おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

「大きな木」の少数派の感想

今週のお題「読書の秋」

※閲覧注意 この絵本が「大好きです」という方は、お気を悪くされると思います。

おおきな木

 

 私は普段、絵本は読まないです。ところが、購読しているブログでこの本が取り上げられていて、「へー」と思っていたら、同僚から勧められ、「偶然」に背中を押されて、読んでみました。

 以下、ネタバレ及び、ネガティヴな感想です。「私の大好きな絵本を汚さないで」と思う方は読まないでね。

 また、感想はネガティヴですが、それはこの絵本の「評価」ではありません。いろいろな解釈が可能であるという点、また、「絵」も凄く良くて、いい絵本だなと思いました。

 

 一読、成る程ね、苦いねえ、と思いました。当然、多くの読者がそう感じただろうと思って、ネットで感想を拾ったら。出るわ出るわ、「感動しました」「無償の愛の素晴らしさ」「この木の様に生きたい」「改めて母の愛に感謝」等々。大きな木に対する私のような否定的見解はごくごく少数のようでした。

 

 内容は、表紙に描かれている男の子と、大きなリンゴの木の交流を描いています。リンゴの木は男の子に求められるままに「自分自身」を与えます。男の子は欲しい物があるときだけ、リンゴの木に会いに来ては、必要なものを貰って行きます。ラストは、すっかり年をとった「男の子」が、「リンゴの木の切り株」に途方に暮れたように腰掛けている絵です・・・。

 

 これ、絶対、子供を無制限に甘やかす愚かな母親と、完全にスポイルされた子供の寓話だなと思いませんか。私は、読み終わった途端、「母親の死後も年金を受給」とか、「どうしていいかわからなかったと、母親の遺体を放置」といった、新聞の見出しを思い浮かべましたよ。

 ところが、上に書いたように、大多数の読者は感動的な無償の愛の物語としてお読みになっているようで、驚きました。

 

 もちろん、本はどう読もうとも、その人の自由。いろいろな感想があって当然です。ただ、今回私が引っかかりを感じたのは、私のような読者があまりにも少数派だという点です。そこをちょっと考えてみたいと思いました。

 まず思ったのは、皆さん、「本」とか「作者」というものに対して、信頼を置きすぎなのではないかということです。本は人生を豊かにするとか、ためになる、役に立つ、そんな風に読書を捉えすぎなのではないかと思いました。そんな事ないです。ただの娯楽ですって。もちろん、素晴らしい内容の本も沢山あります。でも、作者だって人間です、偏っていたり、浅薄だったり、間違っていたり、批判的だったり。世の中をシニカルな目線で描いたりもします。どう読むかは「読み手」にかかっているんです。

 よく、「作者が何を言いたいのか分からない」という人がいます。これは国語教育のせいだと思うんです。作者の言いたいことを理解する必要なんてないんです。「私がどう読むか」「私は何を受け取ったか」それでいいんです。この絵本を「大きな愛」の物語と肯定的に受け止めた人の多くは、「物語の作者というものは、何か良きもの、美しいもの、大事なものについて教えてくれる」と思い込んでいるのでは、と思った次第です。それとも私がひねくれているだけなの?

 次に思ったのは、本を読む視点というか、立ち位置です。感想を書いている人の多くは、この絵本を母と子の物語と捉えているようでした。そして、「多くを与えられた子」の視点から「母」に感謝し、その経験を踏まえて「そのような母」に自分もなりたいと結ぶ人が多いです。きっとそういう方々は、自分の親が大好きで、実生活でも親に感謝している人達だろうと推測します。この記事の最初に、閲覧注意としたのはそのためです。自分の好きな作品にネガティヴな解釈がつくのも不愉快でしょうが、それ以上に、大好きな親を冒涜されたように感じて、気分を害されるのではないかと思ったので。

 では、この大きな木を「愚かな母親」と断ずる私自身の立ち位置はどこにあるのか。

 例えて言うなら、「教育評論家にでもなったような」でしょうか。嫌なやつでしょう?偉そうで。こういうものの見方は自分の欠点だ、という大きな気づきはあるんです。でも、持って生まれた性分なんでしょうね、直らないものです。

 

 最後に、私が購読しているブログ主さんの感想を簡単に紹介したいと思います。

 「私は、この男の子のように、際限なく他人に要求する人間になることが恐ろしい」

この、男の子を客観的にみる視点からの感想も本当に少数派で、面白いな、と思いました。