おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

なぜタイトルは『女生徒』なのか(大人の本気の感想文)

今週のお題「読書感想文」  

 

(続きです)

 『女生徒』に散見される謎の文

 この作品は一人の少女の「考えていること」が、そのまま活字となっているのです。例えば、

 

 食堂で、ごはんを、ひとりでたべる。ことし、はじめて、キウリをたべる。キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る。

 

 こんな感じで、少女の瑞々しい感性がちょっと気取って、時に理屈っぽく綴られていきます。そんな中で、いきなり「誰か」が登場する場面が二カ所あります。

 

 私たちは、決して刹那主義ではないけれども、(中略)ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。

  「あなた」は誰?

 そして、作品の最後の部分。

 

 おやすみなさい。私は王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ご存じですか?もう、ふたたびお目にかかりません。

 

 「ご存じですか?」って、誰に尋ねているのでしょうか。そして「ふたたびお目にかかりません」って、誰に?私の結論は、それは恋をした相手だろうと思うのです。

 つまり、この『女生徒』という作品は、長い長い風変わりなラブレターなのです。ちょうど有明淑氏が敬愛する作家・太宰治に自分の日記を読んで欲しいと送付したように、この少女は自分の一日を、即ち自分自身丸ごとを、相手の前に差し出したのだと思うのです。

 

 それに、このごろの私は、子供みたいに、きれいなところさえ無い。汚れて、恥ずかしいことばかりだ。くるしみがあるの、悩んでいるの、寂しいの、悲しいのって、それはいったい、なんのことだ。はっきり言ったら、死ぬる。

 

 「それはいったい、なんのことだ。」

 それは恋でしょう。言葉にしたら死にたくなるような。

 この恋は片思いだけれど、それでも思いは伝えたい。そして自分に出来ることは、ありのままの自分をさらけ出すことしかない。そんなぎりぎりの切ない思いで慕った相手は、誰だったのでしょうか。私の想像は続きます。

 

『女生徒』というタイトル 

 『女生徒』というタイトルは、太宰の机の上にあった岩波文庫からとったとされています。それは太宰本人にしか分からない事なのですから、本人がそのように述べているのでしょう。でも、「なぜ」とったのか、謎を解く鍵はそこにあると思いました。

 

 小説の場合、「物語の語り手は誰なのか、誰の目線で書かれているのか」ということについてはしばしば問題となりますが、「読み手は誰なのか」が問われることは無いように思います。普通は「読者」というものが暗黙の内に想定されているわけです。

 私はこの作品を読み終わったとき、「これはラブレター」だと確信したのですが、それは同時に「読者宛に書かれたものではない文章」ということを意味します。この作品と私たち読者の間には、ラブレターを受け取った人物が、透明の人物が存在し、私たちはその人物を透かすようにして作品を読んでいるのです。

 先生だ。

 この少女が身もだえするようにして書いたラブレターの相手は、先生に違いない。それも、転勤されたか辞められたか、もう会うことのかなわない先生・・・。

 やむにやまれぬ思いで、このような不思議な「手紙」を書いてしまった少女だけれど、彼女は分かっているのです。この恋は実らないと。先生にとって自分は『女生徒』の一人に過ぎないのだと。それでも、今の自分の精一杯を、自分の全てをぶつけてみたいと思ったのでしょう。

  太宰治が読者に仕掛けた謎、それをは「女生徒」というタイトルにヒントを隠したものだった、私はそんな風に読み解きました。

 

まとめ

 思春期とは自分を縛るものから自由になりたいという思いが芽生えるときです。自分を縛るものは、たくさんたくさん有ります。親、学校、世間、勉強、将来、男だから・女だから、そして自分自身。そういったものから自由になって、「本当の自分」を生きたいと願う、14歳という苦しい日々。

 でも、14歳は分かってもいるのです。自分は型破りに憧れる普通の中学二年生だという現実も。女生徒という型の中でジタバタあがいているだけの、ちっぽけな存在だと悲しんでもいるのです。そして、そんな悲しむ少年・少女達に寄り添い、「分かるよ」とささやく作家・太宰治

 「太宰治は私だ」、これは太宰ファンの心情を表すものとして有名な言葉です。

 人は面白いもので、体のどこかに痛い箇所があると、わざとそこを押して痛みを「味わって」みたりもします。太宰作品は若い人にとっては腫れ物に触るようなどきどきをもって味わえるのだろうと思います。そして、何十年も前にそこを通り過ぎてしまった人にとっても、太宰治は古傷をさすってみるように味わえる作家だと改めて思いました。

 老眼に負けず、本を読もう。

 かつて「女生徒」だったおばさんは、思いを新たにしたのでした。 終わり