おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

隔世の感

 ついさっき車でラジオを聞いていたら(RABだったと思います)、男性パーソナリティーの方が南部弁で次のような事を仰っていました。

 「昔(むがし)はさ、俺達(おれだぢ)がわがい頃はさ、なんでもぶ厚(あづ)いのがうれしがったんだよね。

 肉(にぐ)とかさ、分厚いステーギとか。漫画本とか、あど、辞書どかさ」

 お相手の女性パーソナリティーが、「辞書、ですか?」と不思議そうに聞き返しますと、次の様に応えていました。

 「まあ、厚い辞書って、辞書は皆厚いけどさ。今はほら、電子辞書とかでしょ」

 

 聞いていて、とても懐かしい事を思い出しました。

 たしか高校時代だったと思うのですが(誰かは忘れてしまったのです)、友人がもの凄く厚い英和辞典を持っていたのです。でもそれはページ数が多くて厚いのではなく、まるで一度水にでも漬かったものを乾かしたかのような、「膨らんだ」厚みだったのです。

 その友人は次の様に説明してくれました。

 「これは1ページ1ページくしゃくしゃにもんで、わざとこういうふうにしたんだよ。新しい辞書はページがくっついていて使いにくいから。

 特に英和辞典は頻繁に使う物だから、ページがめくりやすいよう、速くひけるよう、こんな風にする物だって教えられたんだよね」

 おぼろげな記憶では、「中学時代の先生に教わった」と、そんな風に聞いたような気がします。私もまねをしたような、でもなんだか勿体なくてあまりくしゃくしゃには出来なかったような、こちらも中途半端な記憶です。

 それこそ電子辞書が当たり前の今日にあっては、隔世の感がある話です。

 

 「隔世の感」と言えば、もう一つ、どうと言うことも無い話にお付き合い下さい。こちらは昨夜のテレビニュースを視ていて思った事です。

 そのニュースは、宇宙旅行がいよいよ実用化に向けて動き出したというものでした。子供の頃、「私達が生きている間に宇宙旅行に行けるような時代になるかなあ」なんて考えたりしたと思うのですが、心のどこかでは「まだまだずっと先のこと」と思ってもいたと思うんです。それが、それ程遠くない未来には実現しそうな勢いなのです。勿論、費用は相当かかるようですが。

 話は変わりますが、私は年のせいか、「自分はどの様な最期を迎えるのかな」と考えることがあります。いわゆる「孤独死」かもしれないし、病院でスタッフや家族に囲まれてかもしれないし。どうせあの世へは一人旅なので「孤独死」も全然構わないのですが、出来るだけ早く発見して貰えるよう、そこは対策しておきたいと思っています。

 逆に、病院や介護施設で最期を迎えるとなった場合、「家に帰りたい」「家で死にたい」と、そう思うんじゃないかなという気がしています。多くの人は、住み慣れた懐かしい場所で最期を迎えたい、そういう願いを持つのではないかと思うのです。

 そう考えますと、病院や施設にいる人は「家で死にたい」、尋常で無い状況の人は「畳の上で死にたい」、外国にいれば「最期は日本で迎えたい」。そして、ここにきて、宇宙にいる人は「地球で死にたい」、そんな風な願いも生まれたりするのかなと、宇宙旅行という楽しいニュースからそんな事を考えたのです。

 

 時代は「重厚長大」から「軽薄短小」へとうつり、膨らんだ分厚い紙の辞書はすっかり時代遅れとなりましたが、少なくとも想像力は思う存分膨らませたいと思うのです。重力(gravity)に縛り付けられない宇宙空間のように、想像の世界で自由に落書き(graffiti)を楽しみたいと思います。では。

手相占いとか、信じます?

 子供の頃から手相占いの本を読んだり、漫画週刊誌の星占いのページを見たりと、占いには興味がありました。とは言え、本気で信じているというのでも無くて、気になるからみるけれど、いいことが書いてあれば気をよくし、反対に悪い内容であれば気に留めないようにするという、その程度のものです。

 以前に拙ブログで「血液型占い」について触れたことがあります。私は血液型占いには全く興味が無く、つまりは「そんな事あるかいな」というスタンスだったのです。が、最近では血液型によって罹りやすい病気があることが分かってきて、少なくとも血液型はその人の「体質」というものに影響があるという事は事実のようです。となれば、体質が人の行動や性格を規定するということだって無いとは言えず、案外血液型占いも「当たっている」面があるかも知れないと、そんな風に私の考えも変わって来ています。

 さて。

 読者の皆さんは、「薬指が長い人は・・・」という説をお聞きになったことはありますか?私は大分前からネットでみて知ってはいましたが、半信半疑、いえほとんど信じていませんでした。まず、その説というものを簡単に紹介したいと思います。

 「指の長さ」は指どうしの比較でみます。人差し指と薬指の長さを比べてみて下さい。どちらが長いでしょうか。それによって性格の傾向が分かるそうです。男女とも薬指の方が長ければ、いわゆる「男性的」な性格。反対に人差し指の方が長い人は「女性的」な性格なのだそうです。何が男性的で、どう女性的なのかはここでは説明しないので、興味のある方はググってみて下さい。「薬指 長い」ですぐに検索できると思います。

 私が最初にこの「薬指が長い人は男性的傾向」という説をみたときは、面白いなあとは思ったものの、どういう根拠があるのかと不思議に思っていました。そして、しばらく忘れていたのですが、最近、偶然この説についてYoutubeで解説を聞いたのでした。

 なんでも、ヒトの薬指の長さは胎児の時に母親から浴びた男性ホルモンの量で決まると言うことが、実験で明らかになっているのだそうです。男性ホルモンの量が多い方が薬指は長くなるのだとか。そして、そのホルモンは薬指の長さだけではなく、その子供の性格にも多大な影響を及ぼすということらしいのです。

 皆さん、如何でしょうか。改めてご自分の手を眺めてみて下さい。薬指の長さとご自分の性格と、頷けるものがあったでしょうか。ちなみに、私自身はどうかというと、薬指、スゴく長いです・・・。

 

 昔読んだ手相占いの本の記憶ですが、「手相占い」は手のひらに刻まれた「線」だけをみるのではなく、指の長さや肉付きなど、手全体を見るのだとか。そうすると、薬指の長い人は統計的に「男性的」であることが多いということが分かっていて、「あなたは男性的で積極的な性格の持ち主です」とされるのでしょう。

 こう考えますと、ひょっとしたら指の長さだけではなく、手の大きさ、線の刻まれ方等にも胎児の時に受け取った、なんらかのファクターが影響している可能性もあるわけでしょ?まだ解明されていないだけで。

 さらに、「手」だけではなく、例えば「顔相占い」だって同じ事が言えるのかも知れず、さらに「星座占い」だって「生まれた日に受けた電磁波の影響で・・・」とか、意外に科学的根拠のある可能性もあるかも知れないと、ちょっとワクワクするのです。

 案外、私達が「迷信」とか「非科学的」として退けている物の中に、面白い「真理」があったりするかも。そう考えると、「占い」も俄然面白くなってくる気がします。はなから馬鹿にしたりせず、ちょっと耳を傾けてみたいと思いました。

 

 「働けど、働けど・・」と、貧困を嘆いてじっと手を見つめたのは石川啄木ですが、果たして彼の手相の「金運」を表す線はどういうものだったのでしょうか。それは分かりませんが、啄木の薬指は短かったんじゃないかな、そんな気がします。

 泣き濡れて蟹とたわむる長い人差し指・・・、私の想像が間違っていたら、かにして~。では。

電子書籍のいいところ・悪いところ

 今日もいきなり拙句の紹介から始めたいと思います。

 

  秋深し電子書籍に読む乱歩 takakotakakosun

 

 私は「Kindlepペーパーホワイト」(以下、K)を持っています。kを使って読んでいるのは、太宰・乱歩などの、著作権切れで「青空文庫」に収められた無料で読める小説、それも短編がほとんどです。

 kの最も便利な点は、字(フォント)の大きさを好きなように変えられるというところです。もともとド近眼なところに老眼も加わって、字を読むのが辛いお年頃になった私です。文庫本はメガネを外して30㎝ぐらいの距離だとよく見えるのですが、疲れます。その点、kは明るさも調整できるので、その日の目の調子(日によって違いますよね、同年代の方、そうでしょう?)や場所によって、読みやすい状態を作れるのはフォントに助かります。

 kは軽いのに、いくらでも「本」を保存しておくことが出来るので、鞄に入れておくと、出先で時間が出来たときに気軽に読むことが出来ます。かさばらないので旅のお供には最適かと思われます。そして、断捨離に目覚めて本も整理している場合、「かさばらなさ」は大きな魅力ですね。

 また電子機器らしい機能として、辞書機能があり、意味の分からない言葉に出会った時、瞬時に調べられるのです。紙の本の場合、「後で調べよう」と思ったまま忘れてしまうと言うことが良くあります。

 

 さて、kの欠点についてです。

「あれ、この人誰だったけ?」と前の方で出てきた人物やエピソードを忘れている場合(これがしょっちゅうなんですよ)、遡って探すのが非常にしにくいのです。紙の本だと、「だいたいこの辺で出てきたはず」と検討をつけたページを繰って見つけることが出来るのですが。

 この欠点はkを使い始めてすぐに気付きました。でも我慢出来ないという程の欠点ではありません。そして、他は特にこれという不満もなく使ってきたのです。

 ところが。

 上の方でも書きましたが、私は「青空文庫」や市の図書館などを利用して、読書はお金をかけずに楽しみたい派です。そんな私が珍しく最近、お金、それも1,935円という大金をはたいてダウンロードした本があるのです。

 

モッキンバードの娘たち (海外文学セレクション)

 

 購入のきっかけは、「はてなブログ」で書評を偶然読んだことです。その方(お名前失念)の文章の素晴らしさもあって、「面白そう、読んでみたい」と強烈に思いました。図書館にあったらすぐに借りに行こうと検索したのですが、残念ながらありませんでした。どうしようか、ちょっと高いなあ、迷いましたが「たまにはいいか。珍しいことに手を出してみるのも面白いかもしれない」、そんな風にも考えて買うことを決心しました。

 買うと決めたら、次に選択するのは「k」か「紙」か。悩みましたが、「今すぐに読み始めることが可能」という点が決め手となって、Kindle判で購入しました。

 とても面白い本でした。そして後悔しました。「紙の本で買えば良かった」と。

 ①「撫でたかった」と思ったのです。面白かった本は、読み終わった後、装丁をじっくり楽しみながら撫でる楽しみもあったと、気付かされたのです。 

 ②ああ、紙の本であれば誰かに貸せたのに(年代的なものもあると思うのですが、本は貸し借りする物、と思っています)

 ③時々本棚から引っ張り出して、気に入った表現や気になる箇所を探してパラパラしたかったなあ

 ④読んでいる途中、指が「ページをめくる感触」に飢えてた

 

 こんな感じで、紙の本で無ければ味わえない欲が出てきたのです。自分でもビックリです。今までだってkで読書してたのに、なんで急にそんな風に感じたのか。

 初めて読む作家で、新鮮さにワクワクしたから?久しぶりに長い物語を読んだから?いえ、恐らく、一番の原因は値段だと思います。1,935円も出して、そしてその分はあったと思っているけれど、もっと徹底的に「本」を味わいたかったのだと思います。そして面白かったけれど、多分二回目読むことはないと思います。紙の本であれば、読みたいという誰かにあげることだって出来て、二回目、三回目と読まれたかもしれないのに。結局はいつもの貧乏性が顔を出したという事でしょうか。

 

 以上、電子書籍には良いところもあり、物足りないところもあり。同様に紙の本にも一長一短があり、どちらがいいとも悪いとも言えないなあと思うのです。

 でも、少なくとも、「目のいい若い人」には、紙の本をすすめたいです。「これ、面白いよ」そう言って友達に貸したり、逆に「読んでみて」って押しつけられたり。そういうのって、まさに青春の一コマ。

 「これ、貸してくれるかな?」「いいとも」

 いいと思うなあ、本の友達、略して「本とも」。これは電子書籍にはない魅力なのです。では。

お土産の筍ご飯うまかった

 所属している俳句の会の投句締め切りが過ぎまして、今月は締め切り日の前日に提出という快挙であったことが、「今月最も嬉しかったこと」である、この頃の私です。

 テレビ番組『プレバト』で夏井いつき先生が、「実体験を書きゃいいんだよ」と良く仰いますが、これが書けそうでなかなか書けないんですよね。でも、今月は

  手土産は筍ご飯女客(おんなきゃく) takakotakakosun

という、気負わずさらりと、日記代わりの一句が出来ました。

 まあ、句の出来としては特別良くもないのです。が、何年経ってもこの句を思い出せば、あの時頂いた筍ご飯の美味しさと、そして届けてくれた彼女の事をくっきりと思い出せるのではないかと思っています。俳句にはそういう楽しさもあるということで、拙い句ではありますが、披露させて頂きました(ここは当節流行りの「させて頂きました」の出番でしょ(笑))。

 

 「女客」という言葉ですが、日常生活ではあまり耳にしない言葉かと思います。私が句の中にこの言葉をすんなり使えたのは、「女客」という言葉が使われた俳句を目にしたことがあったからだと思います。でも、すぐには思い出せなかったので、ネットにあたってみました。

 

  長閑さや出支度すれば女客  素丸

  待宵や女主に女客      与謝蕪村

  春浅し猫が好まぬ女客    川久保亮

  女客帰りしあとの冬座敷   志摩芳次郎

 

こんな感じで、記憶にあったものもあれば初めて知ったものもあり、すぐにいくつかヒットしました。

 俳句を好まない方のために、僭越ながら少々俳句の弁護をしたいと思います。

 例えば、二つ目の蕪村の句です。待宵(陰暦八月十四日)にお客が来たが、女の客だった。そして出迎えた側もまた女主であった、それだけの句です。でも、これが男の客がその家の主人(男)を訪ねて来たのでは、何の面白みもないただの日常です。それが、訪ねて来た側も迎えた側も女であって、しかもそれが「十五夜」ではなく「待宵」であるというところ、そういう所に「面白み」を感じ、そして面白がる。それが俳句という遊びの魅力の一つかなと、そんな風に思っているのです。

 そう言う風に言われてみると、他の句も「女客」だからこそ面白いのであって、ただの客、つまり男の客では全然色合いの違ったものになるということは、ご賛同頂けるかと思います。

 

 さて、ここからが本題なのですが、この「女客」という言葉をめぐって、杞憂とも言うべき心配が頭をもたげてきたのです。

 最近の風潮で、男女の差別につながるような言葉は極力使わないように、というのがあります。記憶に新しいところでは、某アイドルグループ出身の芸能人の「女優では無く俳優と呼んで」という発言のように。

 言いたいことは分かります。女社長とか女医とか、そういう言葉には、本来男がしめるべき地位に女なのについているといった、女性を軽んじる意味合いを確かに感じます。そして、この論でいきますと「女客」も女性蔑視の言葉になるのかもしれないと思うのです。

 昔は主=男であったように、客と言えば男だったでしょう。珍しい存在であるがために「女主」「女客」とわざわざことわっている訳です。そして、俳句の面白さは「女客」だからこそ成立するのであり、「女客ではなく客と呼んで」では困ってしまいます。だからと言って、じゃあ男の客は「男客」で、ともいかないと思うのです。たった十七音しかない文芸に、2音から5音への変更を求めるのは酷というものじゃないですか?

 拙句を例にものを申すのは大変気が引けるのですが、「筍ご飯」が手土産というのはいかにも女客らしい取り合わせで、ここは「女客」を譲りたくないのです。

 世の中の差別を解消していくためには、言葉の問題も含めて「小さな事もないがしろにせず」だとは思うのです。が、同時に独特の情緒のある言葉が差別的という理由で消えていくのはちょっと寂しくもあるなあと、そんなこんな、いろいろな思いが雨後の筍のごとく浮かぶのでした。筍ご飯つながりで。

 

 友人から頂いた筍ご飯はとても美味しかったのに、その甲斐無くうまくもない拙句を披露してしまいましたが、「そう言えば節句も近いなあ」と免じてお許しを。では。 

そこに愛はあるんか?

 ご当地ナンバーってありますよね。私の住む弘前市でも、昨年から交付が始まりました。せっかくの取り組みに水を差すつもりはないのですが、私自身は全く興味がないのです。ある時、友達に聞いてみたことがあります。

 私 「ご当地ナンバーに替えたいと思う?」

 友 「全然」

 私 「だよね。替えてる人達って、どういう理由なのかなあ」

 友 「弘前愛が強いんじゃない」

 そうかー、そう言う事であったか。腑に落ちました。完全に納得しました。私もその友人も弘前市出身ではないのです。だから「弘前ナンバー」に思い入れも興味も持てないけれど、弘前に生まれ育った人達にとっては愛する故郷・弘前であり、確かに熱烈に弘前を愛している方達がいます、います。そういう方達がこぞって弘前ナンバーのプレートを愛車につけたのでしょう。

 今日、車を運転していたら、前の車のプレートが弘前ナンバーでした。満開の桜と岩木山とお城が描かれた、ピンクが基調のプレートです。ちょうど弘前はお花見時なこともあって、ほのぼのとした気分になりました。走るお花見といった感じです。

 そして、そのナンバープレートを巡って、知人からちょっとした愚痴を聞かされた事も思い出したのでした。

 その知人は70代で、ご主人も同じく70代。それぞれ自分の車を所有しています。そのご主人はよっぽど弘前愛が強い方なのか、交換受付が始まるやいなや、自分の車を弘前ナンバーに替えてきたそうです。そして数日後、「ちょっと車借りる」と知人に言って出かけたのですが、帰って来て何を言うかと思ったら、「お前の車も弘前ナンバーに替えてきたから」だったのだそうです。

 知人は思わず、「私の車だよ。なんで断りも無く勝手にやるの」と抗議し、ご主人は無言だったそうです。

 知人は「弘前ナンバー」にしたいなんてこれっぽっちも思っていなかったし、それ以上に「勝手にやられた」事があまりにも腹立たしく、(めったにご主人に文句を言ったりしない方なのですが)言ってしまったと話してくれました。

 その知人の不愉快さは、100人中100人、理解できると思います。中には「それぐらいどうと言うこともないだろう」と思う方がいたとしても、他人の所有物に無断で手を加えることの是非という点では、知人を是とすることに異議はないでしょう。

 ここで難しいのは、そのご主人の行為をどうとらえるか、ですよね。相手が喜ぶだろうと思ったのは間違い無いと思います。自分だったら大好きな弘前ナンバーで嬉しいわけですから。残念なのは、何十年も一緒に暮らしている奥さんの事が分かっていないし、分かるための「会話」をしようとしないところでしょうか。

 弘前への愛はあっても、私への愛はあるんか?それがその知人の怒りの最大のポイントではないかと思うのです。いくつになっても、何十年たっても、「この人は私のことをどう考えているんだろう」そう思うのが女性であり、そんな事は考えもしないのが男性なのだろう、よそのご夫婦の諍いからそんな事を考えました。

 車も夫婦も、ちょっとした不注意の衝突で、思いがけないほどのダメージを受けたりするものです。安全運転は毎日の積み重ね、ゴールド免許を目指したいですね。

 ちなみに、勝手にナンバープレートを替えられて抗議するとき、津軽弁では「どんだのさ」ですが、九州弁では「なんば、しよっと」でしょうか。では。

ソメイヨシノとサクランボ

 弘前公園の桜は満開を迎えたようです。そしてここ2,3日の弘前は、大風が吹き荒れるという皮肉な天候なのです。咲き誇る花の重さに耐えきれず、折れてしまった枝もあるとか、コロナ禍に加えて苦難の多い今年の桜です。

 弘前公園の桜は品種の多さも自慢ではありますが、圧倒的に多いのはなんと言ってもソメイヨシノです。

 私は昨年、リンゴについて拙ブログに記事を書くためにいろいろと調べ物をしました。その結果、植物の「自家不和合性」や「自家不結実性」というものを知ることが出来たのでした。それらについてザックリ説明しますと、「雌しべは、自分と同じDNAの花粉では実をつけない」という事になろうかと思います。

 

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 

 ソメイヨシノはクローン、つまり日本全国のソメイヨシノは全て同一のDNAを持っています。そこまでは、昨年の私も知っています。そして何の弾みか、今朝気付いたのが、「だからソメイヨシノには実がならない」という事でした。もし、あれだけの桜の花が全て実をつけたら大変な量です。チェリ-も積もれば山となる、です。

 勿論、中には小さな実をつけるものもあるでしょう。でもそれは、同じ頃に咲いた他の品種の花粉を貰って出来た実であり、「ソメイヨシノの実」とは言い切れないものだと思われます。逆に言うと、その実が土に落ち、芽を出して生長したならば、新しい品種の誕生となるのかも知れませんね。

 

 また、ソメイヨシノの実に連鎖して気付いた事があります。ああ、と得心がいった瞬間、懐かしさでいっぱいになりました。

 私の実家には桜の木が何本かありました。どれもソメイヨシノではありませんでした。遅咲きの八重咲きの品種で、花びらの色も濃いピンクという、なかなか豪華な桜だったのですが、植えられた場所があまり良くなくて(建物の陰になっていました)、手入れもされず、じっくり眺められる事もない、不遇な桜の木達でした。

 ところが、花が終わってしばらくたった頃、その木達が村の子供達の注目の的となる時がやって来るのです。もうお分りかと思いますが、我が家の桜はとても小振りながら「サクランボ」と言ってもいいような実をつけるのでした。

 私が小学校中学年の頃までだったでしょうか。田舎のこととて、よその敷地も何も関係なく、元気な男の子達がそのサクランボをとりたくてやって来ます。サクランボをとるのは構わないけれど、登られて枝を折られると困るので、見つけた母は怒鳴りつけます。それでも隙をみてやって来る腕白達。懐かしい昭和40年代の光景です。

 それにしても、衛生状態も栄養状態も今より格段に悪かった昭和の子供達は元気いっぱいに外を駆け回って友達と遊び、こんなにも豊かになった令和は「ステイホーム」、「ソーシャルディスタンス」。なんとも皮肉な現実です。

 また、日本中に植えられ愛されるソメイヨシノですが、DNAが同一であるために、もし致命的な病気が発生すれば、あっという間に全滅の危機も考えられると、何かで読んだ事があります。

 つくづくと、自然の仕掛けや生命の仕組みは一筋縄ではいかないものだと思わされるのです。では。

東京の「間取り」

今週のお題「間取り」

 

 数年前になるが、東京に暮らす息子その2が「寮」を出てアパート暮らしを始めることになった。二十歳の彼は親が思っている以上に行動力があり、部屋探しも引っ越しも「一人で出来るもん」ということだったので、任せた。

 「1階だけど、俺が良ければいいよね。家賃的にそこしかないって感じ」

 まあ、男の子だし、日当たりもそんなに悪くないと言うし、第一、その頃は私も仕事が忙しい時期だったりして、独力で引っ越しを済ませてくれるなら大助かりだった。

 「そこに決めようと思うんだけど、洗濯機置き場が無いんだよね」

 「そんなバカな!じゃあ、洗濯はどうするの?毎回、コインランドリー?」

 「いや、洗濯機は外置き。隣りもそうしてる」

 自慢じゃ無いが、私は青森県以外で暮らしたことがない。洗濯機置き場の無い間取りなんて、洗濯機が外置きなんて、そんな事って・・・。

 東京暮らしの長くなった息子その1に聞いてみると、

 「東京じゃ良くあるよ」という。そうか、良くあるのか。

 吹雪の晩に凍えながら、脱水が終わっても放置していたためにバキバキに凍った洗濯物を抱える息子の姿を想像すると、不憫を通り越して笑える。ところが、残念(?)なことに、東京には吹雪の晩はないようだ。洗濯機外置きという間取りでも、水道凍結の心配も無いだろうし。問題は無いのだろう。

 ところが。

 一昨年だったと思う。関東に、もの凄い台風が上陸することになった。息子達にラインで停電や断水に備えるよう連絡したところ、息子その2から質問が来た。

 「洗濯機どうしよう?大丈夫かな?」

 「そうね・・・、とりあえず、水を目一杯入れて出来るだけ重くして。断水したときに使えるし」

 そんなやりとりがあったことを記憶している。幸い、何事もなく済んだが。

 

 地方都市で暮らしていると、東京の家賃の高さに驚かされるが、それ以上に「こんな間取りあり!?」というビックリがある。結局はお金が物を言うという事なのだが、高い家賃が出せなければ、信じられないほど狭かったり、へんてこりんだったり、そんな間取りで我慢するしか無い。それが東京。

 立地と家賃を勘案すれば、洗濯機置き場にセンタクの余地は無い、それが東京なのである。では。