おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

イタリア旅行の思い出 『聖マタイの召命』その2

 絵をみて楽しむという、その楽しみ方にもいろいろありますが、「謎解き」のような面白さというものもあります。

 

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聖マタイの召命 1599~1600 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ

 絵のタイトルの「召命」とは広辞苑によりますと、ある使命を果たすよう神から呼びかけられること、だそうです。

 収税人であったマタイのもとに突然イエスがやって来て、「私につき従うように」と召命します。その声を聞くや、マタイはサッと立ち上がり、呆気にとられる周囲の人々を残し、イエスについてその場を去って行った、とされています。

 この絵の場面は、「その瞬間」を描いています。

 画面向かって右端の、暗がりから誰かを指さしているのがイエスです。では、指さされているはずのマタイはどの人物でしょうか。

 マタイは誰か。これには二説あるそうです。長い間、マタイは髭を生やした指さしをしている人物だと思われていました。指さしは、「私ですか?」とイエスに問うていると解釈されるわけです。

 ところが、1980年代頃から、「マタイは一番左端の、うつむいてお金を数えている人物ではないか」と言われるようになり、現在ではそちらの方が支持されているようです。根拠はいくつかあるようですが、私が知る限りでは次の三つがあげられます。

 

1.髭の男の指さしは自分ではなく、他人を指していると見る方が妥当だろう

2.髭の男はお金を払い、うつむいている男はそれを数えているように思われる。収税人であるマタイは当然数える方であろう。

そして三つ目の理由ですが、これを何かで読んだときはちょっと感心というか、感動しました。

3.髭の男がマタイであれば「私?」という戸惑いの一瞬がある。しかし、言い伝えでは、マタイはイエスの姿を認めるやいなや付き従ったとある。この直後、顔を上げたマタイは間断なく立ち上がるのであり、この場面はマタイがイエスに気付く一瞬前を描いているのである

 

 Eテレの日曜日美術館でこの絵が紹介された時、「マタイはどの人物」かについて言及があるかどうか気をつけて見ていましたが、微妙に避けていたように思われました。定説となるまでは言及しないという方針なのかもしれません。19日の夜の放送が再放送回ですので興味のある方はご覧になってみて下さい。

 

 イタリアに行く前から楽しみにしていた『聖マタイの召命』。その楽しみにはこの謎解きと言いますか、誰が聖マタイかを見極めたい(左端の人物だとは思ってはいるものの)という思いもありました。ところが、昨日も書きましたがいざ本物を前にすると舞い上がってしまうというか、現実感の無い世界で漫然と絵を眺めてウロウロするのみで、落ち着いて鑑賞できないのです。

 貧乏性ってこういうことだと、つくづくと自分が情けないです。或いは胆力という事なのかも知れません。素晴らしい作品を前に圧倒されてしまい、オロオロと自分を失ってしまうのでしょう。

 『聖マタイの召命』という名画を前に、図らずも己の卑小さが証明されてしまうという、情けないけれどそれもやっぱり思い出の一つという、イタリア旅行の一コマでした。では。