おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

旅の思いがけない楽しみ(小田原)

 1ヶ月前のことですがもう去年のことになるわけで、当たり前のことですが、ちょっと不思議な感じがします。

 たまたま家族四人の予定が合ったので、二泊三日の家族旅行が出来たのでした。(私は三泊四日です、フフ)

 我が家は夫が単身赴任中、息子二人は東京在住、私は弘前と、それぞれが一人暮らしをしており、そのため旅行(滅多にないですが)の際には現地集合となるのです。今回の集合場所は小田原駅弘前から新幹線で向かう私の都合で、ちょうどお昼時に集合となりました。

 先ずは腹ごしらえ。事前に調べておいたお蕎麦屋さんにタクシーで向かいます。

 訪れたお蕎麦屋さんは『鈴廣かまぼこの里』の向かいにあり、箱根登山鉄道でも楽に行けるのですが、少しでも時間の節約がしたくて、タクシーにしたのでした。なぜ時間を節約したかったか?それはですね、旅行の計画は私に一任されており、昼食後の予定は『神奈川県立生命の星・地球博物館』の見学としていたからです。私は博物館大好き!閉館は4時30分。少しでも長く見学時間をとるためには、食事はなるべく迅速に済ませたい。そう考えていた私でしたが、甘かった。甘すぎた。我が家の男三人は、揃ってお酒が大好きと分かっていたはずなのに。旅先ですもの、当然昼から飲みますよね。

 

 蕎麦前セットというものがちゃんとメニューにありまして、小田原名物のかまぼこを肴に、ビール、焼酎、日本酒と、まるで駅伝のタスキのように順調にお酒が進んで行ったのでした。長〜い昼食でした。

 しかも、息子二人は喫煙者なので、お蕎麦屋さんを出たところで、

 「ちょっとタバコ吸って来る」と。

 

 こちらの保存されている電車の後方にある喫煙所でゆったりと紫煙をくゆらすのでした。ああ、時間がどんどん削られていく。博物館見学をとても楽しみにしている私としては、ハラハラしてしまうのでした。時間を気にするという点で、まるで青山学院大学のハラ監督のように。

 さて、読者の中には気がつかれた方もいらっしゃることでしょう。

 あれ、ちょいちょい駅伝ネタが出ているぞ。あれ、この電車のある場所って、ひょっとして小田原中継所?

 そうなんですよ。ここでタイトル「旅の思いがけない楽しみ」について説明したいと思います。

 私は箱根駅伝にはあまり興味がなくて知らなかったのですが、私達がお昼を頂いたお蕎麦屋『美蔵』さんの駐車場が、箱根駅伝小田原中継所だったのです。しかも、滅多に見ない箱根駅伝なのに、今年はたまたまテレビをつけたら、ちょうど小田原中継所。

 「ここ、ここ。ほら、ここでお蕎麦食べて。ほら、あの電車の奥でタバコ吸ったよね」

 息子相手に大興奮で、一人で騒いでしまいました。旅をするとこんな思いがけない楽しみもあるんだねー。

 そして、その後も、駅伝五区は箱根路を走るということで、以前行ったところが映るのを楽しみに、しばらく見続けたのでした。駅伝を楽しみに見るなんて、少し世界が広がったかも?だとしたら、これもやっぱり「旅の思いがけない楽しみ」と言えるのかも知れませんね。続く。

新年、編み始めました

 単身赴任中の夫も東京で働く息子達もそれぞれの居住地に戻り、静かな日常に戻りました。

 静かな日常、つくづくと有り難いことです。新年早々実感させらています。

 

 早速編み物を再開したのですが、ズンズン進みます。一人っていいですね(笑)

 昨年は暑い時期には夏糸(麻糸等)で夏物を編み、それ以外の時期には毛糸でセーターやベストを編んで編んで、編みまくりました。ブログで自慢しようと思いつつ、それよりも編むことが優先でアップする時間がなかった、そんな感じです。

 上は昨年の編み納めとなったセーターです。編み物仲間から頂いた段染めの素敵な毛糸。どんな編地がいいか悩み抜いて、こちらのデザインに決めました。

 いつもなら、段染め糸はその持ち味をいかすために、あっさりとした編地のシンプルなセーターにするのですが、流石にそればかりでは芸がないかと、今回は凝った模様・デザインのセーターにしてみました。

 元のデザインは七分袖なのですが、青森の冬に七分袖は寒いので袖丈を伸ばし、ついでに、襟もスタンドカラーにしてボリュームを出しました。ただ編み図の通りにばかり編むのではなく、こんな風なアレンジが出来るようになったのは、我ながら進歩を実感します。「継続は力、毛糸は一から」なのです。一本の糸から始めて、それがセーターやショールといった形を成すのですからね。

 

 年末年始に帰って来た家族もそれぞれに戻っていき、シンとした家の中には寂しさというものも漂いますが、寂しさなんて、いつも通りの生活を当たり前に送れることの有り難さを思えば、ねえ。せっせと編み棒を動かしながら、色々なことを思わずにはいられない新しい年の始まりです。本当に大変な年明けとなり、お見舞いの言葉もないのです。

 

 改めて、日常に感謝し、毎日を頑張っていこうと思う新年です。ベストを編んでいるだけにね。では。

③人は振り向いてしまう

 ナマ族のハーフマンやロトの妻の例だけでなく、「見るなのタブー」でくくられる神話や民話は世界中に存在するのだそうです。

 ・プシュケーとエロース

 ・オルフェウスと妻

 ・イザナギイザナミ

 ・鶴の恩返し

 ・浦島太郎  などなど。

 「振り向いてはいけない」「見てはいけない」、その禁を破ったときには過酷な罰が与えられたり、悲しい結末を迎えてしまう、というのが共通のパターンですが、もう一つ共通している点があります。それは、「なぜ?」という問いかけが許されないということです。

 何の説明もなく一方的に突きつけられる、ある意味理不尽とも言える条件に従わざるを得ない、それが「見るなのタブー」の根幹をなしています。そして、私達人間にとって最も理不尽なもの、「なぜ?」の無力感の最たるものが、「死」でしょうね。

 誰もが死ぬ。死は永遠の別れ。二度と生きかえることはない。どれ程嘆き悲しもうとも変えることの出来ない定め。「見るなの禁」を破ったときも同じです。反省も後悔もなんの役にも立ちません。

 「なぜ?」の許されない絶対の命令を下すのが神であり、人間はそれをただ受け入れるしかないのです、死と同じように。「見るなのタブー」は、「絶対の存在」というものを暗示しているもの、そういう解釈もされるようです。

 にもかかわらず、「絶対」の存在を信じていてさえ(宗教ってそういうことですよね)、私達は常に「なぜ?」と問うことをやめないし、「振り向くな」と命じられても振り向いてしまう。人間とはそういう存在、DNAがそうさせるのでしょうね。

 それなのに!

 人間は振り向くのに、なぜ振り向いた「歴史」に学ばないのでしょう?なぜ戦争の愚を繰り返すのでしょう?

 2023年も間もなく終わります。振り向けば戦争の一年でした。振り向けば「固まって」しまうような一年は、ロトの妻だけではない。なんともしょっぱい現実なのです。では。

②人は振り向いてしまう

 「死海」という名の湖はあまりにも有名ですね。塩分濃度が高すぎて魚は住めず、それ故に「死海」と呼ばれるのだとか。人が湖にプカプカと浮かんで新聞を読む姿の写真など、子供の頃からしばしば目にして、

 「わ〜、行ってみたい!」

 「やりたい、これ〜!」

と、子供の心をくすぐり続ける存在です。

 で、その有名な「死海」、どの辺りにあるかはご存知ですか。

 数ヶ月前に私がみていたテレビ番組は、イスラエルの乾燥地帯を行くという紀行ものでした。そこで、ヨルダンとイスラエルの間にある「死海」も紹介されたのでした。(ほんの数ヶ月前までは、普通に、平穏にみることのできた土地だったのに…)

 「死海」についての説明でちょっと驚いたのは、「死海」の水源は、湖に流れ込む唯一の川、ヨルダン川だということです。日本人の感覚だと、「川は湖から流れ出る」だと思うんですよね。ところが、死海の水面は海抜マイナス433m程度という地球で最も低い場所であり、最も低い場所からは流れ出ることはないわけで。知ってしまえば当たり前のことでも、目からウロコ(魚のいない死海だけど)という事はあるものですね。

 話しは変わりますが、旧約聖書のソドムとゴモラのお話は聞いたことがあるかと思います。

 ソドムとゴモラの二つの町は、あまりにも風紀が乱れたことにより神の怒りに触れます。神は硫黄の火でこの二つの町を滅ぼすことを決めたのですが、その際に、正しい信仰心を持ち続けたロトの一家だけは逃してやることにしたのでした。

 そのソドムとゴモラの町の所在については色々な説があるのですが、番組では死海の沿岸の一箇所をそのうちの一つとして紹介していました。ソドム山という山もありました。

 ロトの一家を逃がす際に、神は条件を出しました。

 「逃げる途中、絶対に後ろを振り返ってはならない」

 ロトも二人の娘達も守りました。ところがロトの妻だけは神の言いつけに背き、振り返ってしまったのです。

Wikipediaより、「体が塩の柱に変わるロトの妻」

 振り返ってしまった妻に与えられた罰、それは塩の柱に変えられるという、とてつもなく辛い罰なのでした(辛いと書いてからいとも読みますね、塩だけに)

 そして、番組で紹介されたのがこちらの塩柱でした。ソドム山にあります。

 本当に人がそのまま固まったみたい!テレビの前で「わ!」と声が出ました。

 「振り向いてはならぬ」という神の言いつけは、「人は振り向いてしまうもの」ということを知っているからこその、神が与える試練なのでしょうか。そして、その試練に耐えられなかった時に与えられる罰もまた、厳しいものですね。

 ➀で紹介したナマ族の神様もそうでしたが、厳しい自然環境に生きる人びとが崇める神様というのは、その生活環境同様、厳しく人に対するのものだと思わせられます。

 一神教の神は、本当に厳しい・・・。つくづくとそんなことを思うこの頃なのです。続く。 

➀人は振り向いてしまう

 12月になりますと、「この一年を振り返る」的なワードが多く聞こえるようになりますね。

 数日前にNHKBSの番組をみていて、つくづくと、人間は振り向いてしまうものなんだなぁと思ったことがあったので、書きたいと思います。実は、以前にもやっぱりテレビをみていて、同じことを思ったことがあったので、そのことを②として、2回に分けて書こうと思います。

 はじめに、「振り返る」の意味について触れます。

 私が書こうとしているのは冒頭の意味でのそれではなくて、ダチョウ倶楽部の「押すなよ、押すなよ」的な「振り返り」の方です。つまり、「振り返ってはいけない」と言われているにもかかわらず、あるいは禁止されているからこそ、人は止むに止まれず振り返ってしまうという、人間の悲しい習性としての「振り返り」についてです。

 

 上の写真はその時のテレビ画面です。

 南アフリカの乾いた大地にニョッキリと立っている不思議な植物。現地のナマ族の人々からは『ハーフマン』と呼ばれ、神聖視されている植物です。一体なぜハーフマン?

 ナマ族のお婆さんが次のように説明していました。

「自分達の先祖はナミビアからこの地に逃げてきた。その時、故郷を振り向いてしまった人達は、神様の罰を受けた。故郷を振り向いた姿のまま、植物になってしまったんだよ」

 せっかく神様が新しい地での生活を与えようとしたのに、故郷に未練を見せたのがいけないということなのでしょう。彼の地の神様は厳しいですね。

 さて問題です。

 この『ハーフマン』は見事に全員が同じ方角を向いているのですが、それは東西南北のうち、どこでしょうか? 

 ヒントは、植物ですから太陽の方角に、花の咲くてっぺんを向けます。そうです、答は北です。だって南アフリカ、南半球ですから。

 そして偶然にも、ナマ族の故郷ナミビアは、彼等がたどり着いた地の真北に位置していたというわけです。

 私達がたった1年を振り返るだけでも感慨深いものがあったりするのですから、二度と帰ることの出来ない故郷を振り返るとき、どれ程胸に迫るものがあることか。植物になってもなお故郷の方角を見つめ続けるハーフマンの姿、ナマ族の人々に神聖視されるのももっともなことだと思いました。

 ちなみに、この『滝藤賢一が行く 南アフリカ珍奇植物紀行』は、ナマ放送ではありませんでしたよ。続く。

大河ドラマの違和感について

 NHK大河ドラマ『どうする家康』が終わりましたね。

 私は最初の一、二回で脱落したのですが、10月頃から視聴に復帰しました。復帰した理由は、関ヶ原の戦いから大阪の陣辺りまでの知識があまりに乏しいので、「日本史」を勉強するつもりでみることにしたのでした。

 1番勉強になったのは、最近の特殊メイクの凄さかな。毎週、確実に松潤が老けていくの。惜しい(仕方ない)のは、瞳だけはキラキラのままという点かな。でも、最終回の松潤の手なんか、完全に老人!いやー、技術の進歩って凄いですね。

 ところで、ドラマが進むに連れて登場人物達がどんどん年をとっていくわけですが、そのせいで、ある時から私の中に「学芸会みたい」という思いが頭をもたげたのです。

 「学芸会みたい」というのは、一般的には稚拙とか子供っぽいということを意味するわけですが、私が感じたのはそういうことではないんです。にもかかわらず、自分でも良く分からないままに「学芸会みたい」という感想が何度も心に浮かんでいたのでした。

 そしてある時(山田裕貴が死ぬ回だったかな?)、ハッと気づいたのです。

 「学芸会みたいと言うのは、役者が実年齢よりもかなり年上の役を、老けた扮装をして演じているから感じるのだ」と。

 ほら、学芸会って、小学生が白髪のカツラを被ったり腰を曲げたりして、お爺さんやお婆さんを演じるでしょう?あのイメージと重なっていたのです。でも、一体なぜ?役者が実年齢よりも年上の役を演じるなんて当たり前のことでしょうが。何を今更。しばらく自問して分かりました。

 役者が皆、自分よりはるかに年下だからなんだ!自分の子供世代のような若い人達が、頑張って「老人」を演じているからだ!

 かつて『大河ドラマ』は、ベテランと呼ばれる(私より年上の)俳優さん達が歴史上の人物を演じていました。それがいつの間にか私が彼等を追い越していたんですね。

 だいぶ昔の記憶ですが、雑誌か何かで「年取ったと感じる出来事」というテーマの投書を読んで、なるほどと思った事があります。紹介します。

 「夏休みに、高校生のお兄さん達が野球をしていると思って観ていた甲子園。いつの間にか甲子園球児が年下になり、この頃では監督も年下だ」

 そうそう、分かる分かる。

 大河ドラマの出演者達も年下になり、なんなら、彼等が演じる武将達の享年も年下。当たり前と言えば当たり前過ぎて、私がタイトルに書いた「違和感」とは、実は自分で自分が年をとったということにいつまでも馴染めない、そういうことなのかも知れません。どうする、私。

 歳を重ねることを悲観的に考えたくはないのですが、それにしてもどうも自覚が持てないと言いますか。いつまでも気持ちだけは若くて、外見や能力の衰えとのギャップがあるように思うのです。あまりにギャップが大きいと、みっともない「勘違い老人」になってしまうと思うのです。

 例えば「甲子園球場は大阪にある」なんて勘違い、ささいなことだけれど、やっぱり勘違いはアウト!でしょう?気をつけて行きたいと思います。では。

すき焼きと柳家金語楼(やなぎやきんごろう)

今週のお題「紅白鍋合戦2023」

 

 お正月にはすき焼きを食べます、ここニ、三年は。お肉は夫が買ってくれて、鍋奉行息子その1が引き受けてくれるという、二重三重に私が美味しい思いをするすき焼きなのです。

 夫が奮発してくれるので、お肉は霜降り。紅くて白いので、紅白どちらかに決めるのは難しい。

 そもそもですよ、なぜ合戦は紅白なのか、知ってます?ふふ、私は知ってますよ。

 

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 源平合戦がルーツの紅白ですが、かつては紅白のハチマキであったものが、いつからか紅白帽に変わりました。この紅白帽、一説には落語家の柳家金語楼の発明とされているのです。

 昭和人なら懐かしの柳家金語楼ですが、発明家の顔も持っていたんですよ。「柳ようじ」を発明したという話もあります。

妻楊枝 小 約230本 21001

 このようじのどこが発明かといいますと、くびれのところでポキっと折ることが出来るのです。で、折ってどうするのか?ご存知ですか?

 私は誰かから教わって何十年もの間、使いかけのようじを一時置きするのだと思いこんでいたのです。

 それが今回下調べしたところ、折った短い方に楊枝の先をのせて、形は「ようじの一時置き」ですが、その形を作って、箸置きとして利用するということらしいのです。

 そうですよね、一度使った爪楊枝なんて、見たくもないですものね。爪楊枝用事が済んだらさっさと処分すべきですね。なんて(苦笑)。

 そこのあなた、つまらないダジャレだと思ったでしょう?

 「イヤイヤ、お上手です〜」

なんて奥歯にものが挟まったような声が聞こえますよ。爪楊枝、要ります?では。