おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

馬鈴薯澱粉(ばれいしょでんぷん)の思い出

 昨日「カタクリ」について書きました。「カタクリ」と聞けば「片栗粉」を思うのは自然な流れだと思うのですが、「カタクリ」の地下茎からとれる本物の「片栗粉」は、希少な高級品なのです。

 私たちが日常的にスーパーで買って使っている「片栗粉」は、馬鈴薯ばれいしょ)すなわちジャガイモのデンプンの事なのです。

 

 私の故郷はおおまかに言えば漁村ということになると思うのですが、家々の多くが少しばかりの畑を耕して、自家消費用の作物を育てていました。中でも、ジャガイモは様々な料理に活躍する上に、時には茹でたジャガイモが昼食代わりになったりもするので、どこの家でもかなりの面積でジャガイモを植えていたと記憶しています。

 「茹でジャガイモが昼食?」と、驚かれた方もいらっしゃるかもしれません。

 私の母は昭和5年の生まれです。終戦が20年ですから、最も多感で食欲旺盛な時期を「ものの無い時代」に過ごしたわけです。半農半漁とも言うべき田舎暮らしだった母達は、贅沢さえ言わなければ、取りあえず三度の食事にはありつけたらしいです。昼食はお米の代わりに芋とかで。

 戦時中は仕方なく食べていたジャガイモだったのでしょうが、昭和40年代の、私が子供の頃になりますと、大人達の中に懐かしさもあったのか、あるいは昼食の支度が面倒だったのか、女子供だけの昼食には時々茹でたジャガイモが登場しました。ウチとウチの親戚に限った話かもしれませんが。

 私たちがジャガイモにマーガリンをつけて「美味しい美味しい」と食べていると(昔も今も子供はポテト大好きですね)、母が言ったものです。

 「昔は茹でた芋には塩しか付ける物が無くて。空襲警報の中で、ろくに手入れも出来ない畑だから、なるものも皆小さく、芋も割らなくてもいいぐらい小さくて。それでもご馳走だったんだよ」

 

 ある日。小学校の同級生の家に遊びに行きました。日中はおじいさんとおばあさんが孫の面倒をみているお家でした。孫娘の友達に気を遣ってくれたのでしょう。おばあさんが「おやつだから」と、居間に来るように呼んでくれました。

 居間のちゃぶ台に、私と友人と友人の妹の三人で並んで座っていると、それぞれの前にお椀が置かれました。中には真っ白い粉が入っています。「何だろう?」と思っていると、おばあさんがヤカンからお湯を注いでくれました。すると、その白い粉はムクムクと膨れ、友人姉妹は当たり前の顔をしてスプーンでかき混ぜています。そして、それに白砂糖を加えると、パクパクと食べ始めました。私も期待にワクワクしながら彼女たちのまねをして、その白くプルプルしたものを口に運びました。

 

  うーん、ちょっと厳しいものがありました。半分ほどは頑張った記憶があるのですが、申し訳ないと思いつつ残してしまいました。家に帰って、母にその不思議な食べ物と、残してしまったことを報告しました。母は笑いながら言いました。

 「懐かしいねえ。それはジャガイモのデンプンだ。昔はこの辺では「芋のはな」って言って、立派なおやつだった。でも、ウチでは今まで一度も食べたことが無いんだから、食べられなかったのもしょうがない。お母さんも大っ嫌いだった」そう言ってニヤニヤ笑った母でした。

 

 「芋のはな」が馬鈴薯澱粉をさすのか、それとも澱粉にお湯をさした例のおやつをそう呼ぶのか。はっきりしたことは分かりません。 ただ、いつも子供達には、「何でも文句を言わずに食べるよう」言っていた母が、「大っ嫌いだった」といたずらっぽく笑った「芋のはな」。なんだか忘れがたく、思い出す度に、私の胸にポッと思い出の小さな花が咲くような思いがするのです。

 

 とりとめの無い内容を長々と書いてしまいました。昭和という時代の日本の、辺鄙な田舎の一コマです。読者の皆さんには、私の個人的な、どうということもない澱粉についての母からの伝聞にお付き合い下さり、有り難うございました。では。