おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

私はなぜ『コロンボ』と『ポアロ』が好きなのか

 ミステリー映画やドラマの楽しみの第一は、事件の犯人が誰かを、あるいはそのトリックを、劇中の人物達と一緒に考えるというところにあるでしょう。

 その点で『刑事コロンボ』はユニークです。視聴者は最初から犯人もトリックも分かっているのですから。でも面白いんですよねえ、昭和生まれには。平成生まれにはきっと受けないと思います。展開がスローテンポだし、殺され方も銃殺・刺殺・絞殺・撲殺などのほとんど即死に近い方法なので、あまり刺激的ではないし。『名探偵ポアロ』も、謎解きの面白さを除けば、まあ、そんな感じです。でも、そういうところもいいんですよね、私には。

 若い人の好む、サイコな犯人が殺人のための殺人を、凝りに凝ったむごたらしい方法で行うというのは、おばちゃんは正視に耐えないのです。更に、情けなくも悲しいのは、早口のセリフは良く聞き取れないし、複雑なストーリーにはついて行けないというところです。加えてこの頃は、外国人の顔と名前は覚えられなくなってきました。

 ところが良くしたもので、若い人のようなドキドキ・ハラハラについて行けない代わりに、年配者は違った角度から映画・ドラマを楽しめたりもするのです。まあ、それはひょっとしたら個人差であって、必ずしも年齢によるものではないのかもしれませんが。

 『コロンボ』と『ポアロ』に共通するのは、犯人が毎回、いわゆる上流階級=お金持ちだというところです。そのため、犯行現場や犯人の住居が大変な豪邸であることが多く、目の保養になってワクワクします。コロンボはロス警察なので、登場するお屋敷はデザイナーがお金に糸目をつけず、センスの限りを尽くしたと言ったインテリアで、アメリカという国の豊かさを見せつけられる思いがします。70年代にこの暮らしかーと、彼我の住環境の違いに改めて茫然とする感じなのです。

 ポアロはベルーギー人ですが、活躍の場はイギリス。貴族や富豪のお屋敷が舞台となります。さすがは大英帝国!と感嘆するような、広大な庭園と重厚なお屋敷。その中の沢山の部屋を飾るのは、やっぱり重厚な家具や調度品、そして絵画。

 アメリカの現代的な豪邸もイギリスの歴史を感じさせる屋敷も、どちらも素敵でドラマのストーリーそっちのけで、背景に見入ってしまいます。

 そしてもう一つ、ファッションも見所です。『ポアロ』では時を越えてエレガントな「レディ」の装いが目を楽しませてくれます。逆に『コロンボ』は、今となってはちょっと笑えるような「流行」を懐かしく眺めることができたり。

 いずれにしろ、ストーリーや犯人捜し以外のお楽しみもたっぷりあるのが、これらのドラマの魅力なのです。特に「懐かしい」というお楽しみが味わえるのは、これは若い人にはない年寄りの特権ですね。

 

 ところで、この二つのドラマでは、「犯人が毎回、いわゆる上流階級=お金持ちだ」と書きましたが、これには必然性があると思うのです。それは、殺人が衝動的ではなく、計画的に巧妙に行われるという事と関係があるでしょう。

 衝動的に行われた殺人では、犯人は容易に捕まってしまいます。それではコロンボポアロの出番はありません。非常に頭の良い人間が、練りに練った方法で計画的に行う殺人。そこにこそ彼らの腕(灰色の脳細胞?)の見せ所があるわけです。

 衝動的な殺人は、恨みや怒りや「はずみ」などがその動機となりがちでしょうが、計画殺人の場合、その動機のほとんどは「金」です。しかも、頭の良い=高い教育を受けた人間が、危険を冒してまで犯罪に手を染めるのですから、勢い、事件は「お金持ち」の家でおこるという事になるでしょう。豪壮な屋敷でのお金持ちの生活は、外から眺める分にはウットリですが、それはそれで、庶民にはうかがい知れない苦労や諍いという物もあるのかも知れません。さすがに殺人事件まで起きるようなことは滅多に無い事でしょうが。

 

 刑事コロンボや名探偵ポアロのドラマには、背伸びした生活に憧れて犯人をゆすり、絞殺されてしまう「庶民」もよく登場します。

 高望みをせず、刑事や名探偵の活躍をお茶の間で楽しみながら、のぞき見趣味をちょっと満足させるぐらいが、私の身の丈に合っているのでしょう。ドラマをみながら、そんな風にコウサツしたのでした。では。

アマノジャクを飼い続ける

 人の言うことにいちいち反論するような性格の持ち主を「天邪鬼(あまのじゃく)」と言うわけですが、これは子供に対する評として使われがちですね。でも、自分がすっかり大人になって、そして普段接する方々も大人ばかりという状況で思うのですが、人というものは、いくつになっても心にアマノジャクを飼い続けるようなのです。

 

 「ちょっと失敗しちゃって・・・」と言いながら、手作りの食べ物を他人に差し出すという光景はとても日常的です。差し出された方は一口味わった後、「美味しいよ」と返す、これもお決まりです。相手のセリフが謙遜なのか正直な報告なのかにかかわらず、「美味しい」と返すのは、礼儀でもあり思いやりでもあると思うのですが、私にはもう一つ、隠された構造があるように思われてなりません。それは、人には誰でも、相手の言うことに反論したくなるという、「アマノジャク的性質」が潜んでいるからではないかと推察するからなのです。

 「美味しくないですけど」には「凄く美味しい」と返し、「上手ですね」と言われれば「全然、下手ですよ~」と答えるというように。

 でも、私は謙遜の美徳の持ち合わせが少ない方で、自分から「美味しく出来たんで」とか、「昨日のブログ、面白かったでしょう」と言いがちなのです。が、そうすると相手の反応は往々にして「まあまあ」とか「普通」とか、素っ気ないことが多いのです。みんな、アマノジャクね。本当は「凄く美味しい」「大傑作」とか思っているくせに。

 

 息子達が小学生ぐらいの頃、不思議に感じたことがありました。それは、母親達が自分の子供を他人の前で評する時の、「ちぐはぐさ」とでも言うべき事です。

 いわゆる優等生と言われるような子供の母親は、「全然。だらしなくて~」と自分の子を実際以上に卑下します。反対に問題児扱いされがちな子の母親は、「本当は優しい子なの」などと、自分の子を褒めると言いますか、まあ、かばう場面が多い気がしました。

 私は何となくその現象が気になって、その頃、あれこれ考えたのでした。謙遜だけなら「日本人の美徳」ってやつで済みますが、なぜ褒めるという行為も発生するのかと。そして結論は、「他人に言われることの反対を言いたくなる」という、人のアマノジャク的性質に起因するのではないかということに至ったのです。

 一般的に母親達はよその子を褒めがちです。勢い、褒められた子の母は「そんな事無いです~」と言ってしまうものです。問題児は誰からも褒められないので(褒められないとは、つまり貶されたも同然なのです。褒めるのが標準の世界ですから)、その母は自分で自分の子を褒めるのではないかと思うのです。どちらにしろ他人の言葉に反論するという、アマノジャクが顔を出しての所業だろうと思うのです。

 さて、こんなどうでもいいことを心の中で思っていた私ですが、なぜそんな事をブログに書こうと思ったかと言いますと、さあ、ここからが本題です。

 つい最近、ふとしたはずみで、親にとって「バカな子ほど可愛い」と言われるのはなぜなのかが、分かったような気がしたからなのです。忘れないように書いておこうと思いました。

 人に褒められるような立派な子であれば、それこそ親は世間と反対側、謙遜していればいいわけです。が、世間から馬鹿にされたり非難されたり、いわばこの世界に一人も味方がいないような子であればどうでしょう。「せめて親である自分は」。そういう世間に対するアマノジャク的親心が、「バカな子ほど可愛い」ということなのではないかなと、一人で勝手に腑に落ちたのでした。異論・反論は認めます。

 

 我が家の二人の愚息達はすっかり親離れしたようで、「便りが無いのは良い便り」状態です。願わくば、いつまでも「愚息」呼びしたいものだと、親が庇うような事がないようにと、「アマノジャク理論」創始者の私としては願いたいところです。

 以上、ご子息の件で苦慮されておられるだろう、あの方のことを思い浮かべつつ、書いてみたのですが・・・では。

皆さん「させて頂き」過ぎ

 謙譲語の「させて頂きます」という表現が、あまりにも世の中に蔓延していて気になりませんか?私などは最早「気になる」を越えて「気に障る」レベルなのです。

 ちょっと前に酒井順子著『ズルい言葉』を読んでいましたら、この「させて頂きます」が取り上げられていました。図書館から借りた本で、既に返却してしまったので記憶を頼りに書くのですが、酒井順子氏は「Noの言えない相手に[させて頂きます]と言うのは、一見自分を低いところに置くと見せかけて、相手にさらに低い姿勢をとらせることになる」といった論理を展開されておられた気がします。

 この章を読んだとき、どのぐらい前からこの表現は出現していたのだろうと気になり本の出版年を見たところ、2010年でした。そうなんだー、10年も前から既に頻繁に使われていたんですね。

 

 この「させて頂きます」を耳にする度、そんな畏まらんでも、好きにやりゃーいいじゃんと、がらっぱちな気分になるのですが、でも、私が本当に気にくわないと感じるのは、この言葉のウラに見え隠れする「臆病さ」なのだと思います。

 そんなに、他人からの批判が恐い?あーだこーだ言われるのを避けたいの?少しでも攻撃を防ぐための予防線を張るために、とりあえず「させて頂きます」って、身を低くするんでしょう?「謙譲語」という防護服をまとうのでしょう?

 

 先日、ラジオを聴いていたところ、リスナーからのメールが紹介されました。

 「・・・○年前の今日、今の夫からプロポーズして頂き・・・」

 ああ、この方の「夫」は、さぞ、やんごとなきご身分の方であらせられるのだろう、そう思いました。なぜなら、「夫からプロポーズされ」と言っても世の中の誰一人批判はしないと思うのす。そこを「させて頂きます」の受け身形を使うからには、私の先ほどの「批判されたくない理論」を越えた事情・理由があるのだろうと拝察するからです。

 と、意地の悪い冗談を書いてしまうほど、「させて頂きます」の乱用は気になっているのです。第一、「させて頂きます」は9音、「します」なら3音で済むんですよ。シンプルな方が表現としても美しくないですか?

 もう一つ。Youtubeで、ある女性が自作の手芸作品の作り方を紹介する動画を見ていた時のことも書きたいと思います。

 動画は材料の説明から始まるのですが、彼女は一つ一つ、百均のお店の名をあげ「これは、○○さんで購入させて頂きました」と紹介します。「購入させて頂きました」「購入させて頂きました」って、何回も良くかまずに言えるなーと半笑いの気持ちで見ていました。

 動画もいよいよ最後のまとめにはいり、彼女は出来上がった作品を見せながら、言いました。

 「自分でもとても気に入った作品です。大切に使わせて頂きたいと思います」

 なんか、凄くないですか。自分がへりくだって相手を立てるのが「謙譲語」の役目なのに、逆に、作った人=自分を立ててるんですよ。

 

 日本語の乱れといったことが問題にされることがありますが、私はあまりそういうことは気にならない質です。というのは、言葉というものは常に変化していくものだと考えていて、「乱れ」もいずれはスタンダードになったり、あるいは自然消滅したりするのだろうと捉えているからです。その視点に立てば、私が今嫌っている「させて頂きます」の乱用も、めくじら立てず許容すべきということになるのかもしれません。

 でも、ここは譲らないことにします。私は「させて頂きます」の乱用にはストップをかけたいと思います。なぜなら、先にも書きましたが、その表現の奥にある「ペコペコ頭下げてるんだからさ、気に入らない事があっても見逃してくれよ」という姿勢が嫌いだからです。

 以上、私の展開した持論には間違いがあるかもしれません。でも、「させて頂きます」なんてまどろっこしい言い方を、何回もかまずに言えることよりも、少なくともその意味を自分なりに咀嚼することの方が大事だと思うからです。そして、そこには当然、批判や辛い批評といった耳に痛い言葉が発生したりもするでしょう。でも、他人から批判され、そしてそれに耳を傾け、そうやって少しずつでも人は成長していけるのではないかと思います。噛めば噛むほど味の出るスルメをめざし、自分の干からびた脳みそを使っていきたいと思います。では。

ビンボ臭さを楽しんでいる②

 断捨離に取り組んでいます。

 私の解釈ですが断捨離とは、家の中に不要な物が入り込まないようにし(断)、既に不要な物があれば処分し(捨)、いたずらな欲望に踊らされない(離)、それらの心構えのことを言うもののようです。なかなか難しいですね。

 現代社会では次から次へと魅力的な商品の「情報」が飛び込んできて、「目に負けて」しまうこともしばしば。欲望のコントロールは一生の課題として、とりあえずは不要品(つまりはゴミですね)の処分をしていきたいと思っています。そして、そのために必要なステップとして欠かせないのが「総量の把握」ということです。

 例えば、タオル・バスタオルの類。あちらこちらの引き出しや収納ケースに分散していては、どういったものがどれだけあるのか把握できず、処分すべきかどうかの判断をつけることが出来ないでしょう。

 私の家にもありましたよ、沢山のタオル類。今はとにかく一カ所に集めて、大量の新品と、お客様用と家族用、そしてウエス用に分類し終わった段階です。どんなに頭を切り替えようと、新品を捨てることは私には出来ないので、せめて、古くなったタオルをウエスにするサイクルを速めて、ドンドン使うようにしたいものだと思っています。(でも、古くなったタオルもつい使い続けちゃうのよねえ。根が貧乏性だからさ)

 

 そんなタオル整理をしていて、改めて「沢山あるなー」と思ったのが、粗品でもらった白タオル。でも白タオルには台所用布巾としての使い途があるので、適当な大きさにカットして端を始末することにしました。下の写真です。

 

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  読者の中には「白タオルを布巾にするなんて当たり前。ビンボ臭いなんてとんでもない」と思われた方もいらっしゃるでしょう。いいえ、ビンボ臭いのはタオルでは無く、端の始末のことです。

 タオルをカットした端は、三つ折りにしてミシンをかけるか、手でかがるのが一般的かと思うのですが、綿のプリント布でくるんでミシンで押さえました。このプリント布がですね、端切れ中の端切れといいますか、「何でそんなものをとってあるの?」と自分でも疑問に思うような、小さい、変な形をした端切れなんですよ。それをリボン状にカットし、タオルの幅に長さが足りないものは継ぎ合わせて、何本も作ったんです。その作業のビンボ臭さたるや。ビンボ臭いとは、つまりは「コスパの悪さ」ということだと思いました。長い時間と沢山の手間をかけて布巾1枚を作る。本当に「ようやるわ」と思いました。でもいいの。私には時間が有り余っており、そして、手間をかけるということは、つまりは手芸という趣味の時間を楽しんでいるということなのですから。趣味ならば「コスパ」なんて度外視です。

 ということで、私の布巾は可愛いプリント布で縁取りされた、私だけのオリジナル布巾。私は台所仕事はあまり好きでは無いのですが、この布巾で、少しは台所付近に立つことも楽しくなるかと思っています。可愛いでしょう?ねっ、ねっ。

 

 さて、3つ目のビンボ臭い作品がこちらです。

 

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 こちらはミシンを使うとき横に置く、作業用マットです。ミシンはダイニングテーブルに置いて使っているのですが、金属の道具を置く際には、テーブルに傷をつけないように気を遣います。また、金属独特の「ゴトッ」っと言う音も気になるので、やっぱり置くときはちょっと気を遣うのです。

 今までは、あり合わせの布きれを敷いてその上に置いたりしていましたが、作業用のマットがあればいいんだと思い立ち、パッチワークキルトもどきで作りました。

 特筆すべきはパッチワークを作った小さな端切れの正体です。

 地味な色合いと布の質感、そして端切れの大きさでピンと来た方もいらっしゃるかもしれません。そうです、洋服についてくる「補修布」、あれなのです。左下のチェックのウール地は夫のジャケットのだと思います。他は私のパンツやブラウスのものです。肝腎の洋服は全てとっくに着られなくなっていて、捨てられたり、リフォーム用の「布」としてしまわれたりしています。ところが、これらの補修布と予備ボタンは無用であるにもかかわらず、整理されること無く、長年引き出しの奥で眠っていたのでした。

 最近の私はそういった引き出しも整理し始め、必要の無い補修布・予備ボタンは捨てることに。そして、ここでピッコーン!、閃きました。

 「色合いの似かよった補修布でパッチワークをしてみよう、そしてキルト芯(綿のようなものです)を挟さめば、作業用マットとしてちょうどいいのでは」

 何日かかけてどうにか完成。あまり綺麗な仕上がりではありませんが、私は大満足です。キルト芯のお陰でふっくらしているので、まち針を臨時に刺しておくことも出来て便利です。ミシンを使いながらこのマットが目に入ると、思わずにんまりしてしまう私です。

 

 如何だったでしょうか。「ビンボ臭い」とは、半分本気で半分謙遜でもあるのですが、考えてみれば「コスパ度外視」で何かに取り組めるということは、実は「贅沢」なことでもあるのかもしれません。ただ、出来上がりがビンボ臭く見えるか素敵に見えるかは、そこは作る人のセンスと腕次第ということになるのでしょう。

 とりあえずは、飽きっぽい私が途中で投げ出す事無く、パッチワークのマットまでマットウ出来たことで、良しとしたいと思っているのです。では。 

ビンボ臭さを楽しんでいる①

 最近、断捨離に(ゆっくり)励んでいるのですが、副産物が生じました。ちょっと自慢させて下さい。

 

 もともと手芸が好きで、ここしばらくは編み物に励んでいました。大分前から取り掛かっているカーディガンは、細い糸で編んでいるので進みが悪く、加えて、私の気分にムラがあるためになかなか形になりません。そうこうしているうちに三月になってしまったので、来年の冬に向けて気長に編んでいくことにします。

 さてそう決めますと、久しぶりにミシンがやりたくなってきて、何を縫おうか思案しておりました。

 私の縫い物にはマイルールがありまして、

 ①新しい材料は買わない(手元にたくさんあるじゃないか!)

 ②実用品を作る(断捨離中に不要品を増やしてどうする!)

以上の条件を踏まえた上で、作るものを決めなければならないのです。

 

 結果、以下の素晴らしい三作品が、断捨離と手芸のフュージョンとして誕生したのです。

 いずれも見ようによっては、非常にビンボ臭いものたちです。でも、私は大満足。つくづくと「私は、貧乏は嫌だけれどビンボ臭いことは好きな、生まれついての貧乏性なのだなあ」と思うのです。

 それでは、私のビンボ臭い作品と解説をお楽しみ下さい。

 

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 息子その2の枕にカバーを縫いました。材料は彼(もしかしたら息子その1かも)がほとんど着なかった、高校の夏の制服である半袖の白シャツ2枚です。暑い夏を少しでも涼しくと買ってやった親心を無視し、彼らは真夏も長袖シャツを腕まくりして着ていました。なんでも「半袖シャツはダサい」のだとか。ふ~ん、そんなもんなのねえ。

 あまりにも新品同様だったので、捨てる決心がつかないまま時が流れていきました。息子その2が高校を卒業してからでさえ、早五年になろうとしているのに・・・。

 ところが、不思議ですね。「捨て」に目覚めた最近の私、きっぱりと捨てる決心がついたのです。いえ、決心なんてものですらありません。あっさりとポイ。が、一度捨てる側に選別したものの、思いついたのです。

 新品同様だしすべりのいい生地だし、枕カバーにいいんじゃない、と。早速とりかかり、しかも、もともとは捨てる予定のものだったという気安さから、ロクに採寸もせずぐいぐい縫いすすめ、あっという間に完成。サイズも偶然の神が味方してくれてピッタリ。入れ口をどうしようか迷ったのですが、シャツの裾の部分がそのままの状態なのをいかして、このまま裏側に折って使うことに決定。

 この入れ口のカーブで、「あれっ、これひょっとして元はシャツじゃね?」って、そのものの前世が分かるというのも、リフォームらしくて面白くないですか。まあ、それをビンボ臭いとも言うのでしょうが。

 でも、何度も書きますが、私は大満足。シャツ2枚が断捨離できた上に、即戦力の枕カバーが手に入ったのですから。

 

 さてあと二つ、ビンボ臭い作品を紹介するつもりだったのですが、長くなってしまったので、残りは明日にしたいと思います。明日もお付き合い下さいね。

 ということで、今日の話は落語で言うなら、「まくら」の部分ですね。では。

南部せんべい

 私の住む青森県は、東側と西側にざっくり分けることが出来ます。南部地方と津軽地方と呼ばれます。私が生まれた下北半島は南部側なので、子供の頃から煎餅と言えば「南部煎餅」。あれが煎餅という物なのだと固く信じていました。

 

 私には関東に嫁いだ叔母がいるのですが、遅く子供を授かったその叔母が、実家(母の実家です)に、送って欲しいと言ってきた物が「南部煎餅」だったことをハッキリと覚えています。つわりで何も食べたくないが、「南部煎餅」だけは無性に食べたく、でもこっちでは売っていないから、というのが「送って欲しい」という理由でした。

 母や祖母がビックリして、「煎餅がないとは」と、笑いながら話していたことも覚えています。よくよく話を聞けば、関東では煎餅と言えば「草加煎餅」のことであり、南部煎餅とは似て非なる物であるという事だったのでした。

 

 数日前、あるテレビ番組をみて知った事があります。煎餅というものの材料についてです。

 草加煎餅がお米から作られるのに対して、八戸市岩手県の名物である南部煎餅は、小麦粉が原材料なのでした。知らなかった-。と言うか、考えたことも無かったー。煎餅は煎餅、あまりにも身近すぎて、「何から作られているか」なんて考えもしませんでした。そうかー(あ、無意識にダジャレが出てしまいました)、草加はお米の産地だからお米で煎餅を作り、お米の採れない南部地方では小麦で作るんですね-。

 

 人は誰しも子供の頃から慣れ親しんだ味を好むものなので、「草加煎餅推し」の関東民を否定するものではありませんが、やっぱり煎餅は「南部煎餅」でしょう。味のヴァリエーションの多彩さ、食べ方の豊富さといった点からも間違い無いと思います。

 味については、しょっぱい胡麻・甘い胡麻・ピーナッツ等々。食べ方については、津軽飴という水飴を挟んだり、油で揚げたり、また、南部地方では「煎餅汁」という、専用の煎餅で作るソウルフードもあるのです。青森県岩手県民以外の皆さんにも、是非いろいろな南部煎餅をご賞味頂いて、私の「南部煎餅推し」をご理解頂けたらと思います。

 

 話は変わりますが、南部煎餅が小麦粉から作られるということを知ったとき、思いついた事があるのです。それは、これ(南部煎餅)も、いわゆる「粉もん」の一形態ではなかろうかと言うことです。そして、「粉もん」の本場・大阪には、名物「粟おこし」があるじゃないか!ひょっとして、あれって本当に「粟」なの?そんな疑問も生まれたのです。あわててネットで検索しました。

 答えはさにあらず。大昔、粟で作られたのが始まりではあるのですが、その後、お米で作られるようになったのだそうです。お米を粟のように細かく砕いて作るのだそうです。

 こうしてみると、身近な食べ物も、何から作られているか知らない事って結構あるものですね。60年生きても、まだまだです。

 とりあえず、南部煎餅については「コナモン、ゲットだぜ~!」ということで、せっかく覚えた知識ですから、ポケッと忘れたりしないよう気を付けたいと思います。では。

フークレエとがんづき

 昨日の記事で、黒糖蒸しパンがどうも上手く出来ないという事を書きました。

 最近はお菓子もお料理も、レシピはYoutubeで探すことがほとんどなのですが、プロ・アマ問わず、皆さん手際よく自由に「食べ物を作ること」を楽しんでおられて、目からウロコという感じなのです。そうかあ、難しく考えず、楽しんで作ればいいんだよねえ、そうよねえ、そんな感じです。

 そんな中、「黒糖蒸しパン」を作ったわけですが、Youtubeの機能の一つに「お薦め動画」をしつこく親切にあげてくるというものがあります。興味のあるテーマに絞ってお薦めしてくるのですから、ついついみてしまいます。そして、思わぬ収穫もあったりするのです。

 

 皆さんは「山崎製パンの黒糖フークレエ」という蒸しパンはご存じでしょうか?私は知りませんでした。何でも、宮崎・鹿児島あたりの「ふくれ菓子」と呼ばれる、黒糖を使った蒸しパンにそっくりな商品なのだとか。ロングセラーらしく、根強いファンの居る商品らしいです。

 それにしても、「フークレエ」って、洒落た名前です。フランス語っぽい気がします。ところが調べましたところ、これは山崎製パンの造語で、「ふくれる」をそれっぽく(それって何?)言ってみた、ということらしいのです。つまり、見た目は勿論、名前も結局は「ふくれ菓子」ということなのでした。

 一方、青森県のスーパーのパンコーナーでは、「がんづき」と名前が大書された、三角形の蒸しパンを見かけます。褐色なので、恐らく黒糖使用と思われ、しかも表面には黒ごまが散らしてあります。どう見ても「黒糖蒸しパン」ですね。私としては、昨日も書きましたが「黒糖蒸しパン」は好物というわけではないので、「何だろう?」と思いつつも、買ったことはないのでした。

 しかも「何だろう?」と思うのも、味に興味があるのでは無く、「がんづき」って何?どういう意味?という興味なのでした。申し訳ないのですが、「いやに田舎くさい響きだなあ、どういう漢字なのだろう?」そんな風に思っていたのでした。

 ところが、「黒糖蒸しパン」関連のお薦め動画で知ったのですが、事実は私の薄っぺらな感性を遙かに越えていたのでした。

 「がんづき」は岩手・宮城を中心に、東北地方ではメジャーな蒸しパンの一種なのだそうです。そしてその名前は、「丸いフカフカのパンの上に散る黒ごまが、まるで月の夜を飛ぶ雁のようだ」ということから、「雁月(がんづき)」と呼ばれるのだとか(諸説有り)。

 が~ん!田舎くさいとか思ってごめん。そんな風流なお菓子だったのね~。でも、見た目も素朴というか、ちょっと垢抜けない感じで、私が誤解するのもしょうが無いと思うのよね。同じように感じてた東北民は多いんじゃないかと思いますよー。決して、自分の無知をゴマかそうとしているのでは無くね。では。