昨日はNHKのドラマの中で麒麟・川島氏がTシャツを「後ろ前」に着ていることを発見し、なんだか落ち着かない気分だったのですが、今朝の川島氏は白の長袖Tをきちんと着用しており、私は大変あずましかったのです※1。

 ※1 あずましいとは、津軽弁・下北弁ともに、さっぱりしていて気持ちが晴れ晴れとする様子、というような意味の方言です。

 

 さて、私が加齢によって、早朝に目覚めるようになってしまったというのは、一昨日の記事に書いたとおりです。恐らく、メラトニンとかセロトニンとか、そう言った睡眠を司るホルモンの分泌が減少してしまったのでしょう。

 そんな私なのですが、一ヶ月ほど前、「蔦沼めぐり」という美しいブナ林の中を散策するツアーに参加した翌朝の事です。目覚めたのは8時過ぎでした。良く歩いて体が疲れたからなのか、散策の後に入った『猿倉温泉』が効いたのか、グッスリと十分に眠った後の爽快な目覚めでした。その時私の感じた「爽快さ」を、皆さんに余すところなくお伝えできないのが残念でなりません。

 最も近い言葉としては、「多幸感に包まれていた」というのが該当するような気がします。

 

ja.wikipedia.org

愛情による至福感や、競技で勝利したときの陶酔感、オーガズムは、多幸感の例である。 また、多幸感は宗教的儀式や瞑想によっても生じうる。 特定の薬物の副作用として生じる場合もあり、また、精神や神経の疾患によって生じる場合もある。 高齢者が自然と感じるようになる幸福感も多幸感の一種とされる(老年的超越)

 

 ベッドに上半身を起こし、まるで長い眠りから覚めた白雪姫のように(?)パッチリと目を開けた私は、「人間って、こんなに簡単に幸せが手に入るものなのか」という不思議に打たれていました。きっと、幸福を感じるホルモンといわれる「セロトニン」が大量に出ていたのでしょう。「私は幸せだ」とか「これが幸せだ」と思うのではないのです。「幸せ」が自分の中に満ち満ちているという感覚。世界がすみずみまで、あずましさに溢れているんです。

 

 薬物とかで感じる多幸感って、これを更に強烈にした感じかな?などと思いながら、Wikipediaにあたりました。そして、上の引用の最後の部分、

  高齢者が自然と感じるようになる幸福感も多幸感の一種とされる(老年的超越)

えっ、ひょっとして、私ってこの域に至ったの?

 まあ、それは冗談として、私があの朝に感じたような幸福感に包まれて毎日を送るのなら、年を取るというのも悪くない。悪くないどころか、なんだか楽しみ、という気分になってきました。

 朝、用も無いのに目が覚めてしまうとか、体のあちこちにガタが来たとか、加齢による不調は訴えたらきりが無いです。

 でも、更なる加齢の先には「多幸感」というものが待っているかも知れない。そう考えて前向きに年を重ねていきたいと、朝の目覚めから学んだのでした。睡眠学習ってヤツですな。では。