先日友人と話していて、
「私、熊恐怖症なんだよね。だから、山に行きたい気持ちはあっても、熊が恐くて一人では絶対に行けないの」
と言いました。
友人は笑いながら言いました。
「誰だって熊は恐いでしょ」
違うんだなあ、「熊が恐い」と「熊恐怖症」はレベルが違うんだなあ。例えば、
山道を歩いていて、「今、熊が出たらどうしよう」としょっちゅう考えてしまう。
普段の生活の中でも、「熊に襲われて死ぬのは避けたい」という考えが頭をもたげることがある。
自分が熊に食べられている様を想像してしまう。
こういう状態が「熊恐怖症」だと思うのですが、皆さんはそんな事を考えることがありますか?ないでしょう?そういう方はただの「熊が恐い人」だと思います。
私が「熊恐怖症」であるのは、私が言語の影響を受けやすい人間であるからだと思います。印象的な言葉で入ってきた情報に、強くとらわれてしまうのです。「熊」については、二つの印象的な言語表現との出会いがあるのですが、それらを具体例として紹介し、「熊恐怖症」と「言葉にとらわれる」の説明としたいと思います。
① 三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)
こちらのWikipediaの記事は、「リアルな描写が凄い」という書き込みをみて、軽い気持ちで読んでみたんですよ。確かに淡々と事実を描く筆はさえていて、「恐~い」と思いながら最後まで読んでしまいました。
怖がりの方は、夜眠られなくなって目の下にクマなど出来ても大変なので、読まない方がいいかもしれません。
私はこの記事だけでも恐かったのに、よせばいいのに。ダメ押しの文章まで読んでしまったのでした。多分、「三毛別羆事件」の検索候補を適当に読んだと思うのです。
それは、熊に襲われて重体だった六歳の子供が、すでに母親が殺されたことも知らず、苦しい息の中で言ったという言葉なのですが、頭を離れないのです。
「おっかあ、熊とってけろ(熊を引き離してくれ)」
② やっぱりネットでたまたま目にした、熊にまつわる表現
熊はトドメをささない。
三毛別羆事件の被害者もそうなのですが、被害者は生きたまま・・・。
「熊はトドメをささない」、ほら、恐いでしょう。忘れられなくなるでしょう。
私の「熊恐怖症」にトドメを刺した一文でした。
では。