おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

教皇・ボニファティウス八世の死因は「憤死」

「憤死した」って、何?って思いませんか?どういうこと?私はそういうの、凄く気になるたちなんですよ。で、憤死したボニファティウス八世について、ネットで調べたりするわけです。

 世界史は興味あります。でも、得意ではないので、こんな風に、行き当たりばったりに「勉強」していきたいと思います。そして、「勉強」の成果をブログに書いて復習し、記憶の定着もはかりたい。よろしければ、お付き合い下さい。

 

 先日、テレビがきっかけで、ローマ教皇・ボニファティウス八世についてググったんです。そうしたら、面白い逸話が次々と。

オマケに、彼ゆかりの大学の写真を、偶然にも持っていたことも判明したんです。

ローマ・ラ・サピエンツァ大学」1303年、ボニファティウス八世により創設。

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ボニファティウス八世は、学術・文化の保護者でもあった 

 

ローマ教皇・ボニファティウス八世(1235年~1303年)とは。

 ①前任者のケレスティヌス5世を辞任に追い込む

  そのやり方がエグい。部下に教皇の寝室まで伝声管を引かせて毎夜「辞めろ」と ささやき、教皇不眠症にして辞任に追い込んだ。

  (ちなみに、次に教皇が自らの意思により退任するのは、2013年のベネディクト16世

 ②賭博・女・酒・美食が大好きで、「最後の審判」を信じていなかった

  「自分の身さえ救うことの出来なかった男(イエスのこと)が、他人のために  何をしてくれようか」と公言したとされる。

 ③1303年、アナーニでフランス王の意を受けた者に捕縛され、退位を求めらるも拒絶。

  顔をなぐられ、法王の印である「三重冠」を奪われ、さらに「祭服」も脱がされるという、屈辱・恥辱を味わう。(世に言う、アナーニ事件

 ④救出されるも、翌月、高齢と腎臓病と③の精神的ダメージにより、死去

  人々はこの死を「憤死」と表現した。(そういうことか!)

 ⑥ダンテを永久追放

  ダンテは『神曲』で、ボニファティウス八世を地獄に墜ちた教皇として描く。

 

  ざっと、こんな感じで、そのまんまでドラマに出てきそうな人物ですね。でも悪役ですね、絶対。「憤死」のイメージもつかめたので、スッキリです。

 

『ボニファティウス』とはラテン語の呼び方で、同じ人名をイタリア語では、『ボニファーチョ』と呼ぶのだそう。日本語の『太っちょ』とか『横っちょ』・『先っちょ』みたいで可愛らしいですね。

「ボニファーチョ、ちょっと」「ちょ、待てよ」なんて会話、楽しくない?