おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)

1961年生まれ。丑年。口癖は「もう!」

ダイヤモンドと鉛筆

 昨夜、NHKBSプレミアムで『刑事コロンボ』をみました。その中でコロンボが容疑者に向かって言った次のセリフに、「えっ」とビックリ仰天。

 「あなたはダイヤモンドは燃えないと知っていた。だから遺体の喉にダイヤを押し込み、火葬した。そして、灰の中からダイヤを回収した」

 嘘でしょう!ダイヤは燃えるって、ずっと昔から私はそう信じ込んできたもの。ダイヤは炭素の同素体だもの、燃えるものでしょう!これはドラマが終わったらネットで調べなくちゃ。

 と言うことで、ネットで調べた結果を書きつつ、更にWikipediaで拾った私的面白ネタも紹介したいと思います。

 

 まず、ちょっと知ったかぶりをして「同素体」なんて言葉をさらりと使いましたが、そこから説明したいと思います。

 同素体とは、同じ元素からなる物質でも、原子の結合などが異なるために、性質が異なっているという「単体」(単一の元素から出来ているもの)の事です。黄リンと赤リンとか、酸素とオゾンとか。そして、炭素もまたいくつかの同素体を持っていて、ダイヤモンドや黒鉛(鉛筆の芯ですね)はよく知られた同素体です。

 ダイヤモンドが燃えると私が信じ込んでいたのは、子供の頃に何かで読むか聞くかしたからだと思います。炭素の「炭」は石炭の「炭」であり、訓読みでは「すみ」。これはもう燃えるものの代表と言ってもいいでしょう。その炭素100%でダイヤモンドは出来ているのですから、燃えると信じ込むのは当然の事でしょう。

 さて、ネットで調べた結果を書きます。

 ダイヤモンドは燃えます。ただし、そのためには相当な高温が必要で、およそ800℃以上と書かれていました。そして、火葬はだいたい1000℃前後の高温になるということなので、遺体が灰になった後にダイヤモンドが焼け残っていることはまず不可能なようです。仮に、何らかの偶然が働いて温度が上昇せずに焼け残っていたとしても、かなりの高温にさらされたダイヤモンドは変色してしまうので、その価値は失われてしまうということになるようです。

 よく「ダイヤモンドは永遠の輝き」というフレーズを耳にしますが、それはダイヤモンドの硬さからの連想で有り、さすがのダイヤも炎には勝てないのです。大きなダイヤをお持ちの方がいらっしゃいましたら、火事にはくれぐれもご用心。

 それにしても、『刑事コロンボ』の制作陣はもう少し慎重に脚本を作られては、と思いましたね。

 

 もう一つの面白ネタというのは、Wikipediaの「黒鉛」から「鉛筆」にとんで知ったものです。

 鉛筆の削り方に「貧乏削り」「泥棒削り」と呼ばれるものがあるそうです。皆さんはご存じでしたか。私は知りませんでした。

 

貧乏削り・泥棒削り[編集]

両端を削ることを地方によっては貧乏削り・泥棒削りと呼ぶ。前述したように、鉛筆は複数本用意するのが基本だが、鉛筆の両端を削れば2本分として使える。これを貧乏削りと揶揄する。貧乏削りは有効利用できる長さが短くなり不経済な使用法でもある。

学用品としての鉛筆は、削らない側の端部の一面の塗装を薄く削ぎ、露出させた木地面に氏名などを書くことがよく行われた。この記名は、盗んだ鉛筆を「貧乏削り」すれば違和感なく削り落とすことができる。そこで、そのような窃盗の証拠隠滅が疑われる使い方を、「泥棒削り」と揶揄した。  

                      Wikipediaより

 

 これはつまり、「貧しい時代の日本」の子供の生活を語っていると思うのです。鉛筆を何本も買って貰えない家の子は、1本を2本分として学校に持っていく。中には欲しくて欲しくて、級友の鉛筆を盗ってしまう子もいたでしょう。確かにそういう時代があったなあ。昭和36年に青森県の端っこに生まれた私は実感として分かる気がします。と同時に、そういう胸が苦しくなるような「貧困」は過去の事だとも思っていたのです、この日本という国においては。

 ところがどうでしょう。ご飯が満足に食べられない子供、そして生理用品にも事欠く女性達がいるという現実。それでいながら、皆が普通の格好をして、ゲーム機やスマホは持っていたりするのでしょう。何が間違っているのか、どこで間違ってしまったのか。右肩上がりの昭和を生きてきた身としては、今のこの現実があの頃の未来なんて、情けない事ですが全く理解が及ばない状況です。

 あの頃、ダイヤモンドのように華やかに輝きを誇った日本。そしてバブルの熱に浮かされた後に残ったのは、高熱にさらされたダイヤのように、なんだか色あせた今の日本なのかなと、そんな事を思いました。では。