おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

子どもを叩かないで!

 虐待によって死亡した子どもの痛ましいニュースがありました。関連するネットニュースのコメントなどで「しつけと虐待は違う」とか、「しつけなのか暴力なのか、見極める必要がある」などといったコメントが、かなりの数、見受けられます。

 私はこの、「しつけであれば、少しぐらい手を出しても(暴力を振るっても)かまわない」という考えに、断固反対します。絶対、間違っています。 

 

 私には息子が二人おります。二人とも「育てやすい」タイプだったと思います。聞き分けのいい子達で、「言えば分かる」あるいは一喝すれば「シュンとなる」ので、手を上げた事はありません。夫も一度も無いと思います。

 大人になった息子その1に言われたことがあるのですが、

 「俺たちも聞き分けのいい子どもだったのは間違いないけど、お母さんの声質もあったと思うんだよね。子どもって、低い声でものを言った方が、ちゃんと聞くんだって。お母さんって、声、低いじゃん。で、ゆっくりしゃべるじゃん」

 息子の、おそらくはネットで得た知識がどこまで本当かは分かりません。私がここに息子の言葉を載せた意図は、子どもを叩いたことが無いというのが、私の一方的な思い出補正では無いということを証するためです。

 でも、本当はあるんです。一度だけですが、息子その1のほっぺたを、思いっきり引っぱたきました。ハッキリと覚えています。

 息子その1が何をやったか。食べ物をこぼしたんです。それだけ。「あっ」と気まずそうに私を見た息子と目が合った瞬間、私の右手が出ました。かなりの勢いで。頬を押さえて、懸命に涙をこらえる息子の顔を見ながら、圧倒的な怒りと興奮の中にいた自分を覚えています。

 私はこの時の経験から、人が子どもを叩くのは、突発的な怒りの感情によるものだと自信を持って言えます。理性的な判断に基づく教育的な配慮など、入り込む余地の無い瞬間的な、怒りに任せての行為です。

 でも、相手が子どもでなかったらどうでしょうか。自分よりも強い相手に対しも、人は怒りに駆られれば手をだすでしょうか。そうではないでしょう?どんなにカッとなっていても、人は相手と自分の力関係をみます。力士やヤクザに殴りかかる人はいないでしょう?相手が子どもだから、自分より弱い相手だから安心して手をあげるのでしょう?卑怯じゃ無いですか。

 もう一つ。相手がおびえた目で自分を見、許しを請うている、この構図がもたらす快感と来たら。

 子育て中にはしばしば経験することだと思うのですが、小さな子どもが親に許されようと、あるいは気に入られようと、一生懸命に自分に謝る。泣きながら「もうしません」と何回も何回も謝る。その時、親の側にはいろいろな感情が渦巻いている。まだ治まりきらない怒り、子に対する愛情、自分への嫌悪、後悔・・・。そして、書いていて自分でも嫌になるのですが、一人の人間の生殺与奪の権を握った全能感。この、他人の上に君臨する喜びというのは、クセになる美味しさですね。大げさだとお思いですか?

世間ではおとなしいと言われている女性が、自分の子どもに対してだけは暴君のように振る舞うのを見たことはありませんか。あのおとなしい人の口からこんな汚い言葉が出るのかと、驚かされた経験が私はあります。また、「夫」の中には「妻」に対して手を上げる人もいますが、やはり同様の心理が働くのだと思います。

 子どもへの暴力によって、それがしつけと称するものであれ、自分が心理的快感を得ていないか、じっくりと自分自身を点検して頂きたいと思います。

  確かに、世の中には「育てにくい」タイプのお子さんもいるだろう事は、想像がつきます。そういうお子さんに日々接していると、「言葉」のまどろっこしさよりも、即効性のある「暴力」に頼りたくなることもあるでしょう。そして、それを「しつけ」と称するのでしょう。でも、それは間違っています。「しつけ」は暴力で身につくものではないからです。「しつけ」は一生という長い時間を通して、常にその人間と共にあり、また、その人間が自分自身を育てるための力ともなるものです。そういう長い時間を通して変わらずに、その人間の「しん」となるようなものは、やはり、長い時間をかけて、培われるものだからです。幼少期の一定の期間、親はもちろん、周りの大人から「こうするんだよ」「そういうことはしちゃいけないよ」。そういったことを繰り返し教えられ、知らず知らず身につけ、一生を通じて変わらぬ美徳となる。それがしつけです。暴力によって無理矢理「従わされた」ことをしつけと呼ぶことは出来ないのです。子どもに残されるのは「しつけ」では無く「心の傷」です。

 

 残念ながら、私がいくら「子どもへの一切の暴力に反対」と表明し、その理由を書き連ねても、「しつけのためなら容認」派の意見を変えることは出来ないでしょう。

 そこで、別な方向から意見を述べたいと思います。

 「子どもへのある程度の暴力は仕方がない」と考えている人たちにとっては、

 ・言葉で言ってもわからない場合

 ・危険をわからせる、あるいは危険から遠ざけるため

 ・何度言っても、改まらない場合

 以上の三点が「暴力を使用しても」構わないとされる場面のようです。では、その相手が自分の幼い「子ども」では無く、老いて「呆けた親」だった場合はどうでしょう。あなたは、親を殴りますか?

 言葉が理解できない。危ないことをする。同じ事を繰り返す。そんな風になってしまった親を、しつけと称して叩きますか?親は病気だから仕方ない?では、幼く、知性も理性も未熟な子どもは仕方なくないの?

 あなたが、自分の親を殴らないとしたら、それはあなたの主義ですのでどうぞご自由に。でも、少なくとも、「なんで分からないんだ!」と言って子どもを殴っているお父さん、お母さん、それって、自分の子どもに対して、「私たちが呆けたら、殴ってわからせていいよ」っていう宣言ですよ。自覚あります?覚悟はしておいた方がいいですよ。

 私も、1回は、息子その1に叩かれる覚悟はしておきたいと思います。でも、息子よ。出来れば、叩く前に、低い声でゆっくり静かにお母さんに話しかけてみて。その頃の私は、もうその話を理解できないかも知れないけれど、話しているうちにあなたの怒りが静まって、叩かれずに済むかもしれないからね。

 これ以上書くと、「しつけー」と息子に言われそうなので、この辺にしたいと思います。でも、子どもを叩かないで!