おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

旅は道連れ世はスマホ

 旅をすると見聞が広がりますね。

 というのもね、私はもともと調べ物をするのは好きなのですが、調べる対象は無から湧いて出て来るわけではないからです。何かに興味を持つきっかけがあって、それで「調べよう」となるのです。

 そういう意味で、旅はきっかけの宝庫であり、そして、スマホという魔法のような道具がいとも簡単に新しい世界(見聞)へと連れて行ってくれるのです。本当に便利な世の中になったものです。

 

 三月の旅行で熱海にも行ったのですが、その道中、どこだったかは覚えていないのですが、『豆相人車(ずそうじんしゃ)鉄道』というものが過去に存在した事を知ったのでした。

 さあ皆さん、想像してみて下さい。

 「豆は伊豆のず、相は相模のそう?鉄道はわかるけど、人車って何?」

こんな感じじゃ無いですか?

 私は全くこの通り。すぐにスマホで調べましたとも。そして驚愕の事実と写真に出会ったのでした。Wikipedia様々です。

 

熱海は古くからの温泉の町熱海温泉)として知られていたが、この辺りは地形が険しく、東海道本線も当初は熱海を通らず現在の御殿場線のルートを取るなど、交通の不便な場所でもあった。そのため、この地に鉄道を敷設する運動が地元の旅館主などから[2]起こるようになった。

 (中略)

しかし資金が集まらなかったため、事業家雨宮敬次郎の発案により人力で車両を押す人車軌道に規格を変更し、雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立。1895年明治28年)7月にまず熱海 - 吉浜間で開業し、翌1896年(明治29年)3月に小田原まで開通させた[3]6人ほどが乗れる客車1両を車夫2 - 3人で押した、1便当たり6両で1日6往復した[3][2]。片道4時間程度かかったが、駕籠の約6時間より早くなった[3]

 高い運賃(全線の運賃は工夫の賃金1日分だったといわれる)を取ったこともあって営業面では成功したが、原始的であり押し手の賃金も高額となることから、社名を熱海鉄道と改めて1907年蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えた

Wikipediaより

 人が客車を押すなんて!

 もし私がこの時代の観光客だとしたら・・・。何だか申し訳ないというか、いたたまれないというか、のんきに旅を楽しんで居られない気がするのです。それはきっと、私が庶民だからなのでしょう、そう思いました。

 明治時代にはまだハッキリと身分というものがあって、客車を押す身分、熱海に避寒に出かける身分、そういう分け隔ての上に成立する乗り物だと、そんな風に思いました。

 江戸時代には(この頃にも)、駕籠という乗り物がありましたが、駕籠を担ぐ人は、生涯駕籠に乗ることはなかったでしょう。「駕籠に乗る人担ぐ人、そのまたワラジを作る人」という言葉を思い出しましたよ。

 生粋の庶民の私でも新幹線に乗って旅が出来るなんて、幸せな時代に生まれたなあと、つくづくと思ったのでした。上の写真に震撼した後だけに。では。