おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

納豆の思い出

今週のお題「納豆」

 

 我が家の息子その2。自慢の息子ではありますが、ちょっとウッカリと言いますかボンヤリと言いますか、そういう所がありまして、まあそれも彼の魅力の一つでしょう。

 

 彼が高校生だった頃の思い出です。

 朝ご飯を食べ終わった途端に、彼が声を上げました。

 「しまった。納豆を忘れてた。納豆、食いたかったのに、もうご飯食べ終わっちまった」と、心から悔しそうに嘆くのでした。

 私が、「じゃあ、納豆だけ食べればいいじゃない」と言った時の彼の反応が忘れられません。

 「いいの!いいの?納豆だけ食うなんて、そんな贅沢許されるの?」そう言うと、彼は実に嬉しそうに納豆のパックに手を伸ばしたのでした。

 

 我が家は普通の中流家庭だと思うのです。そこまでケチケチして子育てをしたつもりもないのですが、貧乏性って遺伝するんでしょうか。おかしいけれどちょっと情けないような、なんとなく後を引く思い出の一コマです。

 

 話は変わりますが。

 「後を引く」という表現はこういう場合に適切かちょっと自信がなくて、広辞苑を引きました。

 後を引く  いつまでも続いてきまりがつかない、とあり、続いて例文が載っていました。「お屠蘇気分が後を引く」「ピーナッツは後を引く」の二つです。お屠蘇気分はともかく、ピーナッツは食べ始めると止められないというのは、辞書の例文になるほど万人に共通の現象なんですね。

 「糸を引くのは納豆、後を引くのはピーナッツ」、新しい知識としてどうぞお納め下さい。納豆だけに。

 ちなみに、私は辞書を引くのも好きですが、納豆も挽き割りが好きです。では。

 

 

7月13日の日記

 昨日7月13日、友達二人と、おばさん合計三人で軽いハイキングに行きました。

 まず、腹が減っては戦はできぬということで、ランチからのスタートです。そのお店で、こちらをゲットしました。

 

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 弘前市で密かにブームになっている「津軽お化け珈琲」の「アマビエヴァージョン」です。以前から新聞等で存在は知っていて、探して買うほどではないけれど目についたら買いたいなと思っていました。

 はだけた胸元とサイドからのぞく脚(?)がセクシーですね。人生の酸いも甘いもかみ分けた占い師として、人気が出そうです。「弘前公園の母」とか呼ばれたりして。税込み120円。詳細はこちら。↓

 

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 腹ごしらえがすみ、出発です。新しい生活様式ということで食事の間はお喋りは控えめでしたが、林の中を歩き出してからは足元以上にお喋りの軽快なこと。三人で会うのが久しぶりなこともあって、お喋りが弾む弾む。熊が出るような場所ではありませんでしたが、仮に生息していたとしても絶対に寄っては来ないでしょうね。

 疫病には「アマビエ」。熊よけには「おばさん」ですね。

 

 夏の山は実りの季節で、木イチゴやクワなどの名前の分かる物、また分からない物なども、そちこちに様々な種類の赤い実がなっているのでした。可愛いなあと近づいて手に取りたくなるのですが、春の山と違って気をつけなければならないのは「虫」の存在です。刺す虫の類も嫌ですが、ぎょっとするほど大きな毛虫がいたり、夏の山はそこがちょっとねえ。

 ※ここで長い付き合いの読者の方は、「無視できない」とか来るかな、と予想されていることでしょう。ふふ、甘いねえ。

 夏は、虫のせいで自然とむしんで戯れることが出来ない季節でもあるのです。でも、こんな可憐な花も咲いていて、やはり夏には夏の魅力がありますね。

 

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 葉の形に特徴が有り、調べたところ「クルマユリ」と判明しました。オニユリよりも小ぶりな花で、可憐な雰囲気があります。輪生する葉が車輪のスポークに似ていることから「クルマユリ」となったそうです。

 

 さて、その「クルマ」ですが。

 日本で一番有名な「クルマ」とつく花と言えば、「クルマサクラ」でしょう。お兄ちゃんの車寅次郎も、妹のさくらが独身の頃は、悪い虫がつかないようさぞ心配した事でしょうね。では。

イタリア旅行の思い出 『聖マタイの召命』その2

 絵をみて楽しむという、その楽しみ方にもいろいろありますが、「謎解き」のような面白さというものもあります。

 

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聖マタイの召命 1599~1600 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ

 絵のタイトルの「召命」とは広辞苑によりますと、ある使命を果たすよう神から呼びかけられること、だそうです。

 収税人であったマタイのもとに突然イエスがやって来て、「私につき従うように」と召命します。その声を聞くや、マタイはサッと立ち上がり、呆気にとられる周囲の人々を残し、イエスについてその場を去って行った、とされています。

 この絵の場面は、「その瞬間」を描いています。

 画面向かって右端の、暗がりから誰かを指さしているのがイエスです。では、指さされているはずのマタイはどの人物でしょうか。

 マタイは誰か。これには二説あるそうです。長い間、マタイは髭を生やした指さしをしている人物だと思われていました。指さしは、「私ですか?」とイエスに問うていると解釈されるわけです。

 ところが、1980年代頃から、「マタイは一番左端の、うつむいてお金を数えている人物ではないか」と言われるようになり、現在ではそちらの方が支持されているようです。根拠はいくつかあるようですが、私が知る限りでは次の三つがあげられます。

 

1.髭の男の指さしは自分ではなく、他人を指していると見る方が妥当だろう

2.髭の男はお金を払い、うつむいている男はそれを数えているように思われる。収税人であるマタイは当然数える方であろう。

そして三つ目の理由ですが、これを何かで読んだときはちょっと感心というか、感動しました。

3.髭の男がマタイであれば「私?」という戸惑いの一瞬がある。しかし、言い伝えでは、マタイはイエスの姿を認めるやいなや付き従ったとある。この直後、顔を上げたマタイは間断なく立ち上がるのであり、この場面はマタイがイエスに気付く一瞬前を描いているのである

 

 Eテレの日曜日美術館でこの絵が紹介された時、「マタイはどの人物」かについて言及があるかどうか気をつけて見ていましたが、微妙に避けていたように思われました。定説となるまでは言及しないという方針なのかもしれません。19日の夜の放送が再放送回ですので興味のある方はご覧になってみて下さい。

 

 イタリアに行く前から楽しみにしていた『聖マタイの召命』。その楽しみにはこの謎解きと言いますか、誰が聖マタイかを見極めたい(左端の人物だとは思ってはいるものの)という思いもありました。ところが、昨日も書きましたがいざ本物を前にすると舞い上がってしまうというか、現実感の無い世界で漫然と絵を眺めてウロウロするのみで、落ち着いて鑑賞できないのです。

 貧乏性ってこういうことだと、つくづくと自分が情けないです。或いは胆力という事なのかも知れません。素晴らしい作品を前に圧倒されてしまい、オロオロと自分を失ってしまうのでしょう。

 『聖マタイの召命』という名画を前に、図らずも己の卑小さが証明されてしまうという、情けないけれどそれもやっぱり思い出の一つという、イタリア旅行の一コマでした。では。

 

イタリア旅行の思い出 『聖マタイの召命』その1

 数年前イタリアに行きました。いつかまた行きたい、いや、行こうと思っていたのに、コロナウイルスのせいで、「夢」が「遠い夢」になってしまった気がします。

 

 ツアーに参加したのですが、ローマでのフリータイムでは、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会にあるカラヴァッジョの3枚の作品を見るのを楽しみにしていました。中でも、一番の楽しみは『聖マタイの召命』でした。

 

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聖マタイの召命 1599~1600 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ

 今日放送されたEテレの日曜美術館でこの作品が紹介され、数年前実際に目にしたときのことを思い出しました。
 

 旅行に行く前に、カラヴァッジョの絵が掲げられている聖堂には面白い仕掛けがあることを知りました。通常ではそれらの絵は暗闇の中にあるのですが、聖堂脇にある料金箱に規定のお金を入れるとパッと灯りがともり、素晴らしい作品がまるでその人の前に姿を表すかのように出現するというものです。面白い仕掛けだなあ、暗闇から忽然と現れるカラヴァッジョ作品、是非見てみたいと思ったものの、まあ無理だろうとも思っていました。というのは、名画中の名画3枚、しかもこの場所に足を運んでしか見られない(恐らく)のですから、聖堂前は人だかり、常に灯りはともりっぱなしだろうと考えたのです。

 ところが。

 さすがローマです。街中が見所だらけで世界中からの観光客も分散するのでしょう。サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会はひっそりとしたものでした。私たちの前には既にカラヴァッジョ作品を鑑賞している観光客がいましたが、私はなるべく絵を見ないようにして順番を待ちました。財布からコインを出し準備をします。そうこうしている内に聖堂内の灯りは消え、その数名は立ち去りました。

 「さあお母さん、お母さんの番だよ」、夫に促され、料金箱へ。

 灯りがともり、私のために灯りがともり、私のために『聖マタイの召命』が、私のために『聖マタイと天使』が、私のために『聖マタイの殉教』が現れました。と、大変な興奮ぶりで書いてはみましたが、実際は違うのです。興奮と言うより呆然と言う感じでした。現実とは思えない、そんな気分が拭えないのです。

 「本物なの?本当に今本物をみてるの?」そんな狐につままれたようなと言いますか、現実感のないままに3枚の絵を順に見ていったのでした。

 さて、ここからメインの『聖マタイの召命』について書いていこうと思ったのですが、長くなってしまいましたので、続きは明日にマタイで書くことにしたいと思います。続く。

 

 

「ひも」の語源から

 昨日の拙ブログでは正しい紐の結び方・ほどき方について書きました。

 ひも、と言いましてもいろいろなものがありまして、中には女性は結ばない方がいい「ひも」もありますね。自分は働かずに女性に貢がせる男性、あの「ひも」の事です。

 こちらの「ひも」の語源についてはいろいろな説があるようですが、その内の一つに、「海女さん」にまつわるものがあります。

 海女さんは腰に紐を着けて海に潜ります。そして、息が続かなくなると紐を引いて舟の上の男性に知らせ、引き上げて貰います。こんな風に、女性が働いている間男性は待っているだけのように見えることから、先に書いたような意味の「ひも」という言葉が生まれたとされています。ただ、どうもあまり信憑性は高くない説のようでもあり、第一、舟の上の男性も忙しく自分の仕事をしているわけで、男性には気の毒な説でもあります。

 

 リュック・ベッソン監督の映画『グラン・ブルー』のモデルとなった、ジャック・マイヨールという有名なフリーダイバーは覚えておられますか。フリーダイビングとは呼吸機材を用いないダイビングの事です。

 何十年も前に何かの雑誌で読んだ記事なのですが、ジャック・マイヨールが来日した際に、どこかの海岸で海女さんの仕事を見学し、その時に交わした会話というのがありました。何十年も前の記憶であり、検索しても見つけることも叶わなかったので、あやふやな記憶なのですが、私のお気に入りと言うことで紹介したいと思います。

 

 仕事を終えた海女さん達に、ジャック・マイヨールが言いました。

「僕は100mまで潜ったことがあるんだよ」

 びっくりしている海女さん達の中で、一人が聞きました。

「それで、その時はサザエ(アワビだったかも)は、どのぐらい採れた?」

「全然採れなかったよ」

 笑いながら答えるジャック。海女さん達も笑いました。

 

 なぜか忘れられない逸話なのです。その時の海女さん達の心境を想像すると、ちょっとクスリときます。

 きっと、自分たちは海女だけどこの人はホントのアマだね、そう思ったんじゃないでしょうか・・。では。

紐だって、ちゃんと結んで欲しい

 昨日エコバッグ作りの参考にさせて頂いた方のYoutubeに、「紐の結び方とほどき方」の解説動画がありました。

 

 若い方は意外とご存じないようですが、「縦結び」といわれる結び方は間違った結び方で、固結びにしろ蝶結びにしろ、みっともないこととされています。私は(もはや)昔の人なので、正しい結び方は知っているのですが、そのメリットはこちらの動画を見るまで、恥ずかしながら知りませんでした。

 そのメリットとは、「ほどきたいときには簡単にほどくことが出来る」ということです。今回そのほどき方を教えて頂き、目から鱗という思いです。

 

 「縦結び」がただみっともないという事であれば、「それで全然構わない」と考える若い人にあれこれ言うつもりは無かったのです。が、実用という面で明らかな優劣があるのですから、これは結び方・ほどき方共に、一度ちゃんと覚えておく必要があろうかと思います。

 若くない方も、私同様ほどき方をご存じない場合は、是非ご覧になってみて下さい。

 念のため申し添えますが、こちらの動画をアップしている方は全くの他人で、決して私の「ひも付き」などではありませんので。では。

 

www.youtube.com

『刑事コロンボ』を視ています

 毎週水曜日の夜9時から、NHKBS3で放送されている『刑事コロンボ』シリーズ。勿論、再放送です。調べましたら、制作は1972年でした。

 懐かしさと面白かったなあという記憶から、楽しみにして第一回放送を視た時はちょっとスローテンポ過ぎて、「あれ?刑事コロンボって、こんなんだったけ?」と肩すかしを食らった感がありました。ところが、なんとなく第二回、三回と続けて視ていくうちに癖になってしまい、すっかり毎週水曜日の夜のお楽しみとなりました。

 いやいや、内容は毎回ヒドいもんなんですよ。コロンボ刑事が偽の証拠を犯人に提示してまんまと自白させたり、物証がないのに罠に掛けるようなやり方で自白させたり、今だったら許されないようなアラがしばしば目につきます。でも、面白いの。

 登場人物の台詞がゆっくりで聞き取りやすい。(年のせいか最近のドラマのボソボソ早口は聞き取れないことがあるんです)

 昔と今の違いが随所に見られ、懐かしくも興味深い。(例えば、コロンボはじめ、登場人物達のタバコが凄い。いつでもどこでもスパスパ)

 懐かしいスターが登場。(昨日は、あの『ミスタースポック』が出てましたよ。勿論、地球人として)

 そしてなんと言っても、追い詰められていく犯人の心の動きの面白さ。(こういうところは50年という月日が経過しても、人間の変わらないところですね)

 

 どんなに頭脳明晰な人間が練りに練った計画であろうとも、必ずほころびはある。犯罪に限らず、科学技術などの例を考えてみても、人間が関わる限り「絶対」はあり得ない。そういった事をつくづくと考えさせられる、そんな面白さがこの番組にはあるように思います。

 

 話は変わります。

 車でラジオを聞いていると良く耳にするCMで、リスナーの面白投稿を紹介するのがあるんです。

 「先日、あるお店の前を通りかかると、張り紙がありました。急用で2時間休みます。・・・何時から?」(ここで爆笑)。そうですよね、いつから休んでいるかわからなければ意味がないですよね。こういうミスといいますかウッカリは、あるあるという感じがしますね。でも、それが笑いになるということは、実はあるようで無いからではないか、そんな風にも考えたりしていました。

 今日、あるお店の前を通りかかりました。ドアノブの所に小さなメモが張ってありました。

 「1時間ほどで戻ります」

 人間のついウッカリ、やっぱりあるものですね。完全犯罪は不可能だと言われるのももっともだと思います。

 そう言えば、人間は不完全な存在だと言っていたように思います。いや、うちの神さんがね。では。