おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

またまた、22日の『プレバト』俳句

 一昨日の記事に引き続き、22日に放送された『プレバト』の中で披露された俳句二句について、感じたことを書きたいと思います。前回の記事とは異なり、今日は感嘆の思いを書きます。

 

まだマシなTシャツを貸す夜の雷  村上健志

 しわくちゃ・洗ってないなど、ろくなTシャツがないが、一番マシなのを貸す。「これ」と。その瞬間に光る雷。さあ、二人は何を思うのか。(村上)

 

私が思ったこと①

 上手いなあ、「まだマシな」か、良く思いつくなあ。でも意外なのは、雷は今、鳴ったのか。雷=雨で、濡れてきた彼女にTシャツを貸すんじゃないのか。

 

夏井先生の評

 上五・中七に非情にリアリティがある。「まだマシな」は自信が無いと使えない。「貸す」も上手い。二人の人物がいる。

 下五で評価が分かれる。

 やって来た人がずぶ濡れと捉えると、下五は「貸す」理由の説明になり損をすることになる。(今雷が鳴って)下五が物語が動き出す起点になる、と評価すると上がる。

 

私が思ったこと②

 ああ凄い。作者も、物語の起点として「夜の雷」を据えたと解説したし、夏井先生もそう読んだからこその3位。上五・中七の手腕から考えれば、この作者は下五に説明は持ってこないだろうということか。「詠み手」も「読み手」も凄いもんだなあ。

 

 そして、第一位がこちらの句でした。

日盛りや母の二の腕は静謐(せいひつ)  犬山紙子

 20代の頃、母の介護をしていた。炎天下を家に帰り、ベッドで寝ている母のTシャツからのぞく腕を触るとヒンヤリしていた。その、外とは違う平安な感じを詠んだ。(犬山)

 

夏井先生の評

 驚いた作品。Tシャツという言葉はないが、二の腕は確かにTシャツから見える二の腕。ヒンヤリと白く見えてくる。母の年齢をどれくらいに想像するかで読みが大きく変わってくる。

 最初、ご年配のお母さんで、「静謐」は諦めの入ったような人生の安らぎを感じた。

 あるいは、子供を突き放すような母の冷たい表情や静けさなど、そういう母かも知れないと、読めば読むほど奥行きが深くなる。この一句で短編が書けるのではないかという気すらした。

 

私が思ったこと

 私はテレビ画面のこちら側の住人ですが、二位以下の出演者の「いったいどんな句を詠んだんだ?」というスタジオの興味津々ぶりが伝わってきましたよ。二位以下も名句揃いで、それらをおさえての一位、しかも名人どころか特待生ですらない彼女の作ですからねえ。

 句が発表された瞬間は、スタジオは「キョトン」だったような気がします。一瞬、意味が分からない。でも、それこそ「読めば読むほど」、なんだか凄い句なんですよねえ。梅沢富美男の「たいした女だよ」というセリフ、ピッタリきました。

 私が俳句を読んでよく分からないと思うことの一つに、「意味が様々にとれる」ということの是非、があります。作者の言いたいことと違って受け取られるから「ダメ」という場合と、この句のように「読みが大きく変わる」からこそ「奥行きが深くなる」という場合と。その違いがどこにあるかは分からないまま、それでも自分なりの判断で、いいとか悪いとか勝手に言っているのです。

 この句で私のまぶたの裏に浮かんだのは、母方の祖母の二の腕です。母は色白でもなく、綺麗な肌でもなかったのですが、母の母である祖母は、いわゆるもち肌(?)でしょうか、とても綺麗な肌をしていました。そして、明治生まれだったので、若い頃は二の腕などは「陽にさらしたことのない肌」だったろうと思います。その後も、私の故郷は涼しいところだったので、祖母が半袖の物を着るのは、真夏のほんの数日のことでした。「ババちゃんでも半袖着てるもの。今日の暑さは特別だ」なんて笑いになるほどです。その時の、チラと目にする二の腕の白さときたら、「異世界」級の白さで、目に焼き付く白さなのでした。

 犬山紙子氏の句は、こんな些細な、記憶の底の底を呼び覚ましたんですよ。句の良し悪し、好き嫌いは分かれるかも知れませんが、「力のある句」だと思いました。

 

 余談ですが、「異世界級の白さ」で思い出す肌がもう一つあります。父の「スネ」です。

 それこそ昔の人ですから半ズボンなど履きません。男にしては色白で、すね毛も少なく細いスネでした。暑いときに家の中でズボンの裾をまくったり、ステテコ姿でくつろいでいるとき、いやでも目に入る真っ白なスネ。O脚のその形は、私達兄弟、そして私の二人の息子へと、確かに受け継がれましたね。

 父の細くて真っ白なスネ、囓りがいのないスネだったなあ、そんな事まで思い出しました。では。