「夏の朝」「冬の朝」そして「秋朝」、いずれの季語であっても、意味としては成立するわけです。それら四つのうち二つ以上が、どれを持ってきても同じ程度にぴったりくるなら「季が動く」となります。

 いや、やはり「秋朝がベスト。秋朝こそが穴四つのバタにふさわしい」となれば、季語は動かないということになるかと思います。そして夏井先生は、村上氏の句は季語が動かない、村上ワールドとして確固たるものがあると評されたわけです。

 

 私も夏井先生と同じく、この句の季語は動かないと思います。月が秋の季語であるように、穴四つのバタは秋の朝食にこそふさわしいと思うのです。

 俳句ではただ「月」と言えば、それは秋の季語と言うことになります。月は一年中見られるのに、なぜ秋の季語なのか。角川俳句大歳時記によりますと、「秋から冬にかけて空が澄み、月が明るく大きく照りわたるからである」と説明されています。

 人がしみじみと月を見上げて美しいなあと思うのは、秋が最も多いだろう、つまり、秋こそが月を愛でるにふさわしい季節であり、そのことには大いに人々の共感を得られるだろうと言うことなわけです。

 

 バターを思い浮かべてみて下さい。

 まず、バターは朝の食卓に相応しいということには、皆さん異論はないかと思います。では、相応しい季節はいつでしょうか。相応しいとは、バターが最も美味しそう、さらに言うなら、美しく見える季節と言うことです。

 「冬のバター」はカチカチ過ぎます。「夏のバター」は重ったるい。しかもウッカリしているうちにグンニャリ。残るは「春」と「秋」です。

 フォークの穴が四つ、くっきりと出来る。固すぎても柔らかすぎてもいけない。春のバターには少し、ほんの少しですが緩みがあるのです。でも、秋のバターは角が立っているのです。清潔に四角張って、秋の朝にふさわしい涼やかさ爽やかさをまとっています。そこに村上氏の発見があり、それが村上ワールドなのです。

 「季語が動かない」とはこういうことではないか。改めて考えさせられました。

 

 昨夜の番組の感想をバタバタとまとめました。楽しんで頂ければ幸いです。では。