おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

祝 私のブログ三周年!

 読者の皆様に支えられ、2018年5月6日にスタートした拙ブログも三周年を迎えることが出来ました。最近はネタ切れ気味ではあるものの、なんとか継続できており、世の中にダジャレを発信できておりますこと、本当に嬉しく思います。

 

 ブログと同じく、ここ二、三年嵌まっているものに太宰治の小説があります。友人に勧められたのをきっかけに読んでみたところ、存外の面白さでした。しかも、読了後、感想をブログに書くという一石二鳥の収穫もあるのです。太宰の小説の感想は太宰ファンのお陰か、結構なアクセス数(自分比)になることもあり、小説の味わいとは別な「うま味」もあるのです(デヘヘ)。

 一昨日、その友人から強く勧められ、『駆込み訴え』という短編を読みました。感想を書こうかなとも思いましたが、この小説は勢いのある文体が大きな魅力なので、興味のある方には実際に読んで頂きたいと思いました。青空文庫にあります。感想を書くことはどうしてもネタバレとなってしまうので、今回は止めておこうと思います。そのかわり作中に登場する人物のことで、小説の本筋からは外れた内容ですが、書きたいと思います。

 

 新約聖書に登場するマルタとマリアという姉妹がいます。

 画像はWikipediaから。立っているのが姉・マルタ。座っているのが妹・マリアです。

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 『マリアとマルタの家』 ヨハネス・フェルメール

 

 訪れたキリストをもてなそうと、マルタは厨房で大忙しです。ところが妹のマリアはキリストの足元に座り込んで、お話を聞く事に夢中です。たまりかねてマルタは言いました。

 

 マルタ  「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい」

 キリスト 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」

 

 この逸話を巡ってはキリスト教徒の間でも、様々な解釈があるようです。でも私はキリスト教徒ではないので、「解釈」ではなく「感想」を述べたいと思います。

 

 「そうなのよねえ、お姉ちゃんって損な役回りよね」。弟が二人いる長女の私は、マルタの不平不満が良~くわかります。漫才の「かしまし娘」の次女が長女に向かって、「お姉ちゃんばっかりや」と僻むセリフがありますね。でも、現実のお姉ちゃんはむしろ、用事をいいつけられたり我慢を強いられたり、「私ばっかりや」と悲しむ事が多いような気がします。(そう思うのは、私ばっかり?)それなのに、主はそんな妹を叱るどころか「良い方を選んだ」と褒めたりして。これじゃあ、マルタは報われない、そんな風に思っていました。何年か前までは。でも、この頃はちょっと別なことを思うようになりました。

 マルタもマリアも、「そう言う風にしか」出来ないのだろうと、そんな事を思うのです。

 「お料理などいいから座っておいで」。そんな風に言われたとしても「そうはいかない」と立ち働いてしまうのがマルタという人なのです。

 「なぜ手伝わないの?」と責められても、「えっ?」と、気づきもしなかったという反応を見せるのが妹・マリアという人。それぞれ持って生まれた「役割」というものがあり、各々がその役割を務めるしかないのだろうと思うのです。

 上のマルタとキリストの会話を読み返してみると、キリストの「それを取り上げてはならない」という言葉は、マルタを否定すること無く、それでいてマリアを庇うという、それぞれを肯定している言葉なのかなと、そんな風に読み取りました。

 

 太宰の『駆込み訴え』を読んでみようかなと思われた方、私のこのマルタ・マリア姉妹の逸話の紹介が、少しでも読書の楽しみを増すことに寄与できれば嬉しいです。

 また、Youtubeには『駆込み訴え』の朗読動画もありまして、この小説は朗読で聞くのもとても面白いので、そちらもお勧めです。読むなり聞くなり、「良い方を選ばれ」ますように。

 今日は拙ブログ三周年にあたり、「それを取り上げてはならない」というお話を取り上げてみました。こんな事をつらつら書いて楽しむのが私という人の役割であり、それに付き合って下さるのが読者という人の役割なのでしょうか。どうぞ、今後とも宜しくお願い致します。では。