おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

清原元輔(きよはらのもとすけ)、冠を落とす

 昨日の続きです。

 清少納言のお父さんである清原元輔について、『今昔物語』に面白い逸話がありました。ちょっと長いので、私がダイジェスト版でお送りします。

 ※ 赤字は原文どおりです

 

 賀茂祭という大賑わいの中、行進していた清原元輔の乗った馬が躓いて、元輔は真っ逆さまに落馬した。その上あろうことか、冠を落としてしまい、公衆の面前に素頭をさらしてしまった。しかも、その頭は禿げ上がっていて髻が無い・・・。従者があわてて冠を渡そうとするのだけれど、元輔はそれを制して(素頭のまま)殿上人の車に歩み寄った。

 夕日の差したるに頭はきらきらとあり いみじく見苦しきことかぎりなし

 一条大路に集まった大勢の者達は、皆大笑いして騒ぎ立てた。

 ところが、当の元輔はゆうゆうとしたもので、殿上人に向かって、馬が躓いた理由、冠が落ちた必然性(髻が無いのだから)を説明し、さらに、落馬や冠を落とした人が過去にもあったという例をいちいち挙げた。しかも、それを、居並ぶ車ごとに言い聞かせてまわったのだ。

 やがて、一通り回り終わった元輔は声高に叫んだ。

 「冠を持って来るのじゃ~」

見物人は笑いに笑った。

 「なぜすぐに冠をおかぶりにならなかったのですか」

そう尋ねた従者に元輔は答えた。

 「こうしておけば、後々までは笑われない(今だけで済む)。こうでもしなければ、おしゃべりな人々はいつまでもこの話で笑うだろう」

 以上のように、元輔という人は世慣れた人物で、人を笑わせるのを役目のようにする老人だった、ということである。

 

 赤字の部分は原文のままなのですが、ツルツル頭が笑い(からかい)のネタになるというのは、古今東西を問わないようですね。つい最近もアカデミー賞の授賞式という全世界注目の晴れやかな場で、その事を巡る騒動がありました。暴力については議論の余地も無く許されないことでしょう。

 で、暴力の事はここでは置くとして、私が注目したのは「エスプリ」と「ユーモア」という、ちょっと言い古された感のある言葉についてです。厳密な相違点は分かりませんが、一般的には、自分を笑いのネタにするのが「ユーモア」、他人を笑いにするのが「エスプリ」、こんな感じで受け止められているかと思います。

 これでいくと、同じツルツル頭ネタでも、清原元輔はユーモア、アカデミー賞の司会者はエスプリということになるでしょうか。

 一見すると、ジョークの中でも、他者を傷つける可能性のあるエスプリよりは、ユーモアの方が平和でいいのではないかという感じがします。自分の事を笑っていれば、誰かを怒らせる事はないでしょうから。

 でも、容姿を笑うと言うことには、実はもっと本質的な問題が隠れています。それは、「一般的な基準から外れた容姿(ハゲ・デブ・ブス等)」は笑われて当然なのか、という問題です。

 「はげ頭が夕日にキラキラして見苦しい」なんて、失礼にも程がある!そう怒りたいものの、そうやって怒る姿さえ笑われるから我慢する、そんな構図まであるのではないか。私自身も大分頭頂部が薄くなってきて、やっと我が身に引きつけて考えるようになりました。そしてその結果、自分の中に矛盾を抱えるようになりました。

 昨今は、お笑いの世界でも「人を傷つけない笑い」というような事が言われるようになりました。そういう優しい世界、いいと思いますよ。いいとは思うのですが、やっぱり私という人間は、そればかりでは物足りないと思ってしまうのです。私はちょっとブラック要素のある笑いを好んでしまう人間なのです。そして、それは私に限ったことではなく、「他者との差異にこだわる」人間というものの本質に深く関わることのように思います。「笑い」「笑う」と簡単に言っても、なかなか難しい世の中になってきたな、そんな風に感じています。

 人の差見つけたるに頭の中はギラギラとあり いみじく見苦しきことかぎりなし

 こんな感じですかね。では。

牧宗親(まきのむねちか)、髻(もとどり)を切られる

 およそ40年振りに、NHKの大河ドラマをみています。『鎌倉殿の13人』、面白いですね。

 先週の回ですが、ある事に激怒した源頼朝が、御家人に命じて牧宗親の髻を切り落とさせるというシーンがありました。

 『鎌倉殿の13人』をみていていつも感心させられるのは、「役者って上手いものだなあ」「演技って凄いものだなあ」という点です。

 牧宗親が髻を切られるというシーンでも、居並ぶ板東武者達の驚愕・動揺の表情で、それがどれ程の厳罰であったかが分かります。また、切られた宗親の嘆きからも、与えられた恥辱の大きさが分かります。

 でもそれはそれとして、ドラマを視ていた私が思ったのは、「ここでナレーションか字幕で少し説明があってもいいのではないか」ということです。

 『当時の男性にとって、髻を切られるというのはこれ以上無い恥辱であった』この程度でもいいので。ぐっと分かり易くなると思うのです。

 ところが。

 こんな風に書いておきながら全く逆の事を次に書くのですが、説明が無かったお陰で、自分で調べてみる気になったのです。「髻を切られるって、なんでそんなにもおおごとなの?」という興味が湧いたのです。

 

 いつも通りネットであれこれ読んでみたのですが、大きく次の二点が理由としてあげられていました。

 一、そもそも髻とは成人男性の証であり、それを切られるとは「お前は男ではない」と言われるも同じ

 一、その当時、男性は人前では決して頭を見せないものとされていた(そう言えば、頼朝は入浴シーンでも烏帽子をかぶっていました)。髻は烏帽子や冠を留める役目をもつ、なくてはならないもの。

 なるほどねえ、髻って、男性にとって命の次ぐらいに大事なものと言うことなんですね。あれ?でもちょっと待って下さい。ほら、あのう、男性の中には「髪は、なが~い友達」(昔のCMネタです)ではない方もいらっしゃいますよね。その場合はどうなるんでしょう?

 なんて事を考えていたら、見つけました。『枕草子』で有名な清少納言のお父さん、清原元輔(きよはらのもとすけ)について、今昔物語に面白い逸話がありました。

 すぐにでもご紹介したい気持ちは山々なのですが、少々長くなりますので、この続きは明日と言うことにしたいと思います。皆さん、後ろを引かれる思いでしょうが、お待ち下さいね。

 それにしても、牧宗親ですよ。

 髻は髪が伸びればもとどおりになるでしょうが、屈辱感や頼朝に対する恨み、そういったものは恐らく生涯消えることは無かったことでしょうね。かみのみぞ知る、ではありますが。続く。

感銘を受ける 1

 先日のブログで「糸川英夫博士の言葉に感銘を受けた」と書きました。そして、その事で改めて気づいた事があります。それは、私という人間はとても感銘を受けやすい性質を持っているのではないか、ということです。メディアから、あるいはリアルで、実にいろいろな場面で、大なり小なり感銘を受けがちなのです。

 一方、あまりにもたやすく感銘を受けるからでしょうか。せっかくの感銘も実にあっさりと忘れ去ってしまったりもするのです。あれ?「あっさり忘れる」と言う事は、実は感銘と言うほどでも無いということ?

 まあそれはともかく、多少なりとも心に響いたと言うことは事実で有り、それを都度書き留めておくのは悪くないんじゃ無いかと思ったのです。

 糸川博士について書いた先日のブログでは、「継続する方法」を見つけることの大切さについても述べました。ブログを継続する方法を探したいとも書きました。

 そうだ!何か感銘を受ける事に出会ったら、ほんの小さな事であれブログに書く事にしよう。読者にとってはつまらないものであっても、自分にとっては日記代わりの記録になるじゃないか。ネタに窮して何日も更新が滞るより、精神衛生上もいいような気がします。

 新しいカテゴリー「感銘を受けたこと」、いいじゃないですか。

 書かないよりはまし、継続は力、そう自分に言い聞かせ、小さな事でも心にひっかかった事はこのカテゴリーのもと、書いてみようと思います。

 

 手始めに、先日のあるテレビ番組の事を書きたいと思います。詳細は省きますが、解説の先生が次の様におっしゃいました。

 「そこで彼は、自らそれを販売するという作戦に打って出たわけです」

 私の心に響くものがありました。

 「売ってでた!販売だけにね!」

 言っている本人が気づかずに上手いシャレを言っている、ああ素晴らしくも勿体ない。私の心はこんな事にも感銘(?)を受けるのです。

 ね、私って感銘を受けやすい性質でしょう?

 そしてその時から、「ああ、私もいつかどこかで使いたい」と暖め続けているセリフがあるのです。

 

 「自衛隊による集団接種という作戦に打って出た。ワクチンだけにね」

 

 言いたいなあ。誰かに言いたいなあ。でも、なかなかそのチャンスは訪れそうにないし、それに第一、パクリ感ありすぎ。実際の場面での使用は諦めた方がよさそうです。でもこうしてブログで披露できたので、結果オーライです。

 ということで、今までは「ブログに書くには短かすぎる」と躊躇していた事も、こんな調子で「感銘を受けたこと」カテゴリーで、度々皆さんにお知らせして行く事にしたいと思います。皆さんもお付き合い下さいね、継続は力、ですよ(笑)では。

②私の記憶の中の糸山氏と糸川氏

 ①の続きです。①の最後で、多分明日②を書きますと書いておきながら、随分日が経ってしまいました。どうも私には「継続力」が不足しているんですよね。楽しみにお待ち下さっていた皆さん、スミマセン。きっと、沢山沢山いらっしゃいますよね(笑)

 

 糸川英夫博士と言えば、「日本のロケット開発の父」と言われる天才科学者です。惑星探査機『はやぶさ』が目的地として向かった小惑星、あの『イトカワ』は博士にあやかって命名されたものです。

 さて、そもそも糸川英夫博士について今回書こうと思ったのは、「思いだした!」という私の記憶がきっかけでした。その記憶とは、

 「糸川氏って、確か年をとってからバレエを始められて、週刊誌にタイツ姿の写真が載ったりしてたような・・・」というものです。

 調べたところ、記憶に間違いはありませんでした。

 そして、これから書こうと思うのは、その「調べる」という作業の中で出会った、私が感銘を受け、そして是非皆さんにもお知らせしたいと思った氏の著書の中の言葉です。

 

 「向上のための一歩を踏み出すか、それがポイントになる。階段の下で立っているか、毎日一段ずつ上がっていくかで、十年たったら、いるところが全然違ってくる」

 「天才になるという方法は、まさにそのように、自分で階段を上がる方法を独創することなのである。そして、それを続ける根性と気力といえる」

 

 説得力ありますね。

 実際に、62歳からバレエを始められた氏は、毎日、新聞を一枚ずつ積み重ね、脚をより高く上げる努力を続けたのだそうです。

 「継続は力なり」とは、子供の頃から飽きるほど聞かされる言葉です。誰もがその言葉が真理であろう事は分かっていると思います。でも、実際にそれが実行出来るかどうか、そこに大きな隔たりがあるわけです。今までの人生で、何回も何回も身にしみた「継続は力なり」ですが、それに加えて、「続ける方法」も模索しなくてはと考えさせられました。十年後、少しでも高いところに立っていられるように。肉体的にも精神的にもです。

 

 話は少し変わりますが、皆さんは「木を植える忍者の修行」というのはご存じでしょうか。

 なんでも、

 「忍者は修行の始めに杉の苗を植える。そして毎日、その苗木を飛び越える訓練をする。最初は楽に越えられた杉もドンドン生長し、やがては大木となる。しかし、怠けることなく修行を続けたならば、その者はその杉の大木をも飛び越えられるような超人的能力を身につけられる」らしいです(笑)。

 

 ちょっと面白い「話」ですね。このお話は、「継続は力なり」という事を教えつつ、やはり糸川氏と同様、「方法」の大切さを逆説的に説いているような気がします。何事の修練であれ、適切な方法で行いたいものだと思います。

 ちなみに、忍者の修行の話をネットで調べたところ、「杉の苗」は成長が遅いために間違いとされ、一日に3㎝程度延びる「麻を植え」、最終的には「3m跳べるようになる」という説が正しい(?)とされているようです(笑)。

 つまり、努力を続けるにしても間違った方法で行うのは、あさはか、ということのようです。私もブログ継続のためのいい方法を発見し、あまり途切れること無く、続けていきたいものだと改めて思っています。では。

①私の記憶の中の糸山氏と糸川氏

 人間、年をとるとさまざな場面で「衰え」を感じるかと思います。肉体の衰えも甚だしいのですが、私の場合はなんと言っても「記憶力」。記憶力の衰えが凄まじく、悲しいやら情けないやら。腹立たしく感じる事もしばしばです。

 しかも困ってしまう事には、そんな状態に有りながら、昔のことはやけに鮮明に覚えていたりして。情けなさと諦めきれ無さのようなものの間で、いつも右往左往してしまうのです・・・。

 

 蓮舫氏のご長男が自民党に入党、というニュースはご存じでしょうか。そのニュースの見出しには「へえ」と思ったのですが、内容を読んで、見だし以上に衝撃的だったのは、「糸山英太郎氏と養子縁組」という一文でした。

 糸山英太郎氏って、あのお金持ちの、超お金持ちの、日本有数の資産家の、あの糸山英太郎氏よね。へえ!へえ?なんで?何のため?実子はいないの?奥さんはどうなの?あんまり気になって、いろいろネットでググったところ、大変興味深く面白い時間が過ごせました。皆さんもお時間とご興味がおありでしたら、ゼヒ調べてみて下さい。

 

 さて、冒頭で、私は老化の中でも記憶力の衰えに一番ショックを受けていると書きましたが、それは、「私は若い頃、記憶力だけは人並み以上だった」という自負があったからだと思います。運動神経が良かった人は運動能力の衰え、容姿が良かった人はその衰え、人は老化の中で、自分の中の密かな自慢あるいは恃むところと言いますか、そういったものの衰えが一番堪えるのではないでしょうか。

 話をもとに戻します。

 うん十年ぶりに「糸山英太郎」という名前を目にした時、私の脳裏に突然浮かび上がって来たセリフがありました。自分でも不思議です。なぜそんな事を覚えているのか。

 

 「私はたとえ殴られても蹴られても、決して辞めません」

 これは私が子供の頃に、テレビから流れてきたある男性のセリフです。その男性は選挙違反によって陣営から大量の逮捕者を出し、「議員を辞職しないのか」と報道陣から詰め寄られていたのでした。そして、そのことに対しての答えが上のセリフです。

 あれ、確か「糸山英太郎」じゃなかったかなあ。でもちょっと待って、年齢が合わなくないか?若過ぎない?私の記憶違い?

 ネットで調べました。

糸山英太郎氏は、

 1942年(昭和17年)6月4日生まれ(現在79歳)

 1974年(昭和49年)参議院議員当選(32歳)

 間違いありませんでした。

 32歳という若さで参議院議員に当選した氏は、金権選挙という世間の猛烈な批判や白眼視をものともせず、「決して辞めない」の言葉通り、任期をまっとうしています。さらに、さすがに参議院二期目は諦めたものの、その後は自民党から衆議院選挙に出馬し、三回当選しています。

 

 凄いなあ、良くも悪くも一般人とは神経の太さが違う!(氏の経歴をみても、並の人間とは桁外れの行動の数々です)

 そんな糸山氏を義父として、これから薫陶を受けることになる蓮舫氏のご長男。興味津々です。

 

 と書いているうちに、すっかり長くなってしまいました。今日はここからもう一人、やはり一般人とは桁違いの天才、糸川英夫博士について書く予定だったのに。

 そもそも、なぜ私がタイトルのように「糸山氏」と「糸川氏」を並べたかと言いますと、それもやはり「記憶」に関係があるからなのです。

 若い頃は記憶力が良かった私の頭には、昔の記憶がゴチャゴチャと詰まっています。ところが、それをスムーズに取り出すという機能が衰えているのです。例えば、知っているはずの言葉がスムーズに出てこないとか。

 私の頭の中には「糸山英太郎」と「糸川英夫」という人名が記憶されています。ところが、このお二人の名前がちょっと似ている(似てますよね?)ために、「あれ?どっちがどっち?」という記憶のもつれが生じたりするのです。

 よし、この際だ。「糸山英太郎」と「糸川英夫」。二人について調べて記憶をしっかり確認しよう、そう思ったのです。そして、その結果、素晴らしい収穫があったので、それをゼヒ皆さんにもお知らせしたいと思っているのです。

 続きは明日(多分)、ワクワク気分でお待ち下さいね。どのぐらいワクワクして頂きたいかと言いますと、小惑星イトカワ』から『はやぶさ』が何を持ち帰ってくれるのかワクワクしたあの気分ですよ(大げさ?)。では。

1978年の映画興行収入のこと、平和のこと

 日本では1977年に公開された映画、『007/私を愛したスパイ』について、拙ブログに書きました。書いているうちに、「どのぐらいヒットしたのかな?」と気になりまして、興行収入のランキングを調べたのですが、見当たりませんでした。

 「えー、嘘でしょう?」

 冷静になって調べ直したところ、この映画は1977年12月10日公開のため、興行収入としては、翌年の1978年にカウントされていることが分かりました。それでは、1978年のランキングがこちらです。

 

 1位 スター・ウォーズ   43.8億円

 2位 未知との遭遇     32.9億円

 3位 007/私を愛したスパイ  31.5億円

 4位 野生の証明    21.5億円

 5位 さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士達  21.0億円

以下、6位から10位までは、

 「サタデー・ナイト・フィーバー」「柳生一族の陰謀」「ブルース・リー 死亡遊戯」「コンボイ」「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」

 

 めちゃくちゃ豪華!って感じしませんか?

 

 私はド田舎の高校生だったので、映画をみるというのは特別感のあるレジャーでした。1位の『スター・ウォーズ』は、同級生(女子ばかり)数人で観に行ったのを覚えています。とにかく話題沸騰の映画で、特に同級生男子達がこぞって、「スター・ウォーズスター・ウォーズ!」と騒いでいるので、「行ってみようか」となったのだと思います。オープニングの、頭の上を映像が流れていく(錯覚です)という不思議な感覚が、鮮明に印象に残っています。

 同級生男子達が騒いだと言えば、『野生の証明』の薬師丸ひろ子ちゃん。この後数年間にわたって、「薬師丸ひろ子薬師丸ひろ子!」と騒ぐ男子が後を絶ちませんでしたね。

 そして、方向は違いますが、男子の憧れと言えば、ブルース・リー。氏は1973年に亡くなっていますが、『死亡遊戯』は氏が撮影していた未完の作品を、代役など、様々なアイディアを駆使して完成させたという、ファンにとっては待ちに待った作品だったようです。ただ、Wikipediaによりますと、日本ではヒットした(8位ですからね)ものの、世界的にはそれほどのヒットにはならなかったということです。

 

 それにしても、こうしてヒットした映画のタイトルを並べてみただけでも、人間がいかに「戦う」というテーマが好きかというのが、良く分かるような気がします。それはきっと「戦い」が人間の本質といったものに深く関わるからであろうと思います。でも、仮にそうだとしても、その本質はあくまでもフィクションの世界に留め置き、理性的・合理的に消化できないものかと思うのです。

 今、ウクライナでは本物の「戦い」が行われています。

 一日も早く戦争が終わり、世界を平和ムードが包んで、映画が設定する敵は「侵略を企む宇宙人」や「完全な悪人」といった全人類の敵となる。そして、ラストは地球人としての正義が勝って万々歳という単純なストーリーを熱く楽しむ。映画という物がそんな風に作られ、そして人々はそういう映画をワクワクと楽しむ。そういう日が一日も早く訪れて欲しいと思います。

 斜陽と言われる映画産業が娯楽として再びの栄華を誇るには、ストーリーはともかく、世界が平和であることは不可欠だと思います。「映画どころじゃない」人々に、「さて映画でもみるか」という日常が訪れるのはいったいいつになるのでしょうか?本当に暗いニュースばかりのこの頃です。では。

続き『The Spay Who Loved Me』②

 ジェームズ・ボンドシリーズの第10作目、原題『The Spay Who Loved Me』について、気になった事を書きたいと思います。

 昨日もちょっと触れましたが、本作ではイギリスのスパイである007とKGBの美人スパイが、協力して共通の敵に立ち向かうのです。そしてお約束通り、二人は恋愛関係になって、めでたしめでたしで終わるというストーリ-です。

 この映画には勿論日本語のタイトルがありまして、ご存じの方は「アレだよね」とすぐお分りかと思います。そして、なぜtakakotakakosunは頑なに原題しか書かないのだろうと不思議に思われたかと思います。

 実はそのタイトルの日本語訳が、私が「気になった事」に大いに関係があるのです。

『The Spay Who Loved Me』を訳すと、『meを愛したスパイ』となると思うのですが、その「me」って、一体誰のことだと思われますか?映画のストーリー的に考えられる候補は二人、007またはKGB美人スパイ、ですよね。

 「me」が007なら、「007を愛した(ソ連の)スパイ」というタイトルですし、反対ならば、「(ソ連の)スパイを愛した007」というタイトルになるわけです。普通に考えれば、主役はあくまでも007なのですから、「007を愛した(ソ連の)スパイ」と受け取るのが自然かなという気がします。

 ところが。

 この映画の邦題は、『007/ 私を愛したスパイ』です。

 そうなんですよ。

 英語の「me」には性別はありませんが、日本語で「私」と言った場合、普通はその人は女性と受け取ると思うんです。少なくとも私は、この映画を日本語タイトルで知った時からずっと、ある女性が「私を愛した007」と言っているのだと思い込んでいました。

 さあ、どちらが正解でしょうか?難しいでしょう?

 ただ、この映画の有名な主題歌『Nobody does it Better』は女性歌手によって歌われており、その中にも The Spay Who Loved Me というフレーズがあることを考えれば、「私を愛した007」ととるのが妥当かと思われます。

 人称代名詞に性別がある日本語と無い言語と、きっといろいろな意識・認識の違いを生むのだろうなと、大変興味深く思った日本語タイトルなのでした。

 さて、最後に蛇足をもう一つ。

 実はこの映画には重要なポジションを演じるもう一人の男のスパイが登場します。そのスパイは美人スパイの同僚であり、恋人でもあるのです。映画の序盤、その男スパイは007暗殺に失敗し、返り討ちにあいます。恋人を殺したのが007その人であると知った美人スパイは、「任務が終了したら、あなたを殺す」と宣言します。ところがですよ。初めに書いた通り、最後は二人はイチャイチャとする関係になり、人目も気にせずイチャイチャとして、ラストシーンとなります。

 非常に非常に低い確率ではありますが、『The Spay Who Loved Me』の Spayは殺されたKGBの男、 Meは美人スパイという、そういう可能性だってあると思いませんか。非常に非常に低い確率ですよ、もちろん。でももしそうであるならば、なんて非情なタイトルなんだ!非情なるかなKGB美人スパイ!って感じで、ちょっとぐっと来るものがあるなあと、これは私の悪ふざけなのですがね・・・。では。