おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「はまぐり」と「ぐりはま」

 10数年前に作った「はまぐり雛」です。ご覧下さい。

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↓ 拡大します。

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 本物のハマグリに端切れを糊でくっつけて作るので、材料さえ揃えれば、作るのは簡単です。金屏風に見立てたのは、お菓子の箱の再利用です。

 

 ハマグリの「貝」は、もともとの対でなければ、ぴったりと合うことはないのだそうで、そこから、夫婦和合の象徴ともされているのだそうです。

 

 話は変わりますが、「はまぐり」をひっくり返した「ぐりはま」、そして「ぐりはま」が変化した「ぐれはま」という言葉は聞いたことがありますか。「ぐりはま」「ぐれはま」の意味は、「はまぐり」ならぴったり合うところ、それがひっくり返っているのですから、「食い違っている」ということになるのだそうです。

 子どもが親の期待と「食い違って」、悪く育った状態を「ぐれた」、と言いますね。これは、「ぐれはま」から派生して出来た言葉なんだそうです。江戸時代には既に使われていたとか。

  そもそも「はまぐり」の語源は、浜にある「栗」に似たもの、というのが有力らしいのですが、「ぐれる」の語源が「はまぐり」に通じるなんて、ビックリじゃないですか?

 

 ひな祭りには、良縁を願って「はまぐりのお吸い物」が縁起物としてつきものですが、結婚しない生き方も増えている昨今です。

 いっそ、「ぐれないように」という願いを込めて、という方が、現代的でいいかもしれませんね。お節とは思いますが。では。 

珍しく、「自分チョコ」、買いました

今週のお題「わたしとバレンタインデー」

 

 チョコレートは好きですね~。普段からチョコチョコ食べてます。一時は「痩せるため」と自分に言い聞かせて、我慢していた事もありました。でも、去年からかな。「チョコレート解禁!」を自分に宣言したんです。

 人生の折り返し点を過ぎて、一番好きな甘いもの=チョコレート、食べたっていいじゃ無い!と開き直ったんです。もちろん、「痩せたい!」という目標は常に掲げつつ。なので、一度にたくさんは食べません。1枚の板チョコなら、4日ぐらいに分けて食べます。夕食後の甘いひととき、やめられませんね。

 

 本日、デパートに行きまして、折しも『バレンタイン・フェア』開催中。どちらかというと、そういう季節ごとの催事には踊らされないほうで、チョコレートもお手頃値段の通常商品を買うのですが・・・。

 試食の結果、珍しく買ってしまいました。自分用です。

↓ チョコレートです。羊羹ではありません。

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↓ カットすると、こんな感じ

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↓ 京都の「洋菓子フリアン株式会社」さんの出店でした。商品名は『利休』1,300円。

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 ホワイトチョコレートに抹茶という取り合わせの商品です。私は本当は、アンチ・ホワイトチョコ派でして、ハッキリ言えば「ホワイトチョコはチョコじゃないでしょ」ぐらいに思っているのですが、買ってしまいました。なぜか。

 だって、栗と小豆が入っているんですもの。狡くないですか?栗がごろっと入ったこのルックス。

 不思議なもので、女性が年をとるとほとんど例外なく好きになる食べ物が、さつま芋・カボチャ・豆・栗。私の周りは皆口を揃えて、

 「若い頃はそうでもなかったけど、今はこの四つは、だあ~い好き」とカミングアウトします。ホクホク感ですかね?確かにこの四つを食べているときのおばさんの顔はホクホクしていますが。

 もともと好きなチョコレートにですよ(ホワイトチョコというところがちょっと引っかかりますが、抹茶をプラスするためにはしょうがない)、栗と豆ですよ。買っちゃいますよね~。例えて言うなら、Queenとデヴィッド=ボウイのコラボみたいなものです。これはもう、買い、でしょ。

 

 冷凍庫には「利休」が一本。

 「太りそう」という「Under Pressure」があるのですが、これからしばらくの間、少しずつ食べることにします。少しずつ・・・。少しずつ・・・。

 

 

 ※ 今日もおまけクイズがありますよ。

 問題 太りすぎの人が、お医者さんから、「しばらくの間控えるように」と言われたものは何?

 

 ↓

 

 ↓

 

 答え 糖分(しばらくの間=とうぶん)

 

 

 

NHKBSの番組表は、意図的?

 昨夜の7時、8時台のNHKBSの番組の対比があまりに凄まじくて、書きたいことは全然まとまらないのですが、とりあえず、どんな番組だったかだけ、書いておくことにします。

 

 BSプレミアムでは、『イギリス 白馬の王子様に会いたい!』 

 世襲貴族およそ800人が存在するイギリス。英国王室の栄光を支えてきた、貴族の華麗なる世界を紹介。

 

 そして、BS1では、『ボルトとダシャ マンホールチルドレン20年の軌跡』

 1998年、社会主義が崩壊したモンゴルの首都、ウランバートル。そこには、「マンホールチルドレン」と呼ばれる、住む家を持たない子ども達があふれていた。真冬の最低気温が-40℃にもなるウランバートルで、彼らがマンホールに暮らすのは、暖かい配水管で暖をとるためであった。友情を支えに、厳しい生活を凌ぐ二人の少年、ボルトとダシャ。

 10年前の同番組では彼らの生活に密着し、なんとか最底辺の生活から這い上がろうとし、そして再び転落するところで終わった。

 今回はその続編となる。いつ野垂れ死んでもおかしくない環境下で、二人は生きていた。そして再び這い上がっていた。彼らはどのように這い上がったのか?彼らの友情は?運命の女性とのその後は?そしてそれぞれの母との再会は?

 

 途中で何度も視るのをやめたくなるのですが、結局最後まで視てしまいました。途中にニュースの時間が入ったので、BSプレミアムにチャンネルを変えてみました。ちょうど、父の急逝により公爵家を継いだ若き公爵が、その責任の重さについて語っている場面でした。彼は30代のボルトやダシャよりもいくつか若い、ハンサムな感じのいい青年でした。

 チャンネルをBS1に戻しながら、イギリスとモンゴルと、そして彼らをお茶の間で視ている日本と、ちょっと世界が隔絶しすぎていて、何をどう考えればいいのか、呆然とする感じでした。

 

 BS1のドキュメンタリー番組のプロデューサーは、ボルトとダシャについて、「その姿は私たちに勇気と希望を与えてくれる」と、NHKのオンラインのページで書いています。

 うーん、どうでしょうか、「勇気と希望」ですかね?前回の放送があまりにも希望の無い終わり方で、彼らのその後を気にしていた視聴者は多かったようです。そういう方々にとっては、とにかく彼らが生きていたこと。職を得たこと。家族を持てたこと。字を覚えようと頑張っていること。それらは嬉しい報告だったと思います。でも、彼らのこれからは決して平坦な道では無く、綱渡りのようなものだということは容易に想像が付きます。どうか、怪我せず、病気せず、なんとか綱から落ちないようにと、願わずにはいられません。

 

 それにしても、この、「イギリス貴族」と「モンゴルマンホールチルドレン」を、背中合わせに持ってきたNHKの凄さ!意図的なのか偶然なのか。少なくとも「効果」はあったと思います。ドキュメンタリー単体以上のインパクトは確かにありました。

 インパクトあり過ぎで、考えがまとまらないぐらいです。番組を視た感想ぐらいは書きたいとは思うのですが、ほんとに頭がぼーっとする感じで、言葉になりません。この辺で終わりにしておきます。

 残念ながら、今日はダジャレも浮かびません。では。

 

「グレープフルーツ離れ」離れ

 「若者の〇〇離れ」といった表現をネット上で度々目にします。ほとんどの「〇〇離れ」の原因は、お金が無い!ということ、つまり「お金の若者離れ」にあるらしいです。

 

 私が最近目にした「〇〇離れ」に、「グレープフルーツ離れ」というのがあります。これは若者に限ったことでは無く、全世帯で消費額が落ちていて、家計調査であきらかなのだそうです。

 グレープフルーツの消費が落ちた原因は様々考えられるそうですが、私が読んだ記事では、他の柑橘類が充実してきたこと、独特の苦みで好き嫌いが分かれること、そして、他の果物に比べて、特に薬との飲み合わせに注意が必要なこと、以上の三点が大きな原因では無いかと書かれていました。

 特に、最後の薬との関係は大きいでしょうね。うちでも、夫が高血圧の薬を飲んでいて、彼はグレープフルーツは御法度。たまに冷蔵庫にグレープフルーツ・ジュースが入っていたりすると、

 「お前、俺を殺す気か?」「ばれた?」という会話になったりします。子ども達はグレープフルーツ・ジュースは好まないので(苦い、と不評)、犯人は私で間違いありません。そう、私はグレープフルーツが大好きなんです。

 

 グレープフルーツは柑橘類なのに、なんで「グレープ」なのか、ご存知ですか。木になっているとき、まるでブドウのように房状に固まっているから、なんですって。想像つきます?あの大きな実が、十何個も房状になっている様子。一度見てみたいものだと思っています。

 息子が家にいた頃は、たまにグレープフルーツを買って食べたものですが(ジュースは嫌いでも果肉なら食べるので)、いくら好きでも一人だとなんだか手がでなくて。そう言えば最後に食べたのは何時だったろうと、「グレープフルーツ離れ」の記事を読んで思いだしたぐらいです。

 このまま「離れ」がすすんだら、簡単に手に入らない果物になってしまうかもしれない。あるいは、輸入量が減って、値上がりになってしまうかも。そうならないよう、頑張ってグレープフルーツを食べなければ!

 それに、今は幸い、薬とは縁の無い生活を送れているけれど、いつ何時、薬を手放せない生活になって、薬の種類によっては「グレープフルーツ」禁止となるかもしれない。悔いが残らないよう、積極的に食べたいと思います。タイトル通り、「グレープフルーツ離れ」離れ宣言です。

 

 ところで、皆さんはグレープフルーツはどのようにして召し上がりますか。横半分にカットして、スプーンで?お砂糖もかけたり?(この、お砂糖をかけるという昭和の食べ方も「離れ」の一因かも。平成ではお砂糖は悪役ですからね)

 私は普段は非常にものぐさなのですが、グレープフルーツとキウイフルーツを食べるときだけは別人になります。きちんとナイフで皮をむき、グレープフルーツは房から出して、キウイフルーツなら輪切りにして、どちらもフォークで頂きます。なぜか?その方が絶対に美味しいと確信しているからです。

 一応、やり方をご存じない方もいらっしゃるかも知れないので、私がグレープフルーツをむいている写真を載せたいと思います。

f:id:takakotakakosun:20190209173056j:plain イスラエルから来ました。

f:id:takakotakakosun:20190209173115j:plain りんごのようにくるくる剥きます

f:id:takakotakakosun:20190209173134j:plain 半分に割って、房を外していきます。その際、中心側(種のある方)から外すと、形が壊れること無く綺麗にできます。

 

 どうです?グレープフルーツが少々苦手でも、剥いてみたくなりませんか?そうなったら、私の作戦成功!きっと、苦みにも慣れると思いますよ。離れは慣れでくい止める!

 

 ※ダジャレがイマイチなので、クイズをおまけでつけましょう。

  問題  野菜と魚ばかり食べていた人がケガをしました?なんでしょう?

 

   ↓

   ↓

 

  答え  肉離れ


 

ミラクル!ジェーン=フォンダ

chokoreitodaisuki.hatenablog.com

 こちらに書いた通り、今年になってNetflixの視聴を始めました。Netflixのオリジナル・ドラマ、『グレイス&フランキー』が面白くて、毎日楽しみに視ています。

 主演女優は、懐かしの、ジェーン=フォンダ。

 彼女の役は、40年連れ添った夫と、夫の不倫が原因で離婚し、同じ境遇に陥った古くからの知人と同居して、彼女との友情を心の支えに、新たな生活を前向きに築いていく70歳のバツイチイ女性。

 なぜ、都合良く「古くからの知人」が同じ境遇に陥ったか。それは、なんと、夫同士が不倫関係にあり、二人の夫はそれぞれの妻と別れて、残った人生を正式なパートナーとして暮らすことを決めたから。つまり、元夫同士が再婚し、妻同士は諸事情から一緒に暮らすという奇想天外なコメディなのです。毎回毎回(一話30分)、それぞれの子ども達や新しい恋人が絡んだり、生きがいを求めての挑戦などが加わったり、賑やかにテンポ良くストーリーが進んでいくわけです。みていて、元気が出るような、クセになるドラマです。

 そして、この70歳のグレイスとフランキーという二人の女性が、どちらもとっても魅力的なんです。でも、あれっ、グレイス役のジェーン=フォンダっていくつ?私よりずっとずっと年上のはずだけど。そう思って、ググりましたら、なんと、80歳!えーっ、思わず声が出ました。どうみても、60代、お化けです。

 ジェーン=フォンダって、モデル、女優、反戦活動家など、いろいろな顔を持っているけど、「エクササイズ」の草分け的存在でもありますよね。

 エクササイズ、凄いわ!

 お顔に関しては、いろいろ21世紀的な技術もお使いなんでしょうけれど、とにかく、姿勢が良くて、ハイヒールできびきび動いて、スタント無しで恋人に飛びついたり、彼女の実年齢を知ってて映像を視ると、「奇跡」をみているような気分になります。

 是非、皆さんも『ジェーン=フォンダ』、あるいは『グレイス&フランキー』をググってみて下さい。驚きますよ、絶対。

 

 贅肉の無いジェーン=フォンダの肉体は、エクササイズという長年の努力のたまものだろうと思うのですが、一カ所だけ、ドラマの中で彼女もため息をついて嘆くパーツがあります。それは、二の腕。細い腕であるにもかかわらず、いわゆる「振り袖」状態。ダルダルしてました。二の腕を引き締めるというのは、全くもって容易ならざることのようです。

 無い袖は振れぬと言いますが、おばちゃんの二の腕は、振りたくなくても振れてしまうのです。ないそですが(内緒ですが)・・・。

 

東京旅行 ~往復の新幹線にて~

 1月の末に東京に行ってきまして、上野など観光したことは、3回に分けてブログに書きました。

 東京へは新幹線で往復したのですが、車中で手に取った「読み物」に、往きも帰りも印象深い一節があったので、紹介したいと思います。

 

 往きの新幹線で手にしたのはJR東日本の車内サービス誌「トランヴェール」。連載されている沢木耕太郎氏の旅のエッセイに、興味深い記述がありました。松尾芭蕉の俳句の背景についてです。

 

 塚も動け我が泣く声は秋の風  芭蕉

  塚(墓石)も揺るがすほどに、私は号泣する。秋風の中。(私の意訳です)

 

 この句は、芭蕉の中では珍しく激しい感情をストレートに詠んだ句と言われています。よほど親しい、身近な人を失って詠んだ句だろうと思っていました。

 亡くなった方は金沢在住の小杉一笑という弟子です。芭蕉は「奥の細道」の旅で、この弟子に会うことをとても楽しみにしていました。ところが、芭蕉が金沢に到着したとき、一笑は36歳という若さで既に亡くなっていました。芭蕉と弟子・一笑は、実は一度も会うこと無く、別れの時を迎えたのです。

 二人の交際は書簡のやり取りのみだったわけです。ですが、江戸時代という交通・通信手段が現代に比べて格段に不便だった時代だからこそ、時折もたらされる師匠からの、弟子からの手紙は、どれ程大きな喜びだったことでしょう。繰り返し繰り返し読んだでしょうね。

 師匠と弟子という立場の違いはあれ、俳諧という道を志す同志として、深い絆と敬愛が二人の間にはあったことでしょう。初めて会える日を、どれ程楽しみにしていたことか。一笑が亡くなったことを知らされたときの芭蕉の心中は、察するに余りあります。

 塚も動け、の句は、芭蕉を迎えて行われた、一笑の追善供養で詠まれた句なのだそうです。

 

 帰りの車中では、持参した武田百合子旅行記、『犬が星見た』を読もうと思ったのですが、ほとんどの時間を眠ってしまい、少ししか読めませんでした。その少しの中に、「旅の興奮」というものを見事に表現している箇所があって、我が意を得たり、と気に入りました。

 

 ーーーくたびれきっているのに、まだ騒ぎたりないようなーーー変な夜。 

 そうそう、一日見知らぬ街を歩き回って、ホテルのベッドに倒れ込むように横になって、でもなんだかまだ遊びたいような、そんな旅の夜。

 でも、旅行って、2泊がいいところですよね。3泊になると、ちょっと長いというか、家に帰りたいなあっていう気持ちが、ちょって出て来ません?これも年のせいですかね。

 

 それにしても、乗り物って、なんであんなに眠くなるんでしょう。せっかく本を持って行っても、無駄になることが多いのです。睡魔に負けて、すいません、ってところです。では。

 

 ↓ 東京は冬枯れの並木も美しかったです(汐留から築地へ向かう途中)

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子どもを叩かないで!

 虐待によって死亡した子どもの痛ましいニュースがありました。関連するネットニュースのコメントなどで「しつけと虐待は違う」とか、「しつけなのか暴力なのか、見極める必要がある」などといったコメントが、かなりの数、見受けられます。

 私はこの、「しつけであれば、少しぐらい手を出しても(暴力を振るっても)かまわない」という考えに、断固反対します。絶対、間違っています。 

 

 私には息子が二人おります。二人とも「育てやすい」タイプだったと思います。聞き分けのいい子達で、「言えば分かる」あるいは一喝すれば「シュンとなる」ので、手を上げた事はありません。夫も一度も無いと思います。

 大人になった息子その1に言われたことがあるのですが、

 「俺たちも聞き分けのいい子どもだったのは間違いないけど、お母さんの声質もあったと思うんだよね。子どもって、低い声でものを言った方が、ちゃんと聞くんだって。お母さんって、声、低いじゃん。で、ゆっくりしゃべるじゃん」

 息子の、おそらくはネットで得た知識がどこまで本当かは分かりません。私がここに息子の言葉を載せた意図は、子どもを叩いたことが無いというのが、私の一方的な思い出補正では無いということを証するためです。

 でも、本当はあるんです。一度だけですが、息子その1のほっぺたを、思いっきり引っぱたきました。ハッキリと覚えています。

 息子その1が何をやったか。食べ物をこぼしたんです。それだけ。「あっ」と気まずそうに私を見た息子と目が合った瞬間、私の右手が出ました。かなりの勢いで。頬を押さえて、懸命に涙をこらえる息子の顔を見ながら、圧倒的な怒りと興奮の中にいた自分を覚えています。

 私はこの時の経験から、人が子どもを叩くのは、突発的な怒りの感情によるものだと自信を持って言えます。理性的な判断に基づく教育的な配慮など、入り込む余地の無い瞬間的な、怒りに任せての行為です。

 でも、相手が子どもでなかったらどうでしょうか。自分よりも強い相手に対しも、人は怒りに駆られれば手をだすでしょうか。そうではないでしょう?どんなにカッとなっていても、人は相手と自分の力関係をみます。力士やヤクザに殴りかかる人はいないでしょう?相手が子どもだから、自分より弱い相手だから安心して手をあげるのでしょう?卑怯じゃ無いですか。

 もう一つ。相手がおびえた目で自分を見、許しを請うている、この構図がもたらす快感と来たら。

 子育て中にはしばしば経験することだと思うのですが、小さな子どもが親に許されようと、あるいは気に入られようと、一生懸命に自分に謝る。泣きながら「もうしません」と何回も何回も謝る。その時、親の側にはいろいろな感情が渦巻いている。まだ治まりきらない怒り、子に対する愛情、自分への嫌悪、後悔・・・。そして、書いていて自分でも嫌になるのですが、一人の人間の生殺与奪の権を握った全能感。この、他人の上に君臨する喜びというのは、クセになる美味しさですね。大げさだとお思いですか?

世間ではおとなしいと言われている女性が、自分の子どもに対してだけは暴君のように振る舞うのを見たことはありませんか。あのおとなしい人の口からこんな汚い言葉が出るのかと、驚かされた経験が私はあります。また、「夫」の中には「妻」に対して手を上げる人もいますが、やはり同様の心理が働くのだと思います。

 子どもへの暴力によって、それがしつけと称するものであれ、自分が心理的快感を得ていないか、じっくりと自分自身を点検して頂きたいと思います。

  確かに、世の中には「育てにくい」タイプのお子さんもいるだろう事は、想像がつきます。そういうお子さんに日々接していると、「言葉」のまどろっこしさよりも、即効性のある「暴力」に頼りたくなることもあるでしょう。そして、それを「しつけ」と称するのでしょう。でも、それは間違っています。「しつけ」は暴力で身につくものではないからです。「しつけ」は一生という長い時間を通して、常にその人間と共にあり、また、その人間が自分自身を育てるための力ともなるものです。そういう長い時間を通して変わらずに、その人間の「しん」となるようなものは、やはり、長い時間をかけて、培われるものだからです。幼少期の一定の期間、親はもちろん、周りの大人から「こうするんだよ」「そういうことはしちゃいけないよ」。そういったことを繰り返し教えられ、知らず知らず身につけ、一生を通じて変わらぬ美徳となる。それがしつけです。暴力によって無理矢理「従わされた」ことをしつけと呼ぶことは出来ないのです。子どもに残されるのは「しつけ」では無く「心の傷」です。

 

 残念ながら、私がいくら「子どもへの一切の暴力に反対」と表明し、その理由を書き連ねても、「しつけのためなら容認」派の意見を変えることは出来ないでしょう。

 そこで、別な方向から意見を述べたいと思います。

 「子どもへのある程度の暴力は仕方がない」と考えている人たちにとっては、

 ・言葉で言ってもわからない場合

 ・危険をわからせる、あるいは危険から遠ざけるため

 ・何度言っても、改まらない場合

 以上の三点が「暴力を使用しても」構わないとされる場面のようです。では、その相手が自分の幼い「子ども」では無く、老いて「呆けた親」だった場合はどうでしょう。あなたは、親を殴りますか?

 言葉が理解できない。危ないことをする。同じ事を繰り返す。そんな風になってしまった親を、しつけと称して叩きますか?親は病気だから仕方ない?では、幼く、知性も理性も未熟な子どもは仕方なくないの?

 あなたが、自分の親を殴らないとしたら、それはあなたの主義ですのでどうぞご自由に。でも、少なくとも、「なんで分からないんだ!」と言って子どもを殴っているお父さん、お母さん、それって、自分の子どもに対して、「私たちが呆けたら、殴ってわからせていいよ」っていう宣言ですよ。自覚あります?覚悟はしておいた方がいいですよ。

 私も、1回は、息子その1に叩かれる覚悟はしておきたいと思います。でも、息子よ。出来れば、叩く前に、低い声でゆっくり静かにお母さんに話しかけてみて。その頃の私は、もうその話を理解できないかも知れないけれど、話しているうちにあなたの怒りが静まって、叩かれずに済むかもしれないからね。

 これ以上書くと、「しつけー」と息子に言われそうなので、この辺にしたいと思います。でも、子どもを叩かないで!