おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

あざとうまい寺山短歌

 5月4日は詩人・劇作家、寺山修司の命日で、青森県三沢市の「寺山修司記念館」では「修司忌」が行われました。友人に誘われ、行ってきました。

 

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 「寺山修司記念館」の広い敷地には歌碑が建てられ、それらの短歌をゆっくりと味わいながら散策したのですが、寺山の早熟ぶりには改めて驚かされました。

 

 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり

 

 この有名な歌は寺山が高校生の時に作ったということで、スゴいですよね。ちょっとネットで調べたところでは、「両手を広げている」という描写が「演劇的で大げさだ」という批判もあったりするようです。

 そして私はその批判を知って、「私が感じていたのはそう言う事だった」と自分の胸の内がすっきりとし、同時に「演劇的で大げさ」とは寺山に対する最大の賛辞ではないかと思いました。

 「映画や舞台のワンシーンのようだ」という表現がありますが、寺山の短歌はまさにそれを狙っているのだと思うのです。しかも、舞台の第一幕か二幕の終了の、ここで暗転して次の幕では事態が大きく動くという、そういうシーンを思わせるのです。それを狙っていると思うのです。

 最近「あざとかわいい」という言い方を良く目にしますが、寺山は「あざとうまい」。本当にあざとうまい!そして、それが寺山短歌の弱点でもあったのかなあと、門外漢の私は勝手に考えます。

 以下、短歌素人の私が、勝手に妄想を炸裂させてみたいと思います。お付き合い下さい。

 

(例1)海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり

 病弱で深窓の令嬢である少女 「海を見てみたい。でも無理よね。ゴホ、ゴホ」

 貧しい村の少年 「なんだお前、海も知らねえのかよ。海ってでっかいんだぞ。よし、俺が連れてってやる。行こう」

 舞台は暗転。声のみ「お嬢様、お嬢様、お嬢様がいらっしゃらない!」

 

(例2)君の歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えんとする

 貧しいながらも希望に胸を膨らませる、若い二人。狭いアパートの一室はやっと辿り着いた二人だけの隠れ家。そこに、不吉なノックの音。

 「俺だ。○○夫だよ。助けてくれ、追われてるんだ、助けてくれよ」

 顔を見合わせ抱き合う二人。暗転。

 

 まあ、こんな感じで妄想は続くのですが、読者の皆さんも疲れるでしょうからこの辺にしておきたいと思います。

 下にいくつか有名な歌を紹介しますので、是非皆さんも妄想を膨らませて寺山劇場を楽しんでみて下さい。

 

 売りに行く柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 走りきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし

 かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭

 

 ところで蛇足ですが、『少年ジャンプ』連載の『ワンピース』という漫画はご存じでしょうか。主人公は体がゴム人間の「ルフィ」という少年です。

 上で(例1)として私が考えた妄想ストーリーを今一度思い出して下さい。そして、その少年を「麦藁のルフィ」だと考えてみて下さい。

 ルフィ 「おめえ、海も知らねえのかよ。こ~んなにでっかいんだぜ」

 令嬢  「まあ、海って果てが見えないほど大きいんですのね。見てみたいわ」

 ルフィ 「よし。俺が連れてってやる」

 令嬢  「ま、ルフィさん、何を。私、こう見えて結構重い、ルフィさん、ルフィさん」

 

 こんな感じ?でも最後は絶対にハッピーエンド間違い無しですね。(本当は令嬢のセリフの中に、ゴムのダジャレで「ごむたいな」というのを入れたかったのですが、時代劇になってしまうので諦めました。残念)では。