田んぼの「稗取り」について書くために、ネットや電子辞書を駆使して調べものをしたわけです。私が知りたかったのは雑草の稗についてだったのですが、調べ初めにぶつかるのは、栽培種としての稗ばかりでした。
私がネットで何かを調べるときはWikipediaをあたることが多いのですが、皆さんはWikipediaを泣きながら、あるいは嗚咽をこらえながら読んだ事がありますか?私はありません(笑、ごめん)。でも今回、寸前まで行きました。もうちょっとで泣くところでした(ちょっと盛ってます ごめん)。
青森県の下北半島で生まれ育った私を泣かせかけた、Wikipediaの記述がこちらです。
(ヒエは)畑でも水田でも栽培が可能である。
日本では縄文時代の前期から冷涼な北海道と東北地方で栽培された。近現代でも明治時代までは東北地方の山間部や(中略)全国的に主食用として栽培されていた。青森県の弘前周辺のような穀倉地帯では、普段より白米が食されていたが、より冷涼な下北半島では水田でイネだけではなくヒエも栽培されており、1890年(明治23年)の統計では、その比率は稲田:2に対し稗田:8の割合であった
これを読んだ私が泣きたくなったのは、先に電子辞書の角川俳句歳時記で稗について、
調理が面倒な上に味も悪いが長く貯蔵に耐えるので救荒作物として重宝であった
という一文を目にしており、加えて、解説文の中の『和漢三才図会』には、次のようにあったからです。ちなみに、『和漢三才図会』とは江戸時代の百科事典のようなものです。
概略はこんな感じです ↓
稗は悪田で栽培し、粥や団子にする。賤農の糧である。地味のいい田んぼであっても、洪水などで流失したときはやむを得ず稗をまく。
そして、トドメのように『滑稽雑談』というものの言及が紹介され、
穀の下品(げぽん)なり
下品とは下級と言うことですね。そもそもノギヘンに卑しいと書いて稗ですからね・・・。
昔の人は苦労したんだなあ、そんなことをしみじみと思っていたところに、Wikipediaで知るご先祖様の主食は稗だったという事実。涙ぐみたくもなろうというものです。
また、人間って面白いもので、皆と同じ苦労なら耐えられるんですよね。耐えがたいのは「何で私ばっかり」という不公平感や、「ついてない」という不運感というか納得できなさだと思うんです。
青森県は昔っから皆貧しかったんだ、それなら諦めもつくと言うものですが、
「弘前周辺のような穀倉地帯では、普段より白米が食されていた」、ここがどうにもやり切れない、悔しいったらありゃしない。
ええい、弘前周辺先住民、太るがいい!メタボにな~れ!そんな呪いをかけたくなるのも無理の無い事でしょう?
でも、人を呪わば穴二つ、とか。第一、人を呪うなんて人間性が下品ですよね。少し頭を冷やしたいと思います。そんな時は、やっぱり冷えピタでしょうかね。では。