おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

科学と私の生活

 先日、同年代のお友達と、髪の毛の話になりました。

 「髪の毛、大事だよね。何かしてる?」

 「前に美容院で育毛剤は使った方がいいって言われた。それも、安い物でいいから、とにかくタップリつけるようにって。それから生協の2,000円のだけど、水で倍に薄めてタップリつけてる」

私「えっ!?」

 

 皆さん、どう思われます?

 なんか違う、そうじゃ無い!そう思われませんか?

 私は彼女に何十年も前の職場での出来事を話しました。

 

 「昔の同僚で、年配で血圧の高いおじさんがいてね。お昼に出前で醤油ラーメンをとったんだよね。そしてその方、私、高血圧でしょっぱい物はダメなんだよねって言ってお湯で薄めて、そこまではいいんだけど、最後、スープを一滴残さず飲み干して・・・。周りから総ツッコミ。意味ない!って。今の話、それの逆ヴァージョンの気がする」

 「えー、全然違うと思う」

 

 皆さん、どう思われます?

 あれからずっと考えてるんですよね。塩分を控えるためにスープを薄めて全部飲み干す。頭皮に栄養をタップリ与えるために育毛剤を薄めてタップリつける。どちらも効果は無いんじゃないかな?いや、待てよ、それともひょっとして?

 と言うのはね、ここ何十年か、科学の進歩が目覚ましくて、次々に「科学的知見」が塗り替えられていると思うんです。

 例えば、昔は運動は20分だか30分だか続けて、そこで始めて脂肪が燃え始めるとか言ってましたよね。だから、それ以上長く続けないと痩せ効果はないとか。でも今は違いますよね。少しずつ何回かに分けた運動でも構わない、そうなっていますよね。

 カロリーの摂取も同じです。ちょっと前の私達は、同じ量ならどう摂ったって同じだろうと思っていたわけですが、今は違います。食べる順ダイエットだとか、甘い物も食後すぐなら血糖値がどうだらだとか、新しい発見に一喜一憂して、少しでも楽できる情報に飛びついているわけです。

 

 「そうねえ、もしかしたら同じ塩分量でも、たくさんの水分と同時に摂った方がメリットがある可能性もあるかもね。育毛剤も、薄めてあっても頭皮に満遍なく振りかける方がいいのかも知れないし。必ずしも、彼・彼女を笑えないのかもね」

 

 そんな事を考え考え、今日はバウムクーヘンを食べながらブログを書いたりしているわけです。勿論、いきなりバウムクーヘンは食べませんよ。まずベビーチーズで少し血糖値を上げて、カルシウムもとって。それからバウムクーヘンなのです。考えてるんですよ、私も。バウムクーヘンのように、重ねた年輪は伊達じゃ無いですからね。

 惜しむらくは、バウムクーヘンと同じく、抜けているところも大きいというのが残念なところではあります。では。

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またまた、22日の『プレバト』俳句

 一昨日の記事に引き続き、22日に放送された『プレバト』の中で披露された俳句二句について、感じたことを書きたいと思います。前回の記事とは異なり、今日は感嘆の思いを書きます。

 

まだマシなTシャツを貸す夜の雷  村上健志

 しわくちゃ・洗ってないなど、ろくなTシャツがないが、一番マシなのを貸す。「これ」と。その瞬間に光る雷。さあ、二人は何を思うのか。(村上)

 

私が思ったこと①

 上手いなあ、「まだマシな」か、良く思いつくなあ。でも意外なのは、雷は今、鳴ったのか。雷=雨で、濡れてきた彼女にTシャツを貸すんじゃないのか。

 

夏井先生の評

 上五・中七に非情にリアリティがある。「まだマシな」は自信が無いと使えない。「貸す」も上手い。二人の人物がいる。

 下五で評価が分かれる。

 やって来た人がずぶ濡れと捉えると、下五は「貸す」理由の説明になり損をすることになる。(今雷が鳴って)下五が物語が動き出す起点になる、と評価すると上がる。

 

私が思ったこと②

 ああ凄い。作者も、物語の起点として「夜の雷」を据えたと解説したし、夏井先生もそう読んだからこその3位。上五・中七の手腕から考えれば、この作者は下五に説明は持ってこないだろうということか。「詠み手」も「読み手」も凄いもんだなあ。

 

 そして、第一位がこちらの句でした。

日盛りや母の二の腕は静謐(せいひつ)  犬山紙子

 20代の頃、母の介護をしていた。炎天下を家に帰り、ベッドで寝ている母のTシャツからのぞく腕を触るとヒンヤリしていた。その、外とは違う平安な感じを詠んだ。(犬山)

 

夏井先生の評

 驚いた作品。Tシャツという言葉はないが、二の腕は確かにTシャツから見える二の腕。ヒンヤリと白く見えてくる。母の年齢をどれくらいに想像するかで読みが大きく変わってくる。

 最初、ご年配のお母さんで、「静謐」は諦めの入ったような人生の安らぎを感じた。

 あるいは、子供を突き放すような母の冷たい表情や静けさなど、そういう母かも知れないと、読めば読むほど奥行きが深くなる。この一句で短編が書けるのではないかという気すらした。

 

私が思ったこと

 私はテレビ画面のこちら側の住人ですが、二位以下の出演者の「いったいどんな句を詠んだんだ?」というスタジオの興味津々ぶりが伝わってきましたよ。二位以下も名句揃いで、それらをおさえての一位、しかも名人どころか特待生ですらない彼女の作ですからねえ。

 句が発表された瞬間は、スタジオは「キョトン」だったような気がします。一瞬、意味が分からない。でも、それこそ「読めば読むほど」、なんだか凄い句なんですよねえ。梅沢富美男の「たいした女だよ」というセリフ、ピッタリきました。

 私が俳句を読んでよく分からないと思うことの一つに、「意味が様々にとれる」ということの是非、があります。作者の言いたいことと違って受け取られるから「ダメ」という場合と、この句のように「読みが大きく変わる」からこそ「奥行きが深くなる」という場合と。その違いがどこにあるかは分からないまま、それでも自分なりの判断で、いいとか悪いとか勝手に言っているのです。

 この句で私のまぶたの裏に浮かんだのは、母方の祖母の二の腕です。母は色白でもなく、綺麗な肌でもなかったのですが、母の母である祖母は、いわゆるもち肌(?)でしょうか、とても綺麗な肌をしていました。そして、明治生まれだったので、若い頃は二の腕などは「陽にさらしたことのない肌」だったろうと思います。その後も、私の故郷は涼しいところだったので、祖母が半袖の物を着るのは、真夏のほんの数日のことでした。「ババちゃんでも半袖着てるもの。今日の暑さは特別だ」なんて笑いになるほどです。その時の、チラと目にする二の腕の白さときたら、「異世界」級の白さで、目に焼き付く白さなのでした。

 犬山紙子氏の句は、こんな些細な、記憶の底の底を呼び覚ましたんですよ。句の良し悪し、好き嫌いは分かれるかも知れませんが、「力のある句」だと思いました。

 

 余談ですが、「異世界級の白さ」で思い出す肌がもう一つあります。父の「スネ」です。

 それこそ昔の人ですから半ズボンなど履きません。男にしては色白で、すね毛も少なく細いスネでした。暑いときに家の中でズボンの裾をまくったり、ステテコ姿でくつろいでいるとき、いやでも目に入る真っ白なスネ。O脚のその形は、私達兄弟、そして私の二人の息子へと、確かに受け継がれましたね。

 父の細くて真っ白なスネ、囓りがいのないスネだったなあ、そんな事まで思い出しました。では。

22日の『プレバト』俳句

 昨夜放送の『プレバト』の俳句タイトル戦、その名も「炎帝戦」。素晴らしい俳句の数々、堪能致しました。本当に力作と言いますか名句揃いで、「芸能人って、ただの人じゃ無いんだなあ」と、いつも思うことを昨夜も改めて思ったのでした。

 そして同じように毎回感心するのは、夏井いつき先生の俳句を「読む」力と、添削のセンスなのです。卓越していますね。また、その力とセンスを「言葉」で説明できる頭脳明晰さ、惚れ惚れとするのです。

 が。昨夜に関しては、添削にちょっと異論があるのです。今日は私のその異論を、僭越ながら好き勝手に書いてみようと思います。勿論、皆さんの異論も認めます。

 

若夏やTシャツという戦闘服  梅沢富美男

 若い頃、夏はTシャツしか着るものが無かった。なのでどこに行くにもTシャツ。Tシャツが戦闘服だった若い日をよんだ(梅沢)

 

夏井先生の評と添削

 「~という」という言い方に難あり。「若夏」という沖縄の季語が「戦闘」に別の思いを抱かせる懸念も。一枚しかないTシャツで生きることと戦っていたという作者の意図なら 

  → 若夏やTシャツ一枚の戦い

私の感想

 添削句では、「Tシャツ一枚」というのは無防備とか無鉄砲の隠喩のように読めないか。一句の意味がぼやけてしまうような気がする。梅沢句どおり、「Tシャツという」とはっきり言い切って、それが若い日であったと明確に読ませた方がいいのではないか。

 

花栗や肌に張り付くツアーロゴ 北山宏光

 花栗の匂いの中、ライブのリハーサル、本番。「汗」という言葉を使わず、ジメジメした感じを出したかった。実体験を詠んだ。(北山)

 

夏井先生の評と添削

 「ツアーロゴ」でTシャツだと分かる。生々しい汗を表現するなら「ツアーロゴ」から。「は」の韻を生かし、「張り付く」でむっとする汗の感じ、「花栗」でムッと匂う感じ。それを「真昼」でダメ押しする。 

  → ツアーロゴ張り付く花栗の真昼

私の感想

 北山句は意味がハッキリとつかめる。添削句は、北山句があったからツアーロゴ=Tシャツと分かるが、この句だけでは無理があると思う。「ツアーロゴ貼り付くって、何が?どこに?」と混乱すると思う。北山句で過不足無しと思う。

 

夏暁のおなら逞しロンパース  藤本敏史

 夏の朝早く、寝不足で子供のおむつを替える。その時、大きなおなら。思わず笑ってしまい、元気に育っているなと思った。(藤本)

 

夏井先生の評と添削

 親心に共感する。語順が惜しい。「おなら」からいって、俗に行くかと読み手に油断させる。そのまま連想させて、最後にささやかなどんでん返しで「ロンパース」が効いてくる。

  → おなら逞し夏暁のロンパース

私の感想

 添削後は「ロンパース」そのものがクローズアップされすぎると思う。藤本句の方が、そのロンパースを着た赤ちゃんの姿まで見える気がする。番組中、フジモンが「でも、俺の方が良くない?」と言って笑いを誘っていたが、本気で添削に納得できなかったのではないかと思う。

 

 以上が私の感想ですが、こんな風に素人なりに「私の」という視線を向けた方が、テレビもずっと楽しくなるのでは。

 ただ情報を受け取るだけというのは無味乾燥では、という感想なのです。では。

蓮と友達

 朝、目覚めた瞬間に「涼しい!」と思いました。曇りだ。日差しがないって、こんなにも違うものか。

 久しぶりの涼しい朝に機嫌良く起きたら、あら、朝食用のパンが無い。でも機嫌の良さは損なわれないのさ。だって涼しいもの。そうだ、自転車でお城のそばのパン屋さんに行こう。パンを買ってきて、ちょっと贅沢なブランチにしよう。ついでにお城(弘前公園)の蓮も見てこよう。

 

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 蓮の花って、いいですよねえ。極楽気分が味わえますよね。

 実は昨日の午後、お友達と三人で散歩がてら、こちらの蓮を見に行ったばかりなのです。ところが、昨日午後の時点ではほとんどが蕾の状態でして、「咲いてる!」というのはチラホラだったんです。

 蓮は朝開いて、午後には閉じる。それを数日繰り返して、散る。そういう知識はありました。でも、昨日目にしていたのが、開いて閉じたものなのか、全くの蕾なのかの見極めがつかなくて。それを確かめてみたかったのです。

 結果は写真の通り。朝の蓮は見事に咲いていました。

 

 上の写真を昨日の友人二人に送りました。「昨日は午後なので閉じた状態でした。今、9時30分。やっぱり蓮は、朝咲いて午後には閉じるのです」という説明を添えて。

 一人から返信がありました。

 「なる」

 すごーい!

 若者言葉で返信キター!

 若者の短縮語が使えるなんて、61歳のおばちゃん、やるじゃん!

 ナウなヤングじゃん、イケてるじゃん!

 と、感嘆する間もなく、

 「ほど」という送信が。

 ああ、そういうことか。「なるほど」と打つつもりが、途中で送信してしまったのね。そしてあわてて続きを送ったのね。おばちゃんあるあるよね~。

 

 蓮の花の命は短く儚いものだけれども、それ以上に儚く散った感嘆の思い。おばちゃんと蓮の花なんて似ても似つかぬと思いきや、「賞賛される期間が短い」という共通点がありましたねえ。そして、私のこういうものの見方を、「はすに構える」って言うんでしょうか。

 いずれにしろ、こうしてブログが書けたのもその友達のお陰なわけで、持つべきものは友だと、改めて思います。

 蓮は美しい花が楽しめるだけではなく、レンコンという食材でもあります。私の「チョイチョイやらかしてくれる」友人達は、こうして美味しいネタにもなるところ、益々蓮のようだと、重ねて思うのでした。では。

オリンピックが始まるねえ

 東京に住むいとこが、下の写真を送信してくれました。

 

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 外で轟音がするなあと窓の外をみると、ブルーインパルスが予行演習していたそうです。

 地方にいると全然実感がないのですが、さすがに東京では「オリンピック・パラリンピック」の足音が聞こえているんでしょうね。と言うか、もう始まったんですものね、ソフトボールとか女子サッカーとか。

 

 つい先日も式典音楽部門の関係者が、過去のいじめスキャンダルで辞任するという事件がありましたが、今ここに来て!?日本中がそう思ったと思います。

 思い返せば、今までに本当にいろいろな「事件」のあった「オリパラ」です。私の記憶にあるだけでも、

 ・国立競技場の設計案変更

 ・エンブレム盗作疑惑、やり直し 

 ・桜田五輪大臣失言、辞任

 ・森組織委員長女性蔑視発言、辞任

 ・橋本聖子新組織委員長過去のセクハラ、ゴメンナサイ

 ・開閉会式の振り付け担当者、いつの間にかおろされる

 ・トップアスリートの不倫騒動

 そしてここに来ての、・いじめスキャンダル、ですよ。

 

 上に並べた事件と言いますかスキャンダルといいますか、そのほとんどは「ネット社会」だから表面化したんだと思います。インターネットを使えば、世界中の誰もがあらゆる情報にアクセスできますし、発信された情報はスキャンダラスであればあるほど、恐ろしい勢いで拡散していきます。そして、一度ネット上にあがった情報は、いつまでたっても消え去ることはなく、いつか誰かが掘り起こしさえすれば、あっという間に広がっていきます。燎原の火のごとく。本当に恐ろしい時代になりました。

 

 いとこが送ってくれた写真の様に、インターネット様々と思うような使い方もあれば、場合によってはとんでもない事態を引き起こしてしまうもの、それがインターネットという物ですね。良し悪しの問題ではなく、それはもう誕生してしまったのであり、私達の生活から切り離せないものになってしまったわけです。私達はその点をよくよく考えて、インターネットという「新しい生活様式」の中で生きていかなければならないと言うことです。

 私もこうしてブログで発信するという活動をしているわけですが、気をつけなければいけないなあと改めて思います。ブルーインパルスのように美しい軌跡ばかりを残す事は出来ないまでも、少し慎重になって、炎上するような事故を起こさないよう気をつけなければ、そう思っているのです。では。

「ひとりめ幸せ」という津軽の慣用句

 「一人前」と書いて、何と読みますか。普通、つまり標準語的には「いちにんまえ」でしょうね。でも、私の住む青森県では、「ひとりまえ」という読み方も普通にします。意味や使い方は「いちにんまえ」と同じだと思います。

 「口だけはひとりまえだ」、こんな風に使います。そして、「まえ」が「め」に縮まった、「ひとりめ」という言い方も一般的です。

 ネットで、この「ひとりまえ」という表現について調べましたところ、そういう読み方は無いとか、間違った読み方だといった意見が多数みられましたが、それはあくまでも、その方の生活圏での事であり、日本のどこかでは「日常に生きている」言葉なのです。実際ネットで調べた中で、鹿児島弁では「ひといまえ」と言うそうで、これは確実に「ひとりまえ」の仲間ですね。

 

 タイトルの「ひとりめ幸せ」というのは、津軽の60オーバーの人々が使う慣用句です。若い人は使わないと思います。

 津軽出身の友人達と、どういう意味だろうかと話したことがあります。

 周りが苦労している中で、自分だけ好き勝手に暮らしているような人を皮肉る表現だろうとは一致しました。でも、その後も何回かこの話になり、別な意味も見いだしたのでした。

 「人って、他人から不幸に見えても案外幸せだったり、逆もあったりするよね。結局、幸せは自分の心が決める、みつを。なんだよね」

 「そうそう。ひとりめ幸せって、自分だけが幸せってことだけど、自分の幸せを決めるのは自分って考えれば、幸せは全て”ひとりめ幸せ”、なのかもね」

 なんとなくスッキリしないところも有りましたが、これで「ひとりめ幸せ」には、けりがついたような気持ちになっていました。

 

 二、三日前の事です。Youtubeで『テレフォン人生相談』を聞いていますと、いよいよ最後、加藤諦三先生の「締めのお言葉」になりました。

 

 不幸になれるのは、幸福な人だけです。本当に不幸な人は、自分が不幸であることに気付きません。

 

 衝撃的でした。

 そして、私はすぐにある知人に思い至りました。その人は病的とも思えるほど自己愛が強く、対等な人間関係では満足できないのです。他人との関係は、常に自分が「上」でなければ気が済まず、他人に、そして自分に対しても、見苦しいほどの虚勢をはる人でした。若い頃ならともかく、そういう人が年老いて、血縁者も少なくなっていけば、どのような老後になるかは想像がつきますよね。それでも、その人から出るのは様々な自慢話で、最後につく口癖は、「自分ほど幸せな人はいない」でした。

 加藤諦三先生の言葉を聞いて、あの人のあの言葉は本気だったんだ、私はそう確信しました。強がりを言っていたのではなく、自分の不幸に気付いていなかったんだ・・・。

 さらにもう一つ。

 「ひとりめ幸せ」、この言葉は、実はもの凄く深い意味があるのではないか、それも思いました。

 周りが苦しんでいるのに、その事に気付くことの出来ない人格。そういう人間がやがて味わうであろう苦しみ。そうなんですよ、自分の不幸に気付かない人間も、「苦しみ」は分かるんです。そして、その原因を「外」にばかり求め、苦しみ続けるのです。「なんで自分がこんな目に」と。

 

 「ひとりめ幸せ」の正しい意味は分かりません。調べてもその言葉自体、見つかりませんでしたから。でも、実際に使われているのは事実ですし、使う人はだいたい似たり寄ったりの意味合いで使っています(言葉ってそういうものでしょう?)。私が述べた様な意味は、少し大げさな気味はあるかも知れませんが、当たらずといえども遠からず、そんなところではないでしょうか。

 

 話は少し変わりますが、私達方言話者は「標準語+方言」と、標準語しか知らない人達よりは、遙かに豊富な語彙を持っています。

 ですので、標準語しか知らないような都会育ちの方は、そこをきちんと自覚されてですね、言葉に対しての謙虚さを持って頂きたいと思うのです。自分の少ない語彙の中で「そんな言い方はしない」とか、「間違った言い方」などと断ずるのではなく、聞き慣れない言葉には、例えば「どういう使い方するの?」といった風に、知的好奇心というものを持って頂きたいと思うのです。

 「ひとりまえって、何?いちにんまえでしょう。ゲラゲラ」なんて、文化の多様性を頭から否定するような態度をとって、「ひとりめ幸せな人だ」と相手に思われないよう、お気をつけなされ、そう忠告してしめたいと思います。では。

暑さこらえて~、編ん~でます~ ♪

 タイトルは都はるみ『北の宿から』の替え歌です。すぐにピンと来た方に向けて、あらためてご挨拶致しますね。

 あなた、変わりはないですか?

 

 さて。

 編み物を趣味にしているということは何回か書きましたが、「手編み教室」に通っていると言うことは書いていなかったように思います。特に秘密にしていたことでもないのですが。

 編み物は子供の頃から親しんでいたので、棒針編みもかぎ針編みも一通りは出来るのです。でも、細かいところや最後の仕上げの部分は自己流で、かなり誤魔化し誤魔化しだったのです。どうせやるならきちんと習おう、ちゃんとしたやり方を覚えよう、そう思いました。

 また、私の短所として飽きっぽいところがあり、編んだり編まなかったりのムラがあるのです。時には完成まであと少しというところで放り投げたり。そうだ、この欠点克服のためにも先生につこう。そうすれば宿題をこなす生徒のように、例え遅くとも歩を進めていけるだろうと、これも理由の一つになりました。

 結果的に、先生についたのは大正解で、一年中、継続的に何かを編んでおり、完成した作品もかなりの数になりました。いえ、むしろ編み過ぎではないかと思うほどなのです。断捨離に励むはずが、ウエアや小物類が増えていっている・・・。

 

 以前拙ブログで、二月から四ヶ月間かけてカーディガンを完成させたと、写真付きで紹介しました。そのカーディガンは毛糸も細いうえに、編み込み模様だったので四ヶ月もかかったのですが、その後にとりかかったセーターは、太い糸でざくざく編むタイプだったので、六月の一ヶ月間で完成しました。下の写真です。

 

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 右の本の表紙と同じセーターを、糸と襟の高さを変えて編みました。糸は手持ちの、焦げ茶色と、金糸の絡んだ茶色の二本取りにしたのですが、好きな色合いで出来ました。サイズもピッタリに出来て満足しています。友達からも、
 「着る人は大違いだけど、セーターは遜色ない」というお褒めの言葉を頂きました。友達って、有り難いですね。

 そして、七月の「教室」に向けて考えました。次は何を編もうか。

 他の生徒さん達は、いわゆる夏糸(コットンとかシルクとか)で編んでいます。でも、私は夏はニットは着ないのです。暑がりの汗っかきで、ニットは暑い上に洗濯が面倒で。

 結局、毛糸で編むと決めたのです。でも、上のセーターを編んでいて分かったのですが、セーターが編み上がって面積が大きくなるに従い、膝掛けをかけているような状態になって、とても暑いのです。なので、次の作品は思い切って、時間のかかる手の込んだものにして、冬に向けてゆっくりゆっくり編み進めることにしようと思いました。

 選んだのはアランセーターです。複雑な模様編みのあるセーターです。袖と前後身頃にびっしりと模様が入っています。

 

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 上は袖の編み図です。右は今編んでいる「段」が分かりやすいように、終わった下の段にマグネットを置いている様子です。

 私の通う「手編み教室」では、先生が生徒一人一人の机を回って、個別指導して下さいます。私の番になりました。上の写真のように、編み終わったところを隠している私のやり方をご覧になった先生は、次の様におっしゃったのです。

 「やっぱり皆さん、下を隠すのね。そうすると、編み終わったところと照らして間違いがないか確認するのに、いちいちマグネットを動かさないとダメでしょう?なのでね、私は上を隠すの」

 「!」

 もうね、目からウロコって、まさにこの事。あまりの興奮に、私、先生の肩をポンと叩いてしまいました(ずっと年上の方ですよ)

 つまり、こういう状態です(7段目を編んでいるところです)

 

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 本当に、なんで今まで気がつかなかったんでしょう。編み終わったところと、今編んでいる「段」が見えていれば必要十分。分かりやすいのは勿論、おっしゃるとおり間違いにも気付きやすいのです。

 「少しのことにも、先達(指導者)はあらまほしきことなり」、高校時代に習った『徒然草』の一節を思い出しましたねえ。本当に「先生」ってありがたい。

 

 アランセーターはなかなかの面倒な模様の連続で、間違わないためにはゆっくり落ちついて取り組むことが肝要です。適宜先生に教えていただいて、納得のいく作品に仕上げたいと思います。

 編み図の使い方は「目からうろこ」が落ちましたが、「編み目」は落とすことがないよう、頑張ろうと思います。では。