おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

太宰治『皮膚と心』を読んで(読書感想文)

 今更ですが太宰治にはまって、『皮膚と心』という短編を読みました。ので、感想文を書きます。

 

 作品の体裁は、女性の一人語りです。主人公がどういう女性か知って頂くために、最初にざっくりまとめます。

 

 三月に結婚致しました私どもは、弱く貧しい者同士でございます。特に私は母一人に妹の、女三人の弱い家庭でございますし、もう二十八のいい加減おばあさんです。ご覧の通りおたふくゆえ縁遠く、結婚は諦めておりました。

 あの人の方は小学校をでたきりで、親も兄弟も無く、財産など有るはずも無く。少し腕の良い図案工ということで。それに、初婚ではなく・・・。

 あの人は私の顔の数々の欠点を笑わず、 

 「いい顔だと思うよ。俺は、好きだ」

 そんな事さえ仰ることがあって、私はどぎまぎして困ってしまうこともあるのです。先の女の人のことなども、これっぽっちも匂わしたことがございません。

 それなのに、私どもはお互いに不器用で、自分を卑下して、他人行儀に甘えることも出来ず、侘しささえ覚えることもありました。

 六月でした。ぽつんと出来た胸の吹き出物が、明くる朝には体中、トマトが潰れたみたいで、豆粒ほども大きい吹き出物が一面に吹き出て・・・

 

 この吹き出物がきっかけとなって、主人公に一大転機が訪れるのです。主人公は大変謙虚で、思慮深くもある女性です。そして、夫を敬いもする。

 そんな彼女に、本性を見せろとばかりに出現したのが、醜い吹き出物だったのです。

 自分を「おたふく」と卑下しながらも、吹き出物一つ無い肌は、実は彼女の自慢でした。二十八のおばあさんと自嘲しながら、青春の美しさを諦めきれないでもいるのです。先妻のことは忘れていると言うものの、本当のところは?  

 また、同情から結婚した夫に次第に惹かれ、見直すかのように美点をあげてはいるものの、その目線はどこか、「上から」ではないか。

 

 私はこの主人公の姿に、中島敦山月記』の李徴の姿が重なるのです。

 李徴は「臆病な自尊心と尊大な羞恥心、それが虎なのだ」と語ります。

『皮膚と心』の主人公にあっては、「謙虚を装う自尊心、素直になれない羞恥心、それが吹き出物なのだ」と思うのです。

 でも、それは決して李徴のように過酷な運命をもたらすものではありませんでした。むしろ、神様からの贈り物ともいうべきものだったのです。

 病院の待合室で彼女は自分自身と向き合います。そこで出会った自分の姿は、美しい皮膚の下に押し隠してきた、欲望や嫉妬にまみれた、きれい事抜きの本当の自分でした。そして、虚飾を捨て去った目で見る夫の、なんと頼もしいことか。そんな夫に垣根をこしらえていたのは、ただただ自分の自尊心と羞恥心を守りたい、その一心に過ぎなかったわけです。

 主人公の皮膚病はあっけなく治ります。同じようにこの夫婦の仲も、遠慮が過ぎて変にこじれてしまう前に軌道修正が出来、本当に良かったと思うのです。吹き出物は軟膏で治りますが、こじれた夫婦関係を修復するのは難航しますからね。

 先に、主人公の吹き出物は「神様からの贈り物」という表現を用いました。この作品には、「市井の片隅で貧しくも実直に生きる人々に、ささやかでも幸せが訪れて欲しい」、そんな太宰の、祈るような願いが込められているのではないか。そんな読後感の作品でした。では。