おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

お土産の筍ご飯うまかった

 所属している俳句の会の投句締め切りが過ぎまして、今月は締め切り日の前日に提出という快挙であったことが、「今月最も嬉しかったこと」である、この頃の私です。

 テレビ番組『プレバト』で夏井いつき先生が、「実体験を書きゃいいんだよ」と良く仰いますが、これが書けそうでなかなか書けないんですよね。でも、今月は

  手土産は筍ご飯女客(おんなきゃく) takakotakakosun

という、気負わずさらりと、日記代わりの一句が出来ました。

 まあ、句の出来としては特別良くもないのです。が、何年経ってもこの句を思い出せば、あの時頂いた筍ご飯の美味しさと、そして届けてくれた彼女の事をくっきりと思い出せるのではないかと思っています。俳句にはそういう楽しさもあるということで、拙い句ではありますが、披露させて頂きました(ここは当節流行りの「させて頂きました」の出番でしょ(笑))。

 

 「女客」という言葉ですが、日常生活ではあまり耳にしない言葉かと思います。私が句の中にこの言葉をすんなり使えたのは、「女客」という言葉が使われた俳句を目にしたことがあったからだと思います。でも、すぐには思い出せなかったので、ネットにあたってみました。

 

  長閑さや出支度すれば女客  素丸

  待宵や女主に女客      与謝蕪村

  春浅し猫が好まぬ女客    川久保亮

  女客帰りしあとの冬座敷   志摩芳次郎

 

こんな感じで、記憶にあったものもあれば初めて知ったものもあり、すぐにいくつかヒットしました。

 俳句を好まない方のために、僭越ながら少々俳句の弁護をしたいと思います。

 例えば、二つ目の蕪村の句です。待宵(陰暦八月十四日)にお客が来たが、女の客だった。そして出迎えた側もまた女主であった、それだけの句です。でも、これが男の客がその家の主人(男)を訪ねて来たのでは、何の面白みもないただの日常です。それが、訪ねて来た側も迎えた側も女であって、しかもそれが「十五夜」ではなく「待宵」であるというところ、そういう所に「面白み」を感じ、そして面白がる。それが俳句という遊びの魅力の一つかなと、そんな風に思っているのです。

 そう言う風に言われてみると、他の句も「女客」だからこそ面白いのであって、ただの客、つまり男の客では全然色合いの違ったものになるということは、ご賛同頂けるかと思います。

 

 さて、ここからが本題なのですが、この「女客」という言葉をめぐって、杞憂とも言うべき心配が頭をもたげてきたのです。

 最近の風潮で、男女の差別につながるような言葉は極力使わないように、というのがあります。記憶に新しいところでは、某アイドルグループ出身の芸能人の「女優では無く俳優と呼んで」という発言のように。

 言いたいことは分かります。女社長とか女医とか、そういう言葉には、本来男がしめるべき地位に女なのについているといった、女性を軽んじる意味合いを確かに感じます。そして、この論でいきますと「女客」も女性蔑視の言葉になるのかもしれないと思うのです。

 昔は主=男であったように、客と言えば男だったでしょう。珍しい存在であるがために「女主」「女客」とわざわざことわっている訳です。そして、俳句の面白さは「女客」だからこそ成立するのであり、「女客ではなく客と呼んで」では困ってしまいます。だからと言って、じゃあ男の客は「男客」で、ともいかないと思うのです。たった十七音しかない文芸に、2音から5音への変更を求めるのは酷というものじゃないですか?

 拙句を例にものを申すのは大変気が引けるのですが、「筍ご飯」が手土産というのはいかにも女客らしい取り合わせで、ここは「女客」を譲りたくないのです。

 世の中の差別を解消していくためには、言葉の問題も含めて「小さな事もないがしろにせず」だとは思うのです。が、同時に独特の情緒のある言葉が差別的という理由で消えていくのはちょっと寂しくもあるなあと、そんなこんな、いろいろな思いが雨後の筍のごとく浮かぶのでした。筍ご飯つながりで。

 

 友人から頂いた筍ご飯はとても美味しかったのに、その甲斐無くうまくもない拙句を披露してしまいましたが、「そう言えば節句も近いなあ」と免じてお許しを。では。