1年前、青森県立美術館にて開催された、
『遙かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア』。
一番心に響いたのは、展示されていた作品ではなく、四人の少年の一人、伊東マンショのあるエピソードでした。
1585年3月、天正遣欧少年使節一行はトスカーナ大公国訪問。主席正使・伊東マンショ(当時15,6才)は舞踏会で大公妃ビアンカ・カペッロと踊ったという。
美貌で知られた大公妃は、面白半分、からかい半分で、遠く海を越えてやってきた見慣れぬ容貌の少年をダンスに誘ったのでしょう。ダンスなど知る由もないどころか、女性に手を取られるという経験さえなかったと思われる伊藤少年。その時彼が思ったのは「自分は藩の正使である。見苦しい振る舞いをしてはならぬ」ということでした。少年は臆すことなくフロアに立ち、何度も間違いながらも懸命に一曲を踊り終えたのです。ビアンカと少年が踊る様子を見守っていた大公を始め、居並ぶ貴族達は、少年の堂々とした態度に感嘆の眼差しを向けたと言うことです。
これをなんと表現しましょうか。立派、勇気がある、度胸がいい、肝がすわっている、などなど。いろいろな褒め言葉を検討した結果、「豪胆」に決定します。
15,6才の少年をして「豪胆」たらしめる、武士の教育とは凄いものです。
蛇足ですが、長い航海を共にした使節の四人の少年の最期に触れたいと思います。
伊東マンショ、1612年、長崎で病没。千々石ミゲル、後に棄教。中浦ジュリアン、1633年、長崎で穴づりによって殉教。原マルティノ、1629年、追放先のマカオで死去。