旅館から玄武洞公園までどうやって行くか。それが問題でした。スマホのアプリで調べても、何だか変な結果が出てくるのです。四苦八苦してたどり着いた結論は、公共交通機関では行けない、と言うことです。
なぜなら、玄武洞は私たちが今いる所から円山川を挟んだ向こう側にあり、そこへは車で行くか自転車で行くかしかなく、と思っていたら、もう一つ方法がありました。
渡し船!
よし、それだ、渡し船に乗ろう!早速予約しました。
川の向こうに見える建物は玄武洞ミュージアム。ここに予約の電話を入れると、私たちが駅につく時間に合わせてボートが迎えに来てくれるのです。
「今朝は結構雨が降ったので、川が濁っています。でも、傾斜が緩やかな川なので、流れはこの程度なんです。この辺はラムサール条約に加盟している湿地帯なので貴重な生物の生息地でもあります。時々、コウノトリも飛んでくるんですよ」
ボートを操りながら、船長さん(?)はガイドもしてくれます。
コウノトリかあ、飛んでこないかなあ。まあ、無理か。そんな事を考えているうちに、あっという間に到着。玄武洞ミュージアムは岩石好きにはたまらない場所らしいのですが、とにかく時間が無い。お昼はバスで50分ほどの出石町で、名物の「出石そば」を食べなければならないのです(夫はそば好き)。何はさておき、玄武洞へ。
玄武洞とは、
国の天然記念物。玄武洞のほか、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞の洞窟が玄武洞公園として整備されている。
約160万年前の噴火によって噴出されたマグマが冷却され、玄武岩溶岩の厚い層が形成された。マグマが冷却される際に体積が小さくなることでできる割れ目(節理)が顕著で切り出しやすかったこともあり、これを人々が採掘し、その採掘跡が洞窟として残った。つまり洞窟は天然のものではなく、坑道・採掘跡地である。
玄武岩の柱状節理によって、洞窟内では亀甲状の天井や5~8角の石柱がみられる。江戸時代後期(1807年)幕府の儒学者・柴野栗山がここを訪れ伝説上の動物玄武の姿に見えることから「玄武洞」と名付けた。
Wikipediaより抜粋
ああ、ここで残念なお知らせです。なんと玄武洞公園は現在工事中で、玄武洞は工事の通行止めの手前から。青龍洞には近寄ることも出来ないのです。
以下、受付の女性と私たちとの会話です。
女性 「申し訳ないです。青龍洞が一番綺麗なんですけど、見られないんですよね」
私 「残念です。ブラタモリでみて、来てみたかったんですよ。あれからお客さん来たでしょうね」
女性 「ええ、あの直後はお客さんあったんですけど、すぐにコロナになってしまって・・・」
夫 「そうなんですか。ところであそこに『大石りくの遺髪塚』という案内表示があるんですが、そのお寺は遠いんですか?」
女性 「そうですね、ここからちょっとありますね。大石りくは豊岡の家老の家の生まれで、赤穂の家老にお嫁にいったんです」
夫 「そうなんですか。今度来たときは是非行きたいですね」
そうなんです、うちの夫は大の『忠臣蔵』好きなんです。大石内蔵助の妻「大石りく」への食いつきは凄かった。私はその時になって初めて、「そう言えば赤穂も兵庫県か。この辺の人にとって忠臣蔵は、めちゃくちゃ身近な出来事なんだろうな」なんて気づいたぐらいです。
それにしても、人の好きなもの、興味の対象って様々あるものですね。『大石りくの遺髪塚』、見たいものですかねえ。まあ、私も「玄武岩って、見たいものですかねえ」と言われると返す言葉はないのですが。
でも、これからお見せする写真をご覧になれば、きっと皆さんも「玄武洞公園行ってみたい」と思われると思います。
そして、玄武洞公園の中をぐるりと巡る、この玄武岩の石段の見事さをご覧下さい。地産地消の最も豪華なお手本という感じがします。
玄武洞公園を見終わり、渡し船の時間まで20分ほどあります。残念ながら、ミュージアムに入るほどの時間はありません。たまたま行われていた杞柳(きりゅう)細工の即売会をみて、(杞柳細工は柳行李の技術を生かして作られる、柳のかごバッグです)
少し早いのですが、川辺に行って風景を見ながら出発を待つことにしました。
川岸を見たことの無いトンボが飛んでいて、撮ろうかなとスマホカメラをオンにしたときです。
遙か向こう、山の上。飛んでる!この距離であの大きさ!
絶対、コウノトリに違いない。写真におさめられるなんて、奇跡!
コウノトリは羽を広げると2mあるそうですが、そんな大きさでした。興奮した~。コウノトリ、ホントにいるんだ~。もっと近くで見たい。再び船の人となりながら、是非もう一度来たいものだと強く思いました。コウノトリのみならず、
・今回見られなかった青龍洞を見なければ
・夫の希望『大石りく遺髪塚』にも行かねば
思い残した事はいっぱいあって、後ろ髪引かれる思いなのは『遺髪塚』ばかりでは無いのでした。続く。
オマケ:「大石りく」についてWikipediaを読んだら、この記述が。
大柄だったといわれ、身長は6尺(180センチ)あったともいわれる。
ホントかしらね。オオサンショウウオと言いコウノトリと言い、そして大石りくと言い、このあたりではみんな大きく育つのね。豊岡、「豊か」という字はダテじゃ無いぜ。