おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

太宰治『トカトントン』を読んで①

 しばらく前だが、10歳ほど年下の友人とウォーキングをしていた時のことだ。彼女はこのブログを熱心に読んでくれるのだが、前に私が太宰作品の感想文を書いた事をきっかけに、自分も太宰を読んでみたということだった。

 「トカトントン、読みましたか?まだでしたら是非読んで下さい。そして、ブログに感想をお願いします」と言うことだった。「オッケー」と安請け合いし、そしてすぐに読んだのだが、なかなか構想がまとまらず、ついに昨日、二回目を読み終わったので、鉄は早いうちに打て、早速感想を書いてみようと思う。

 

 『トカトントン』は短編小説なのだが、構成が変わっている。全体の9割9分を読者からある作家への一通の手紙が占め、最後の数行が、その作家からの返信という形だ。

 終戦時軍人だった手紙の主は、玉音放送を聴いて「死のう。死ぬのが本当だ」と思う。ところがその時だ。背後の兵舎の方から、トカトントンという、かすかな金槌の音が聞こえてきた。その途端、彼は憑きものが落ちるように、どうにも白々しい気持ちになったというのだ。

 そしてそれ以来、何をしても、何をみても、さあと奮い立とうとすると、どからともなくあの「トカトントン」が聞こえてきて、なんとも馬鹿らしい気持ちになってしまい、何一つ打ち込むと言うことが出来なくなってしまったということだった。

 「教えて下さい、この音はなんでしょう。この音から逃れるにはどうしたらいいのでしょう」

 彼の質問に対し、作家の答えはわずか数行であった・・・。

 

 私は1961年生まれだが、この世代は「白け世代」と呼ばれたものだ。

しらけ世代(しらけせだい)は、1960年代に活性化した日本の学生運動が鎮火したのちの、政治的に無関心な世代[1]1980年代には、世相などに関心が薄く、何においても熱くなりきれずに興が冷めた傍観者のように振る舞う世代を指した。

                         Wikipediaより

 

 「白け世代」は、「無気力・無感動・無関心」の三無主義、又はそれに「無責任・無作法」の二つを加えて五無主義などと、その行動様式に名前がつけられたりした。

 「政治や社会活動をしたところで何になる」「出世したって何になる」「人は人、自分は自分、議論したって何になる」、こんな感じに「白けて」しまった若者の「はしり」だったわけだ。と思っていた。

 が、『トカトントン』を読んで、なんだ私達じゃないんだ、「白け」のはしりは、敗戦で価値観が瓦解してしまった戦後の人々の中に既に居たんだと、気付いた次第である。

 「トカトントン」は頭の中に、「そんな事をしたって何になる」というフレーズが流れる合図の音だ。

 「死のう。死ぬのが本当だ」という思いに対して、嘲るように聞こえてくる「死んだって何になる」というフレーズ。このフレーズが恐ろしいのは、「死んで花実が咲く物か」のように、死ぬことを否定しているのではないという点だ。

 「死のう。死ぬのが本当だ」には、天皇に対する忠誠という確固たる信念がある。人生を支える「芯」としての価値感がある。ところが、「トカトントン」がその信念を打ち砕いてしまった。「天皇のために死ぬ?そんな事をしたって何になる?」と。

 これは大変な事だ。それまで、最も固く信じ、命をかけて守らなければならないと思っていた忠誠心さえ馬鹿馬鹿しいものになってしまったなら、何を信奉すればいいのだ。何に熱くなれるというのだ。彼はすっかり「白け」に取り憑かれてしまったのである。

(そう言えば、70年代には「し~らけど~り、飛~んでいく~♪」という歌もありましたね)

 仕事に打ち込もうと思っても、芸術や趣味に価値を見いだそうとしても「トカトントン」。

 恋をしても、スポーツに熱中しようとしても、あるいは労働運動にのめり込んでみようと考えても、ある瞬間、頭の中に聞こえてくるのは「トカトントン、そんな事をしたって何になる?」

 そんな「白け」た思いで身動きが取れなくなってしまった彼が、必死の思いで縋ったある作家。その作家の素っ気ないほどの返信が、この小説の読者それぞれに解釈を迫ることになると思うのだが、私の解釈を次回のブログでは書きたいと思う。

 もし、読者の中でこの小説を読んでみたいという方がおられたら、次回のブログは小説を読んでから目を通して頂くのが良いと思われる。ネタバレになってしまうので。続く。